我儘
三角くるみ
前編
魔女は静かに眠っている。横向きになって緩く目蓋を閉じ合わせ、穏やかな寝息を立てている。
うるさいほどに星の降る夜、ヴァイスは、そんな彼女のちょうど胸元のあたりに丸くなって蹲っていた。闇のなかでも爛々と輝く
ああ、本当はこんな姿ではなく、両の腕で彼女をしっかりと抱いて守りたいのに、とヴァイスは思う。
いつの頃からか、彼女はヴァイスの腕のなかで眠ることを拒むようになっていた。
ねえ、今夜からは別々に寝ましょうよ、と彼女に云われた夜、ヴァイスは黄金色の髪を振り乱し、緑輝石の瞳に涙まで浮かべて、頼むからそんなことを云わないでくれ、と懇願した。だが彼女は曖昧な笑みを浮かべ、頑なに同衾を拒否した。
厭なのよ、と彼女は云った。だって気がついたらわたしってば、いつのまにかこんなおばあちゃんになっちゃってるんだもの。
そんなこと、とヴァイスは答えた。あなたはあなたです。どんな姿になったって、私の愛する可愛い人です。
それでも彼女は、絶対に厭だ、と首を横に振り続けた。だからヴァイスは苦肉の策として、その昔、彼が彼女に出会ったときの姿をとってみせた。この姿なら傍にいることを許してくれますか、と細い髭を震わせて必死になって迫るヴァイスに、彼女はとうとう根負けして、仕方ないわね、と頷いてくれた。でも、わたしに触っちゃだめよ。絶対だからね。
なんで、とヴァイスは唸った。可愛い人、そんなせつないことを云わないで。
もう昔とは違うもの、と彼女はどこか寂しそうにそう云った。わたしったら、どこもかしこもしわくちゃなうえに染みだらけになっちゃったし、まっすぐに立つこともしんどいくらいに弱っちゃったんだもの。いつまでも綺麗なままのヴァイスに触られるの、すごく恥ずかしい。
ヴァイスの愛する魔女が、人としての
ヴァイスはこんこんと眠る彼女の、老いて痩せた指先にそっとやわらかな頬を擦り付けた。――愛しくてたまらない。
ふたりが眠る寝台の傍らには天井までの大きな窓がある。険しい山々に囲まれたこの場所は、それでも昼には四季折々の美しい風景を、夜には月や星の遊ぶ広い空を楽しむことができる。
一日を横たわったままに過ごすことも増えた彼女のために、この見晴らしのよい場所に寝台の位置を変えたのはもうずいぶんと前のことだ。
薬湯に秘術、自身の持ちうるあらゆる叡智をもって、魔女はその身の延命を試みてきた。一瞬でもいい、刹那でもいい、少しでも長く彼女とともにありたいと願うヴァイスのために、彼女は人としてはありえないほどに長い長い時を生き抜いてきたのだ。
魔女の友人知人は、ヴァイス以外の誰ひとりとして、すでにこの世に存在しない。みな、とうの昔に彼女を置いて逝ってしまった。
友人の最後のひとりを見送ったのち、ヴァイスたちは次から次へと街を移りながら暮らしてきた。そうやって誰かと親しくなったり争ったりすることを避けてはいたものの、人にあらざる永きを生きる魔女を不審に思う者は徐々に増えていった。噂が噂を呼んでどうにも生きづらくなってきたころ、ふたりは、人が足を踏み入れることの適わぬ山深きところに棲家を移した。
以来、魔女とヴァイスは息を潜めるようにして静かに暮らしてきた。
これまでにふたりのもとを訪れたのは、信仰ゆえに迫害を受け、国を逃れてきた七人の
私とともに生きて、という己の慾が、彼女に深い深い孤独を強いたことをヴァイスはよく弁えている。自身の残酷さも、罪深さもよく知っている。
それでもヴァイスは彼女とともにあることを願った。彼女は微笑みひとつで応えてくれた。――ヴァイスへの想いゆえに。
ヴァイスは魔女の指先をそっと舐め、頬擦りを繰り返した。彼女の眉間にかすかな皺が寄る。抱きしめたい、とヴァイスはまた思った。こんな小さなか弱い獣の姿ではなく、ちゃんとした男の姿であなたを抱きしめたい。
だけど、いつだったか眠る彼女をそうやって抱きしめたまま迎えたある朝、彼女は泣きじゃくりながらヴァイスを詰ったのだ。触らないで、ヴァイス。離してよ。この醜い身体に触られたくないんだって、何度云わせるのよ。女心がわからないにもほどがあるわ。
