第四話 溺れるものは藁をもつかむ

 タクシーの中では、運転手のおじさんが気を使って英語でいろんな話をしてくれた覚えがある。


 残念ながら、語学力のとぼしい自分には理解できない話が多く、とりあえず笑顔でイエスイエス・アーハンと知ったかぶりをすることしかできなかったのが悔やまれる。


 どのくらいの時間がかかったかは記憶にないが、知ったかぶりの英語でのコミュニケーションの後、日本国総領事館に到着した。この時、払った金額がいくらかも覚えてないが、ぼったくりだろうと何であろうと、ここまで連れて来てくれたことに感謝を示し、言われた値段を払い、なんちゃって中国語でシェシェ、シェシェとお礼を言ってタクシーから降車した。


 そして希望を胸に領事館へ入ろうとしたところ。門の辺りで警備員に止められた。非難する目で警備員をにらんだが、彼はおもむろにある場所を指さした。そこには、開館時間が記されており、何時から何時までかは記憶が定かではなかったが、とうに開館時間を過ぎており、入ることはできなかった。


 また途方にくれた。このままでは野宿が確定すると。


 ともかく行動せねばと思い、次は目的地に早く行くために、駅を探した。しかしながら駅という漢字はどこにも見えず、取り敢えずガイドブックのページをめくりながら歩きまわった。


 そして見つけた。駅というのは中国語で火车站フォーチャージャンというらしい。ともかく駅を探し探して歩き回った。どのくらい歩いたかは今となっては分からないが駅らしきものを見つけたときにはオレンジ色の街灯が灯 《とも》り、夜になっていた。


 駅に着いた後、切符を買えばいいのだが、今までの失敗から慎重になっていた。ここで買うべきか買わざるべきか。駅の前には階段か石段のようなものがあり、多くの人が座って談笑するなか、僕は悩んでいた。ここで切符を買っても買わなくても野宿が確定しそうな感じでもあった。


 その時、僕に話しかける老婆がいた。初めは中国語、その次と次は何語か分からない言葉。そして……日本語。


 「オニーサントマルトコショウカイスル」


  たどたどしい日本語であったが、悩んでおり、精神的にも肉体的にも疲れていた僕は、無意識にその日本語に反応し頭をあげてしまった。


 「タダ、トマルトコショウカイスルダケ。アヤシクナイ」


 今思うと、怪しさ満点な言葉であるが、当時の僕にとっては救いの神のようであった。通常の精神であれば、危険な誘いには乗ることもなかったが、疲れ果てていた僕は藁にもすがる想いで、老婆の勧誘に乗った。

 

 その老婆は多少の日本語が喋れるようで、これから車に乗って泊まる場所に行くということを言ってたが、その時は久しぶりの日本語を聞いた安堵や休めることにしか頭が回らず、危機意識などなかったように思う。


 老婆に導かれるまま車に乗った。車の中で多少の日本語と漢字を書いてのやり取りなどで老婆に親近感を抱いていると安心したからなのか、急に不安になった。ここからどこに連れていかれるのかと。向かう先は安全なのだろうかと。


 いざとなったら逃げれるだけ逃げよう。そう思いながら老婆とのコミュニケーションをし、飲み物と食べ物を売ってやると言われたので、喜んで買いつつむさぼっていると、目的地に着いた。見た目は悪かったが、一応宿泊施設のようだった。


 宿に入るとカウンターには香港映画に出てきそうな風貌のお兄さんがいて、老婆がそのお兄さんに話しかけた後、こちらを向いてたどたどしい日本語で言った。


 「ホショウキンヒャクゲン、トマルノ〇○ゲン、ホショウキンモドッテクル」


 確か30元か50元だったように思う。その時すでに日本円での換算など頭に無かったし、野宿じゃなくなった喜びで言われた金額をホイホイ払っていた。考えれば、宿泊代金は1000円にも満たず、とても良心的な宿を紹介してくれたのだと思う。


 そして鍵を貰い、部屋まで老婆に案内してもらい、感謝しながら老婆と別れ、部屋に入った。心配していた危険もなく、おまけに食事と泊まるとこまで用意されていて、気持ちが緩み切り、泣いてしまった。自分の無知さ加減に泣き、そして不安から逃れた安堵からの涙。


 ひとしきり泣き終わった後、疲れと寒さから風呂につかりたいと思った。上海は日本の九州と同じ位、温暖な気候かと思っていたが、現実は違った。上海の6月は肌寒かった。それまで寒さに気づかないほど疲れていた。


 風呂は残念ながらなかったが、シャワーがあったので、文句は言うまい。暖と疲れを取りたいので、シャワーを浴びようと思ったが、このシャワーがじゃじゃ馬であった。なんせ、お湯が出ない。


 しかしながら、汗まみれで寝ることに抵抗があり、すでに素っ裸であった僕は、泣きっ面に蜂とはこのことかと思いながら、水行すいぎょう敢行かんこうした。今となっては話のネタとなり、笑うことができるが、当時は泣きながらシャワーを浴びていたような記憶がある。


 そして、シャワーを浴びて、硬くて薄いベッドに腰かけタバコに火をつけ、明日どうするかと考えていると、おもむろに部屋をノックする音が聞こえた。恐怖のあまり硬直していたが、無用な好奇心が沸き上がってきて、チェーンは外さずに、扉を少し開けた。するとそこには薄いピンク色のシミーズみたいなものを着た、お姉さんとおばさんの間くらいの年齢の、きわどい女性が立っており、何か中国語で言ってきた。しかしながら衝撃のあまり、無表情かつ無言のまま、扉と鍵を閉めた。


 その後もノックは続いたが、ベッドに包まり、少しのスケベ心と恐怖心と戦っている間に、意識を手放してしまったのだった。後から聞けば、ぼったくりかつエッチなマッサージであったらしく、スケベ心に負けなくてよかったと理性の高さに感謝したものである。

 

 


 

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語学力ゼロだった僕が行った世界 @isourounin

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