第二話

 朝、昼、放課後、バイト中、家、すべての時間をジャズに費やした。時間はいつもの数倍の速さで過ぎていき、気がつけば明日が本番となっていた。


「よし。今日はここまでにしよう」


 一通りの練習は終えて片づけを始める。

 やれることはすべてやりきった! と胸を張って言える状況ではなかった。

 先日の頑張る宣言の通り、演奏緒はさらに磨きがかかったように思える。しかし、以前から感じている違和感が無くなるどころか、寧ろ、はっきりと形を見せていた。

 これはいったい何なのだろう。

 赤子の頭を撫でるようにトランペットをクロスで吹くカノンを、肩越しに振り返りながら見る。特に変わった様子はない。


「どうしたの? 何か気になるところあった?」

「ないよ。ついに明日だなって思って。ちょっとトイレ行ってくる」


 咄嗟に誤魔化すと、片付けを三人に任せて、防音質を出る。

 変に思われただろうか。

 鈴葉と戸神は違和感を覚えていない。

 やっぱり、気の所為なんだ。気にする必要なんて、


「っ!?」


 飛び出しそうになった悲鳴をなんとか飲み込む。

 手を洗い終えて鏡を見ると、鏡越しに唯敷さんがこちらを睨んでいた。

 間違えて女子トイレに入ったのかと思い、内装を確認する。

 青を基調にしたモザイクタイル、小便器が4つに個室が2つ。

 間違いはない。


「ここ男子トイレだけど」

「そんなことはどうでもいいのです」

「よくないと思うけど」


 いったい何の用があってこんなところに来たんだ。本人はあっけらかんとしているが、この状況は異常だぞ。

 早くこの場から立ち去りたかったが、入口は唯敷さんに抑えられてるし、窓はあるがここは三階だ。逃げ道はどこにもない。

「何か隠していること、ありますよね?」

 鋭い目つきからは、不正や誤魔化しを一切許さない厳格さがにじみ出ている。

 何を企んでいるか知らないが、ここはしらを切ろう。


「特にないよ。バンドは順調だし、賞が取れるかどうかはやってみないとわからないけど、俺が足を引っ張らなきゃ大丈夫だよ。カノンだけじゃない。あのバンドは俺以外は本当にすごい演奏をするから」

「嘘が下手ですね。聞かれてもいない事を話しすぎです」


 僅かな変化も逃すまいと、俺を凝視していた唯敷さんは、呆れて物も言えないといった表情をして、俺から視線を外した。

 冷静になって、自分の愚かさに気が付く。

 男子トイレに侵入されているこの状況が、冷静さを欠如させていた。こうなることも唯敷さんの思惑通りなのだろう。


「それで、あなたは何を隠しているんです」


 突然、狩人の目に変わる。唯敷さんが何を考えているのかわからなかったが、逃げきることはどうもできそうにない。


「カノンのことなんだけど」

「何かわかったんですか?」


 言葉では平静を装っているが、餌に食いつく勢いで俺を奥の壁まで追いやる。

 きっと唯敷さんもカノンの事が気になっているに違いない。

「悪いけど唯敷さんの期待に応えられそうにないよ。それより、ちょっと落ち着いて」

「し、失礼しました」


 距離を取り姿勢を正すと、呻るように息を漏らした。


「あの子はあなたにすらここに来た理由を話さないのですね」


 唯敷さんの表情から失意の色が伺える。

 自分の過去なんて簡単に話せないし、カノンの性格じゃ尚更だろう。自分の問題は結局のところ、自分にしか解決できない。


「こんなことを言うと誤解されるかもしれないけど、俺はカノンがここに来た理由に興味はない。俺はカノンの本当の音を聴きたいだけだから」

「あなたらしい答えですね。しかし世の中には聞いてもらうだけで、解決するような話もあります」


 唯敷さんはカノンの事を嫌っているわけではない。本当は何かに悩んでいるカノンを救いたい。けれども、そのやり方がわからない。そんな風に俺には思える。


「ところで、あなたの隠し事なんですが」

「そうだった。唯敷さんはカノンの演奏をどう思う?」

「完璧ですよ。非の打ちどころがない」


 即答。考えるまでもないということか。


「何かあるんですね」


 唯敷さんの問いかけに小さく頷く。


「さっきも言ったけど俺はカノンの本当の音が聴きたい。だけど今の音は何かが違うんだ。うまく言えないんだけど。何だか、カノンが吹いているように感じないというか、遠くにいるように……っ!」