この唐変木、と罵られたきり、あのときはたしか三日も口をきいてもらえなかったっけ、とヴァイスは小さなため息をついた。
ヴァイスの目に映る彼女はとても綺麗だ。陽の光にあたると銀色に透けるくらい淡い金色の髪も、心の裡を見透かすような澄んだ
若いころの攻撃的な美貌もさることながら、歳をとってからの穏やかな美しさはなによりも心に響く、とヴァイスは思う。否、比べることなどできるはずもない。彼女はどんな瞬間のどんな姿も強く、やさしく、そして気高い。
魔女はヴァイスと出会うまで、とてもつらい生き方を強いられていた。誰にも理解されることなく、力ばかりを求められ、利用され、ひどく苦しんでいた。
神の気まぐれによって、数千年に一度生まれるかどうかわからないほどに強い魔力を授けられた彼女は、生まれながらにしての魔女だった。だが幼い彼女にそんな自覚などあるはずもなく、むしろ強大すぎる魔力のせいで、いつもひとりぼっちだった。
大陸の西を占めるこの国では、魔力を持って生まれてくる者の数は多くはない。そしてそれゆえに、
だが、彼女の力はそうした枠に納めるにはあまりにも強すぎた。彼女の周囲の者たちは、彼女を寿ぐどころか恐怖して虐げた。
人には見えないものが見え、人には聴こえない声が聴こえる。悪しき感情が昂ぶれば嵐を呼び、歓びが極まれば花を咲かせる。人の死を予言し、人の生を予感する。人の心の闇を覗き、病を取り除く。
善い力だけを選ぶことができればよかったのかもしれない。けれど、光には影がつきものだ。
生には死が、愛には裏切りが、必ず潜んでいる。彼女は己を守るすべなど知らず、正直にそのことをみなに告げ、――忌み嫌われた。
両親でさえ魔女である彼女を気味悪がり、決してその身体に触れてくれようとしなかった。薄い色の髪も瞳も悪魔の証だと蔑まれ、かろうじて食べるものだけは与えられながら、誰にも会わせてもらえず、どこにも行かせてもらえず、地下室に閉じ込められていた。
たったひとりきり、己の身体を照らすのが精一杯の灯りひとつを与えられ、そのなかで朝も昼も夜もなく、空腹を覚えれば食べ、渇きを感じれば飲み、眠たくなれば眠って、暮らしとも呼べぬ暮らしをしていたのだ。
恨みに凝り固まった醜い声でも、人を騙すために磨かれた胡散臭い笑顔でも、そこに誰かの気配があるだけでほっとするほど、わたしはひとりぼっちだったのよ、と彼女は云っていた。
たまに訪れる村人が持ち込んでくる呪詛の依頼を適当にはぐらかしたり、どこかからか評判を聞きつけてやってきた詐欺師を騙し返したりしながら送る毎日とはいったいどんなものだったのだろう、とヴァイスはそのころの彼女の心を思うたびに、人といういきものの残虐さや浅ましさに憤りを覚える。基本的には他者に悪意を抱かぬはずの彼が、誰かを心底憎い、と感じる数少ない瞬間だ。
ヴァイスはそんな己に苦笑いを向ける。自分のことは簡単に棚に上げるのね、あなただって彼らとそう変わらないわよ、と彼女が聞いたらきっと笑うだろう、と思うからだ。
彼女の生い立ちに対する激しい憤りをなかなか収められなかったヴァイスに、けれども彼女は何度も何度も、大丈夫よ、あの人たちはもういないから、と云った。わたしを虐げた人たちへの制裁はとっくに行われたもの。
彼女を苦しめた者は人であったが、彼女を救った者もまた人であった。
彼女の噂を聞きつけた秘術学校の教授たちが、その生き地獄から彼女を救い出したのだ。彼女は学園に引き取られ、必要な教えを授けられることとなった。
彼女を苦しめていた村の者たちは、秘術を操る魔女を虐げた罪によって厳しく裁かれ、ある者は死刑に、ある者は流刑に処された。彼女が厳しい罰を望んだわけではない。強い力を持つ魔女が少なくなってきていたなかで、国が彼女を守ろうとしただけのことである。
ヴァイスが彼女と出会ったのは、彼女が魔女としての生き方を学びはじめた、ちょうどそのころのことだった。
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