第25話 男娼の意地は黄金色

 銀之助との約束の日が来た。

 互いに稼ぎ時である夜見世の時間帯は避け、銀之助は若い者二人を連れて昼七ツにやってきた。


 流行りの柄の着物を粋に着崩した銀之助は、見目麗みめうるわしい男娼が溢れる男吉原でも目を惹く。

 そんな銀之助の後ろを二人の若い者が、金を詰めた包みを持って厳かに従う。


「おぉ、これはこれは。よくいらした」


 又六は上機嫌で銀之助を出迎えた。

 すずもとっくに内所に呼ばれ、甚五郎の斜め前で小さくなっている。

 ついにこの日が来てしまったのだ。もう戻れない。


 明日からは女吉原で、花魁として――。


 すずは、ぎゅっと目をつぶった。


「そんなに緊張しなくて平気だから。きみを悪いようにはしないさ」


 正面に座った銀之助が安心させるように、にっこり笑う。

 だがすずの心は晴れない。いくら銀之助が色男で優しくても、花魁になるという事実は変わらないのだから。


 銀之助は出されたお茶をうまそうに一口飲んだ。


「して、この子の代わりの飯炊き女は見つかったのですか?」


「ああ。先日な」


「そうでしたか。いや、貴重な飯炊き女をさらってしまうようで申し訳ない」


「はっはっは。飯炊き女一人に、これだけの大枚たいまいを積むと言われちゃあ、断れんよ」


 又六がそう言って、ちらりと銀之助の背後に目をやった。

 銀之助は素早く察知すると、背後の若い者に目顔で合図を出す。

 若い者二人は持っていた包みを、又六と銀之助の間に置いた。


「ご確認を」


 そう言って、銀之助が包みを解く。

 すずの目の前で、小判がキンキラとさんざめく。まるで夜空の星のように、遠いところの出来事を見ているようだった。


「ふむ、確かに」


 又六がよだれを垂らしそうになりながら、小判を数え終えた。


「さあ、あとはあんたの好きなように。ほれ、すず」


 又六に尻をたたかれ、すずは無言で立ち上がった。

 右足を出して、左足を出す。一歩一歩、銀之助の元へ、花魁の道へ、近づいていく――。


「おいで」


 銀之助が腕を広げた。

 そのときだった。


「その商談、ちょっと待ちな!」


 すそが膝上まで乱れ、半分はだけた床着の上に、打掛うちかけを引っかけただけの月の兎が息も荒く、内所に滑り込んできた。


「月の兎!?」


 あられもない恰好に、全員がぎょっとした。


「もう月の兎ちゃんってば、はしたない!」


 甚五郎が慌てて腰を浮かしかけるが、月の兎がてのひらをびしっと突き出して止めた。


「まだ話は終わりじゃねえ」


「どういうことかな」


 銀之助が余裕の笑みを浮かべる。


「言葉のままだ。――あんたがおやじさんに払った額と同じだけ出す。これですずの売買はなしだ」


「こ、こら月の兎。いきなり何を」


「おやじさんだって損はしてねえはずだ」


「それはそうだが……」


 又六がぽりぽりと頬を掻く。


「売買の横やりとは、君もずいぶんと無粋なことをするねえ」


「はんっ、なんとでも言いやがれ」


「なるほどねえ。これが男吉原流ということかな」


 それなら、と言って、銀之助が再び若い者に合図を出す。

 するともう一人の若い者が別の包みを広げた。目の前に先ほどと同じ枚数の小判が散らばる。


「これならどうかな?」


「おぉ……」


 又六の目が金色に輝く。


「くそ、まだ隠してやがったのか。汚ねえ手使いやがって」


「それはお互いさまだろう」


 銀之助が勝ち誇ったように微笑んだ。初めの額と合わせて、とんでもない量の小判が内所をきらめかせる。とても飯炊き女一人を買う額ではない。

 当人であるはずのすずは、もはや事の大きさと桁外れの金に圧倒され、ぐらぐらしてきた。


「これで商談」


 成立、と続けようとした銀之助の背後に、サッと二人分の影ができた。

 驚いて振り返った銀之助に見えるように、左右から夕顔と宿木が布に包んだものをぶらぶらさせた。


「ま、まさか……」


「そのまさかなんだよねー」


 宿木が言いながら、布からぱっと手を離した。

 がらん、がっしゃんと音がして、布の隙間から小判が顔を出す。


「あ、こっちも同じだけ入ってるよ」


 持ったままぶらぶらさせていた夕顔が、布をそっと銀之助の前に置いた。


「こんな金……いったいどこから」


「昼三男娼を舐めんじゃねえ。俺たちが本気になればこのぐらいの金、用意できんだよ」


「稼いだのか、たったひと月で……」


 銀之助が呆気にとられたように、目の前の小判を見た。


「おかげで腕と腰が痛いけど」


「かなりの数を書いたからね」


「それって、あのとき書いてた文のこと……?」


 以前、すずがお茶を持っていったとき、確かに三人はものすごい数の文を書いていた。あれは客に今回の金を無心むしんする文だったのか。


「ああ。俺たちの客は気前が良いからな。いつもより色つけるって言えば、たんまり持ってきてくれたぜ」


 月の兎が得意げに言う。

 月の兎の格好はつまり、たった今まで客の相手をしていたということだ。ぎりぎりまで稼いで、そうしてそのまま駆けつけてくれたのだ。


 銀之助が、ふっ、と笑った。


「負けた」


