後編

 永劫に続く悪魔との戦に生きる天空の種族であったヴァイスは、あるとき屈辱的な敗北を喫して命からがら戦線から逃げ落ちる羽目に陥った。傷つき、弱り、死にかけて、ヴァイスは子猫の姿に身を窶して追っ手の目を欺き、どうにかこうにか生き延びたところを彼女に拾われた。

 ただ傍にある以外、なんの役にも立たぬ黒い毛玉のようないきものの姿を借り、見習い魔女に拾われることによって命存えたヴァイスは、あたりまえのように彼女に想いを寄せることになった。

 きっかけなどいらなかった。痛めつけられ弱り切った身体と心が、近くにいてくれるぬくもりに溺れるのは当然のことだ。


 ただ、もしひとつだけなにか特別があるとしたら、それは彼女が私に名を与えてくれたことだ、とヴァイスは思う。

 神に仕える天使であったヴァイスには本来、固有の名前はない。役目はあっても個はないとされる神の遣いであったためだ。

 そんなこととは知らぬ彼女は、黒猫の姿を借りていた彼にヴァイスと名をつけた。シュヴァルツじゃあまりに芸がないものね、と冗談めかして笑っていたが、彼女ははじめからヴァイスの正体を知っていた。ヴァイスがそのことを知ったのはずいぶんとあとになってからのことだった。

 見ちゃったんだもの、あなたが猫に変わるところ、と彼女は申し訳なさそうに云った。可愛らしい種明かしに、少し考えればわかることだったのに気づかなかった私がまぬけだったのか、とヴァイスは自分自身を笑ったものだ。

 云われてみれば、自分にはこの名より相応しいものはないような気がした。神に背くことによって失われたヴァイスの翼は、彼の背にあるとき、見る者たちの眼を灼くほどに眩い純白だったのだから。


 私が天空に住まう種であると告白してからも、彼女の献身は変わらなかった、とヴァイスは懐かしく思い出す。誰かに利用されることの悲しみを知っていた彼女は、人よりも優れた種であるヴァイスを決して利用しようとはしなかった。

 孤独のなかを彷徨い続けてきた彼女は、いつも傍にいてくれる、という、ただそれだけの理由で私に想いを寄せてしまった。彼女は苦しかったはずだ、とヴァイスは思う。人ならぬ私に心を預けてしまい、とてもとてもつらかったはずだ。

 彼女は己の想いを閉ざしながら、ヴァイスの快復と帰郷のために尽くしてくれた。

 彼女の心を知り、その痛みを想って泣いたヴァイスは、そのときになってようやく自らの想いの正体を知った。狂おしいまでに深く激しい彼女への想いはやがて募るばかりとなり、そうなってからはもはや自分を抑えることなどできるはずもなく、神を裏切る禁を犯し、彼女の手をとったのだ。


 ヴァイスは緑輝石の瞳で夜空を見上げた。

 暗い色をした夜の帳に宝石をぶちまけたような空から、いくつもの星が降ってくる。流星群。美しく儚く、刹那に消え去る命のように、星はとめどもなく流れていく。

 ヴァイスは、急にせつなくて苦しくてたまらなくなった。

 彼女も近いうちにこの流星のように儚くなってしまうのだ。人たるものは、そうやっていつか必ず生を終える。

 私とは違う。

 ヴァイスはたまらずに愛しい人の頬に頬を寄せた。やわらかな天鵞絨ビロードのような自分の毛並みが彼女の眠りを妨げないことが、このときばかりは悔しくてならなかった。

 神は残酷だ、とヴァイスはかつてのあるじを罵った。私はただ愛する者とともにありたいと思っただけなのに。


 魔女と愛し合うようになったヴァイスは彼女とともに生きることを願い、人としての生を求めて主を裏切った。

 神は己の下僕しもべであったヴァイスを許さなかった。堕天となったヴァイスは、それまで持っていた力をすべて失ったが、しかし、人としての生を得ることも許されなかった。

 この命、とヴァイスはきつく目蓋を閉じた。

 天空に住まう種であったヴァイスの寿命はとても長い。人からすれば永久にも等しい時を生きることができる。だが、それが祝福などではないことは、ヴァイスが一番よく知っている。

 生きよ、と神は云った。それこそがおまえに与える罰だ。

 神は己が言葉を違えたりはしない。なにもかもを奪われたヴァイスには、たったふたつだけ特別な力が残された。長い長い寿命と、彼女と出会ったときと同じ黒猫に姿を変えることのできるちっぽけな秘術。

 私には彼女しかいないというのに、とヴァイスは思った。彼女がいなくなったあとの孤独をいったいどうやって耐えろというのだろうか。私の想いのすべてを知りながら、このような罰を与えた神は本当に残酷だ。


 さほど遠からずして、愛しい彼女は無慈悲な死によって連れ去られるだろう。彼女がどれほどの叡智を備えた魔女だとしても、人であることを超えることはできない。流星のごとくに脆く儚く消え去ることは、人として避けることのできない宿命なのだ。