 心臓が杭を打ちつけられたように大きく跳ねて、俺の視線は唯敷さんの後ろに釘付けになる。

 金色のツインテールが吹き抜ける風に弄ばれるように揺れている。

 一番聞かれたくない相手に聞かれてしまった。


「カノン」

「そんなこと思ってたんだ。完璧って言ったくせに」

 カノンの表情は家族に裏切られたような悲愴の色が伺えた。大きな瞳からは落胆が見えて光を失っていく。


「うそつき」


 それだけ言うと、カノンは身をひるがえして走り去っていった。

 追いかけるべきか。それとも少し時間をおいて。いやいや、追いかけるべきだろう。でもどうやって説明する。自分自身でもよくわかっていないというのに。

 そんなことを考えている内にカノンの姿はどこにも見えなくなっていた。


――うそつき――


 たった四文字が、胸を万力で締め上げ苦渋の溜息が漏れ出た。



 気が付けば本番当日の朝を迎えていた。

 居ても立っても居られず、かなり早くに学校に到着する。

 大仰な立て看板や、飾り付けがされた校門をくぐる。華やかな飾りつけとは裏腹に俺の気分は沈んでいた。

 もう一度、カノンに電話を掛けるが、電源が入っていないことを告げる機械的なアナウンスが流れるだけ。

 昨日から、何度も電話をかけたが出てもらえず、最終的には電源を切られてしまった。

 重い足を引きずって部室に向かう。

 もしかしたらステージに立ってくれないのではないか。そんな不安が頭をよぎり、昨日は殆ど眠れていない。


「カノン……」


 部室にはすでにカノンがいた。

 安心したのも束の間、カノンは不安げに琥珀色の瞳を震わせて、朝日を反射して輝くトランペットを見つめている。

 入ることを躊躇ったが、このまま外で立っているわけにもいかずゆっくりと扉を開く。


「おはよう」

「……おはよ」


 俺に気づいてもカノンはこちらに視線を向けることはしなかった。


「あのさ昨日のこと、なんだけど」

「いつから思ってたの?」


 こちらが心配になってしまうほどに、カノンの声には覇気がない。


「結構前から、というか、初めから……ごめん」

「別に謝ることじゃない」


 一度崩れてしまった信頼関係は俺たちの間に決定的な溝を作っている。


「そうと決まったわけじゃいよ。俺の気のせいかもしれないし」

「気休めはやめて」


 図星を突かれ、言葉を失う。


「ヒロは自分は初心者だって思ってるかもしれない。演奏は確かにそうだけど、耳は確かよ。素人が努力したでけじゃ、こんな短期間でフレットレスベースは弾けないんだから。それにヒロはグルーブを聴き分けられる感覚を持ってる」


 いつもは立ち直れない程に貶す癖に、こんな時に褒めるなんていったい何を考えているのか。そんな態度はまったくカノンらしくない。


「私の音は偽物なの。ヒロが違和感を覚えて当然」

「偽物? それってどういう意味だ?」

「うわ、二人とももう来てる。私が一番乗りだと思ったのに」


 本番当日でテンションの上がった鈴葉が俺の言葉遮るようにして、部室に入ってきた。


「カギ貰ってくるから、準備お願い」


 何も聞き出せないまま、カノンは避けるように部室を出て行った。

 このままというわけにはいかない。違和感の原因を突き止めてなくてはならない。

 時間は刻一刻と迫っている。



「なによ。これ」

「これじゃ発表できないね」


 差し入れをもって様子を見に来た先輩方は、俺たちの演奏を聴いて容赦ない評価を下す。

 昨日までの完璧な演奏はどこに置いてきたのか、カノンはミストーンを連発し、音も吹けば消えるろうそくの灯のよう。

 カノンに問題があることは明らかだった。


「カノンちゃん体調悪いの?」

「別に緊張して眠れなかっただけ」


 プロならもっと緊張する場面を経験しているはず。しかし、眠れなかったのは本当のようで、目の下にはくまが出来ている。


「もう一回やろうか。気合い入れてこ!」


 その後、何度演奏しても、カノンの調子が戻ることはなかった。

 カノンは今にも泣きだしそうな顔でトランペットを見つめている。俺はカノンのこんな顔を見たかったわけじゃない。


「……ごめん。一人で練習させて」


 防音室から出て行くカノンを誰も止めることはしなかった。

 カノンの明らかな違いにみんな戸惑っていた。

 演奏中に何度も合った視線が、今日はまだ一度も合っていない。

 すぐに何とかしないと取り返しがつかなくなる。

 解決が見出せないまま時間だけが過ぎていく。

 カノン抜きで合わせても、主役のいない舞台のように味気なかった。もはや俺たちの演奏はカノン抜きでは成り立たなくなっている。


「気合いの入っていない腑抜けがもう一人いるわね」

「自覚はないみたいだけど」


 先輩方の嘆息のような指摘に、みんなの視線が俺に集まる。


「え? 俺?」

「リズムがガタガタだよ」

「さすがにフォローしきれない」


 全員から非難を浴びる。音は正直だ。自分の心の内が全て露呈しているようだった。


「こうなったらみんなで解決するしかないわね」


 小川先輩の提案に一同賛成する。


「じゃあ、ヒロくんがカノンちゃんを迎えに行って」

「俺が?」

「当たり前だろう。ベースは預かるよ」


 亀田先輩の有無を言わさぬ笑顔で俺からベースを取り上げる。


「……わかりました」


 楽器を没収されて、防音室から追い出される。

 とりあえず、カノンがいるだろう部室に向かうことにした。



 他のバンドはすでに演奏を開始している。俺たちの出番は後ろの方とはいえ余裕があるわけじゃない。それにも関わらず俺の足取りは速くなるどころか、むしろ亀のように遅い。


 カノンの調子が崩れた原因。俺であることは間違いない。


 それに今朝言っていた、偽物という言葉。


 いったい、何と対比して偽物と言ったのだろう。

 何度思い返しても心当たりがない。

 答えが出ないまま部室に到着してしまう。


 今はどうしたらカノンが最高の演奏を出来るかを考えよう。それ以外は考えるだけ無意味だ。


 しかし部室にカノンの姿はどこにもなく、代わりに机の上には革袋と、こちらにサインを送るように光を反射する、漏斗のような物が置き去りにされていた。


 トランペットのマウスピース。今ならそれがどれだけ大事なものかわかる。


 初めて出会った時、あんなに必死になって探してたそれをこんなところに置き去りにするなんて。


 事態は最悪の一途をたどっていた。

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