第三話
あれから校内をくまなく探し回ったがカノンは見つけられず、時間だけがいたずらに過ぎていった。がむしゃらに走り回ったせいで足が棒のように強張っている。
握りしめたままの革袋を見つめる。
中身のマウスピースが何を意味するのかは知らないが、カノンにとって何よりも大切なものだったはず。これを他人に触れられることをひどく嫌っていた。
嫌な予感がする。まるで作家が筆を折るのと同じような、そんな感覚が置き去りにされたマウスピースから感じた。
俺の所為だ。俺が肝心なところで二の足を踏んだから。
ありとあらゆる言葉で自分を罵っても、肝心のカノンの調子を戻す方法が思いつかない。カノンを見つけたとしてどんな言葉をかけてやればいい。そもそもどうして俺にだけカノンの音に違和感を覚えるのか。カノンの本当の音とは何なのか。
何も見つけられないまま、音楽堂のロビーに戻ってくる。
俺たちの出番は目前に迫っていた。
ふとカノンと出会った場所に足が向かう。そこは校内で活動する音楽団体の活動が記録されている場所だった。トロフィーや、賞状、部活創設時の写真が飾られている。
あの時、カノンは物憂げに写真を見ていた。
順々に写真を見ていく。集合写真のように規律正しく座っている写真もあれば、戦隊物のようにポージングしている写真、伝統衣装で決めている写真など団体によって様々だ。
その中の一つ、青空を切り取ってきたような額縁に収まる写真に視線が釘付けにされた。
『第三軽音楽部』とネームプレートが張られた写真。
黒髪の生徒に混ざって一人だけ金色の髪の女の子が、満面の笑みでピースをしている。
俺はこの女の子を知っている。
「この人、あの時の」
記憶にあるよりも幼いが間違いない。河原で出会った女性だ。ぼんやりと霧の掛かっていた女性の顔がはっきり浮かび上がってくる。
ミルク色の肌、飴を溶かしたような琥珀色の瞳、その瞳の光を和らげる睫毛。
「こんなところで写真なんて見てる暇あるのか?」
突然声をかけられ我に返る。
「店長……ここ禁煙です」
「こまけぇこたぁいいんだよ」
人気がないことをいいことに悠々と煙草をふかしている。
「それにしても懐かしいな」
吐き出す煙と一緒に自然と言葉が零れる。
「店長、この女性って」
「カノンの母親だ。彼女は留学生としてこの高校に来たんだ」
昔を語る店長の表情は、ここではどこか遠くを見つめている。
「美しい見た目に反して自由奔放でやりたい放題な性格でさ。立ち止まることを知らず、いろんな人を巻き込んで動かした」
店長は胸に溜まった全てを紫煙と共に吐き出すと、携帯灰皿で煙草の火を消した。人気のいないロビーに、夏が始まる気配と、煙の匂いが混ざり合う。
「カノンのお母さんは」
ひどく嫌な予感がしたが、この質問をせずにはいられなかった。
「二年前に死んだんだよ。破天荒な性格なわりに身体が弱かったんだ。子供まで生んであの歳まで生きられたのは奇跡だよ」
カノンが活動を休止したのも二年前。母親の死が関係していることは間違いない。
「カノンがここに来たのは、母親の母校だったから。なんですね」
「それだけじゃない。あの子は母親の背中を追いかけてる。母親の残したものを一つ一つ拾い集めるようにしてな」
「どうしてそんなこと」
「本当はヒロが本人から聞くのが理想だったが、そんな時間もないか」
躊躇いの表情で店長は写真をじっと見つめる。
「自分の音が見つからない。あの子はそう言って泣き叫んだらしい」
偽物とは自分の音のことだったのか。カノンの泣き叫ぶ姿が想像できない。
「あれだけの音が出せているのに、贅沢な話だと俺には思うけどな」
「そう……ですね」
店長も、カノンの音に違和感を覚えている様子はなかった。
もう一度、写真の中の女の子を見る。無邪気な笑顔はこちらまで明るい気持ちにさせる。
彼女の音は今でも俺の中に鳴っている。自由で奔放で、何物にも捕らわれない、優雅に大空を舞う音。
カノンの音はリズム隊のレールを寸分の狂いもなく走り抜けるような音だ。