 そして私は、彼女のいない生を歩み続けなくてはならない。ヴァイスは緑輝石の瞳をそっと閉じた。死にゆくことが彼女の宿命であるのと同じに、生き続けることが私の宿命。


 ヴァイスはたまらずに愛する魔女の名を口にした。実際には小さく、にゃあ、と鳴いただけだったが、彼女は星明りの下でうっすらと目を開けた。橄欖石の瞳がぼんやりと彷徨い、やがてヴァイスに落ち着いて、穏やかな色を浮かべた。

「どうしたの、ヴァイス?」

 今宵はどうしてもあなたを見ていたい、とヴァイスは云った。こんな獣の形ではなく、ちゃんとした人の姿で。

「厭よ。厭だと云ったでしょ」

 お願いです、とヴァイスは鳴いた。あなたを見つめさせて、抱きしめさせて、くちづけさせて。私の、この目で、この腕で、この唇で。――お願い。

 彼女は静かに瞳を閉じてしまう。諦めきれないヴァイスは、なおも彼女の傍らに座り込んだまま鳴き続けた。

「わかったわ」

 ため息のような返事に続けて、仕方ないわね、と彼女は云った。恋人のしつこさに根負けするのはいつだって彼女のほうなのだ。

「今夜だけよ?」

 彼女の気が変わってしまわぬうちに、とヴァイスは素早く人の姿に戻り、寝台の傍らに跪いた。輝く黄金色の髪が腰のあたりまで覆うように背中を流れ、緑輝石の瞳には強い光が宿る。

 魔女は目を閉じたままでいる。ヴァイスは彼女の手を握った。痩せ細って骨ばった手は冷たい。皺が寄って染みの浮いた手の甲にそっとくちづける。――愛しい。

 老いると醜くなる、というのは人の勝手な思い込みだ、とヴァイスは思う。老いるとは流れた歳月を裡に蓄えることだ。たしかに綺麗なばかりの日々ではないだろう。過ちもあれば、悪もある。それでも老いることによってしか得られないものもある。

 深くて強い、想い。

 空を照らすほどに強く煌めくことはないが、簡単に尽きることもない星明りのようなそれは、一朝一夕に得ることはできないえにしと同じ意味を持っている。

 ヴァイスと彼女も長い時をかけてかけがえのない、そして解けることのない絆を結んだ。

 惜しむらくは、ともに老いることができないということ。


 ヴァイスは手を伸ばし、彼女の頬にかかる髪をそっと避けた。老いた身に触れられることを極端に厭がる魔女も、ほんのときどきはこうしてヴァイスの自由にさせてくれる。

 ヴァイスは魔女の指に唇を寄せた。ふたたび深い眠りに落ちてしまったのか、彼女は身じろぎひとつしない。

 待っていてくださいね、とヴァイスは囁いた。どれだけ長い時間がかかったとしても、私は必ずあなたの傍へ戻ります。


 過ちを犯した自分と彼女の魂は、その死後も天国ヴァルハラの門をくぐることはできない。地獄ヘレの混沌へと堕とされて、永劫の苦しみを味わうことになる。

 生きているうちも死したのちも、そうやって愛する者を苦しめる自分の罪深さに慄きながらも、ヴァイスは彼女を思い切ることができない。

 もしもあのとき、とヴァイスは思った。彼女に命を救われたあのとき、私が感謝以上の想いに囚われることがなければ、彼女はいまよりもっと幸せだったのだろうか。この想いを告げることなく彼女のもとを離れていれば、彼女は人として満ち足りた生涯を送ることができたのだろうか。

 ああ、もしそうだったとしても、私は私の想いを彼女に告げないわけにはいかなかった。堕天も厭わぬほどの深い想いは、たとえ一時は堪えることができたとしても、すぐに決壊し、すべてを押し流してしまったはずだ。

 そう思うヴァイスは間違ってはいない。なぜなら彼らの想いはヴァイスひとりで育んだものではないからだ。彼女もまた、ヴァイスとともにあることを強く望んだ。

 それでもヴァイスは、途方もないほどに欲深く、どうしようもないほどに身勝手な私をどうか赦さないで、と願わずにはいられない。決して、決して赦さないで。赦さぬままに、ともに生き、ともに苦しみ、ともに泣いて、そして星霜の時を重ねよう。

 空をめぐる星座がその姿を変えようとも、いま空にある幾億もの輝きがすべて流星となって儚くなろうとも、私はずっとあなたとともにある。

 そうすれば、ときにはともに笑いあい、抱きしめあうこともできるだろう。

 これまでもそうだったように、これからもきっと。

 マリア。

 愛している、という言葉の代わりに、我儘なかつての天使は愛しい魔女の名を幾度も呼んだ。

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我儘 三角くるみ @kurumi_misumi

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