第5話 階段4

ごろごろと階下まで転がった僕は体の色々なところに痛みを感じたが、そんなことには構わず倒れたまま二階を見上げた。

しかしそこには老婆の姿はなかった。

ただぼんやりとした淡い光が暗闇の上の方に見えるだけだった。


「そんな、どうして! あそこに居たのに!」


僕はよろよろと立ち上がると階段を駆け上がろうとした。

不思議と恐怖はなかった。

僕は二階に行って老婆を探しだし、はっきりと言ってやろうと思ったのだ。

「僕は靴を燃やしてはいない!」と。

しかし体が言うことを聞かず僕は仰向けに倒れてしまった。

急に涙がこみあげてきた。


「僕は本当に靴を燃やしてはいないんだ! 結局、靴は燃えなかったんだ!」


僕は仰向けになったまま誰にともなく叫んだ。

僕は両手で強く顔を押さえた。

――僕は確かに母の靴を燃やそうとはした。

でも、決して僕は血も涙もない悪党ではない。

僕は普段はとても良い奴だ。

あの時だって、一瞬心がおかしくなっただけなんだ。

しかしあの老婆は僕にこう言った。


「生まれてこなければ良かったのさ」と。


――僕は本当に生まれてこなければ良かったのだろうか?

これから先、僕は大きくなるに連れてもっと悪いことをするようになるのだろうか?

心の中の悪魔が、どんどん大きく育って……。

やはり僕は幸せや平穏とは反対の「向こう側」の人間なのだろうか?

そう考えると僕は自分自身が恐ろしくなり、とうとうわんわんと泣きだしてしまった。


「に、兄ちゃん……兄ちゃん!」


弟が僕の体を抱き起こした。


「僕のせいでこんなことになったんだ。ごめんなさい!」


自らの気まぐれが招いた事態に責任を感じたのか、弟もわんわんと泣きだしてしまった。


「僕のせいで……僕が二階に上がれるかなんて言ったから、兄ちゃんが突き飛ばされちゃったんだ!」


弟は天井を見上げるようにして泣きじゃくった。

僕は自分で体を起こすと弟の腕を離れ、両手を床に着いて自分の顔を弟の顔に近づけた。


「なぁ、あいつが僕に言ったんだ……『生まれてこなければ良かったのさ』って。僕は生れてこなければ良かったのかな?」


僕は瞬きもせずにじっと弟の顔を見つめた。

もし、弟も僕のことを生まれてこなければ良かったと思っていたとしたら……。

すると弟は天井を見上げて泣きじゃくりながら視線だけ僕の顔に移した。


「……誰がそんなことを言ったって?」


「いや、だからあいつがだよ……」


「生まれてこなければ良かったって?」


僕は少しじれったくなって語気を強めた。


「僕を突き落としたあのお婆さんが言ったんだよ! お前だって見たろ? あの白い服を着たお婆さんを!」


すると弟はぴたりと泣くのをやめて僕の顔を不思議そうな顔をして覗き込んだ。


――あぁ、僕はこの後に弟が言った言葉を死ぬまで忘れることはできないだろう。

くそ、あんな写真を見つけなければ良かったのだ。

そうすればこの階段での出来事を思いだすことすらなかったのに――


弟は僕にこう言った。


「兄ちゃん何を言っているの? 兄ちゃんを突き落としたのは顔が二つある女の人だったよ」


全身から血の気が引いた。

僕と弟が見たのは同じ人ではなかった。

なぜか全く別々の人を見ていたのだ。

一体、なぜ?

僕の思考は全くまとまらなかった。


弟は一度咳払いをするとさらに続けてこう言った。


「女の人の顔……片方は目から涙を流していて、もう片方は……口から真っ赤な血を流していたよ」


僕は何も言わずに立ち上がると辺りをふらふらと歩き始めた。

――駄目だった。

僕の心は限界寸前だった。


「兄ちゃん、あれを見て!」


突然、背後で弟が騒ぎだした。


「二階に誰かいるよ!」


僕はびくりと肩を震わせると恐る恐る二階を見上げた。

……あの老婆が立っているかと思ったがそうではなかった。

そこには気味の悪い笑いを浮かべた二人の人が立っていた。

一人は亡くなった向かいのおじさんだった。

そしてもう一人は――この僕自身だった。

もう一人の僕は何かを摘まむ様にして手に持っていた。

――それはゆらゆらとした炎が燃えているマッチ棒だった。


もう一人の僕は階下の僕に見せつける様にしてマッチ棒を前に突き出すとゲラゲラと笑いだした。


「お前なんか、生まれてこなければ良かったのさ!」


それっきり僕は意識を失ってしまった。


――今思い出しても不思議な体験だった。

僕はこの階段での出来事を思い出したことで、二階の記憶がない意味が分かったとさっき言った。

それはこういうことだ。

僕はこの階段での体験以上に恐ろしい体験を、あの家の二階で味わっていたのだ――何度も何度も……。

人は恐ろしい体験をするとその記憶を消し去ってしまうことがあるらしい。

防衛本能の一種だろう。

僕はきっと二階での記憶を消していたのだ。

そうしなければ、きっと心が崩壊してしまっていたのだろう。


これが僕の一番古い心霊現象の記憶だ。

全ての始まりはこの体験だった。

この時の僕は、成長するに連れて様々な心霊現象を体験することになるとは夢にも思っていなかった。


余談だが、弟も僕と同じく二階の記憶が一切なかった。

先日、弟と久しぶりに再会した際に弟が僕にこう告げた。

「二階の記憶を全て思い出した」と。

弟は僕に二階の記憶を全て話して聞かせた。

でも僕は今、弟に聞いた話しを全て忘れてしまっている。

きっと僕の心は、再び自身が崩壊しないように身を守ったのだろう……。

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レクイエム ~年少の友人が体験した心霊現象にのせて~ 天乃川シン @morioka777

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