俺が感じていた違和感や距離は、もしかしたらここにあるのかもしれない。
でも、どうやって伝えればいい。
君の音は俺の中に鳴っている音じゃありません。そうやって自分の価値観を押し付けるのか? それでは本末転倒だ。自由な音なんて生まれない。
「お前はアホか」
店長は黙り込んだ俺の尻を思いきり蹴る。声が凍り付くほどの激痛が、臀部から全身に広がる。
呻りながら店長に非難の視線を向けるも、本人はあっけらかんとしてた。
「何か思うことがあるなら、はっきり言えよ。お前はバンドのリーダーだろう?」
「俺がリーダーなんて……」
思わず声を詰まらせる。俺にそんな資格があるのか。
「あのメンツを集めたのは誰だよ」
「……俺です」
「だったらリーダーはお前しかいないだろう」
その時の店長の顔は、いつもの緩みきった浪人顔ではなく、真摯に何かに向きあう男の顔をしていた。普段、曇りがちな双眸には純粋な色が浮かび上がっている。
「バンドリーダーっていうのは、自分が思い描いた音に必死にならなきゃいけね。たとえそれが人を傷つけることになったとしても。真正面からぶつかろとしない奴に良い音なんて出せるはずねーよ」
「……」
俺は素人だからと一歩下がってバンドを見ていた。自分の意見は無意味だと勝手に決め受けて。自分の意見が否定されることを怖がっていても何も生まれない。
当たって砕けろの精神は、上達していく過程で落としてしまっていたみたいだ。
初心を忘れるべからず。
頭の中で空を翔るトランペットの音が響く。
俺は塞ぎ込むようにトランペットを吹くカノンに、自分が大切にしてきたものを台無しにされたようで、腹が立ったんだ。色々つらいことがあるのかもしれないが、それがどうした。だから何だって、言ってやりたかった。
今だってそうだ。違和感とか、距離とか、そんなこと一切関係ない。だから何だ。
俺の望みは心が弾んで、踊って、昂る演奏をカノンとしたい。
最高の瞬間を共有したい。
ただ、それだけ。
俺はただ、カノンに笑って音を鳴らしてほしい。
「目が変わったな」
「はい。ありがとうございます」
やるべきことはとっくに決まっていた。その覚悟もいま決まった。
あとは迎えに行くだけ。
「カノンを捜してきます」
「カノンちゃんならここだろうさ」
店長は当然とばかりに写真を指さす。
屋上。母親の軌跡を辿っているカノンなら確かにそこにいる。
「行ってきます」
覚悟の一歩を踏み出そうとした時、大ホールの方から拍手の音が微かに漏れてくる。
俺らの一つ前のバンドが演奏を終了したことを知らせていた。
時間が来てしまう。大切なことに気づくのが遅かった。
ポケットにしまっていたスマホが鳴る。
『カノンちゃんは』
「まだ見つからない」
『……そっか』
電話越しでも落胆している姿が想像できた。
「少しだけ時間を稼げないか」
『え? 時間を稼ぐ?』
「心当たりがもう一か所だけあるんだ」
『でも……』
『仕方ないわね』
『こうなると思っていたよ。でもフレットレスなんて弾けるかな?』
『仁なら当然弾けるでしょ』
電話の奥で小川先輩と亀田先輩の声がする。
『もしもしヒロ君。少しベースを借りるよ』
「ベースを借りる?」
先輩たちはいったい何をしようとしているのだろう。
『こっちの心配はいらないわ。あたしの美声で魅了してあげるから。だからさっさと連れてきなさい』
それってつまり、代わりに演奏をして時間を稼ぐということか。
お願いしといてなんだが、ぶっつけ本番で演奏とか、むちゃくちゃだ。
『もしもし、ヒロくん。これは色々と引っ掻き回したヒロくんの責任だからね。だから最後の一人もちゃんと連れてきて。連れてこなかったら二度と口利いてあげないから』
「わかった。必ず連れていく」
『信じてる』
慌ただしく電話が切られる。
限界を訴えるように震える足に鞭を打ち、屋上に向かけ全力で走り始めた。
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