「い、いまなんと?」


 又六が訊き返す。


「今回ばかりはしてやられたねえ。正直、昼三男娼をみくびっていたよ」


「じゃあ……すずちゃんを買うのは?」


「出直そう」


 銀之助はそう言って持参してきた小判を集めるよう、若い者に言いつけた。


「こっちの金はわしがもらうぞ。ほれ、甚五郎も集めんか」


 又六が、月の兎たちの用意した小判をかき集める。


「まったく、おやじさんはそういうとこ、ほんとしっかりしてるんだからぁ」


 甚五郎は月の兎たちに目顔で謝ってから、小判を集め始める。

 がしゃん、がしゃん、と静まり返った内所に小判をかき集める音が響く。


 生まれて初めて見る小判の山に、すずはまだ夢でも見ているような気分だった。恐ろしく現実感がない。ぼんやりと目の前の光景を眺めていると、ぱしんっと頭をはたかれた。


「痛っ」


「なに呆けてんだ」


 半床着姿の月の兎が、傲然と見下ろしていた。


「だ、だって……なんか信じられなくて……」


 そう、あまりにも都合が良すぎて、信じられないのだ。


 覚悟をしていた。売られる覚悟を、花魁として生きることを――。


 確かにあったはずの嫌だという感情は、このひと月の間に擦れて、ほつれて、気づいたときにはなくしてしまっていた。失ったことに、どこかほっとしてもいた。

 花魁に嫌だという感情は不要だ。あっては生きていけない。感情を殺して、心を動かさず。


 ――そう、あの人のように。


 心に思い浮かべた顔は、水面に映ったように輪郭りんかくが曖昧で、ぼやけていた。


「もしかしてあんた、実は女吉原に行きたかったとか?」


 にやにやと、宿木が言う。

 反射的に首を振っていた。そんなことは絶対にない。


「あらら、はっきり言うねえ」


 銀之助が困ったように笑った。

 夕顔が、残念だったね、とまるで他人事のように言う。


「わたし……」


 ぽつりと言葉がこぼれた。ほとんど無意識だった。

 花魁にならなくていいなんて。女吉原に行かなくていいなんて。


 まだここにいられるなんて――。


「……葵屋にいてもいいの?」


 訊きたかった。いまだ信じきれない現実を、はっきりと言葉として聞きたい。

 小さな、スズメのような声だったが、月の兎には届いたらしい。自信溢れる声が返ってきた。


「当たり前だ。おまえは葵屋の飯炊き女だからな」




 銀之助が若い者とともに帰った後、又六は予想外の収入にほくほく顔で、甚五郎と一緒に小判を数え始めた。


「お前たちはもう戻っていいぞ」


 ほれ、ほれと言って手を振る仕草は、金勘定の邪魔だから出ていけと言わんばかりである。

 半ば追い出されるようにして内所を出たすずは、二階の自室に戻ろうとする三人を呼び止めた。


「どうして……?」


 月の兎たちの行動は、いつだってすずにはわからない。

 落ち着いて考えてみれば、月の兎たちがこれほど苦労して金をかき集める理由なんて、一つもないのだ。すずはただの飯炊き女。昼三男娼にとって代わりはいくらでもいる存在である。


 振り返った月の兎の顔は、なぜか怒っていた。


 ぎくりとしたすずが思わず一歩後退るのと、月の兎がぼそりと何か言ったのは、ほぼ同時だった。


「え、なに? 聞こえなかった」


「だから……飯……ま……だ」


 月の兎の声は、スズメの声よりも小さい。


「月の兎、聞こえないってよ」


 おそらく悪気はないのだろうが、夕顔が笑いながら月の兎の肩をぽんっと叩いた。


「くそっ……だから! おまえの作る飯が旨いからだよ!」


 やけくそのように、月の兎が声を張り上げる。


「え……それだけ……?」


「それだけって……他に何があんだよ」


 月の兎が気まずそうにそっぽを向いた。その顔がどこか赤く見えたのは、きっとすずの気のせいだ。他の理由なんてない。ちらりとよぎった淡い期待を、すずは慌てて打ち消した。


「でも夕顔と宿木まで?」


「俺もすずちゃんの味、好きだよ。優しい味で毎日癒される」


「夕顔……よく臆面もなく」


「あれ、宿木だって他の飯炊きの子が作った奴はさんざんけなしてたくせに、すずちゃんのは一回も文句言わなかったじゃない」


「それは……っ」


 三人の見慣れたやりとりに、ふいに気が緩んだ。


 それはあまりにも唐突で、すず自身、予想外のことだった。鼻の奥がツーンと痛くなったかと思うと、ぶわっと涙が目から溢れた。とても堪えきれるものではなく、あっという間に頬を伝い、顎先あごさきからぽたぽたと垂れた。


 一声も上げずに、いきなり泣き出したすずに、三人同時にぎょっとした。


「おまえ、声も出さないで急に泣き出すなよ」


「やっぱり泣くわけね」


「いいじゃん。泣き虫な女子って可愛くて」


「夕顔は女子であれば何しても可愛いって言うじゃねえか」


 月の兎のツッコミに、そんなことないよ、と真顔で返す夕顔がにじんでいた。

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男娼と飯炊き少女 彩崎わたる @ayasaki

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