第24話 去る者と来る者

 すずがその日のうちに売られなかったのは、さすがに銀之助の手持ちが足りなかったというのもあるが、葵屋の飯炊き女が足りなくなると、甚五郎が口を挟んでくれたおかげらしい。


 銀之助の提示した大金に目がくらんだ又六でも、そればっかりは考慮しないわけにいかない。

 葵屋が新しく飯炊き女を雇う猶予ゆうよとして、すずの身柄はひと月後の受け渡しとなった。


 金が絡んだ又六の動きは素早かった。

 銀之助が来た翌日には飯炊き女急募の知らせを出し、その次の日にはもう飯炊き女候補を連れてきた。


「きゃあ、さすが葵屋さん! どの男娼も格好いい!」


 嬌声きょうせいを上げる女子に、月の兎らの目がすずに向けられた。その目はどこかで聞いたような台詞だと言っている。すずは知らんふりを通した。


「葵屋さんで働けるなんて最高ですぅ」


 女子は甘ったるい声で、きゃっきゃっと跳びはねている。


 宿木の目が光った。


「ところで」


 そう切り出した宿木は、いつぞやすずと初めて会ったときと同じ言葉を言い放った。


 ――今度の子はどのくらい飯がうまいんだろう。俺たちの最大にして、唯一の楽しみは飯なんだ。うちにくる子ってのは大抵どっかの町娘なんだけど、いっつも犬のえさみたいな飯をこさえて、もじもじしながら、『お口に合うといいのですが』って……。


 女子の顔が恐怖に引きつった。


 あ、まずい。すずがそう思ったと同時に、女子が泣き出した。

 辺りに響き渡る大声で泣き出した女子に、宿木はうんざりとばかりに耳を塞いで、思いっきり舌をべーっと突き出した。


 女子の泣き声がさらに甲高くなる。

 甚五郎があたふたと女子を慰めにかかる。


「だめだな、こりゃ……」


 月の兎の呟きに、すずはかつての自分を褒めたい気分だった。


 あとでおせんに聞いたことだが、宿木のあの攻撃を耐えられた者はかなり少ないらしい。なまじ顔が整っているだけに、はらむ毒も強力なものになるということか。


 続いて又六が連れてきた女子も、例に漏れず男娼にみとれた。

 前回の悪行が又六の怒りに触れ、相当こってりやられたらしく、宿木はそっぽを向いたまま、口を閉ざしている。


 問題なく初日の挨拶を終え、その日から早速すずとおせんに混じって夕餉ゆうげ作りをすることになった。まではよかったのだが……。


 一口食べた月の兎の顔が強張る。


「お、お口に合いませんでしたか……?」


 女子が怯えたように、月の兎の顔色をうかがう。


「大丈夫よお。月の兎ちゃんたちは特別舌がえてるだけだから」


 そう言ってぱくんと芋の煮っ転がしを口に放り込んだ甚五郎が、目を白黒させた。

 どれ、と言って男娼たちが次々に食べては、みな無言になる。

 すずも食べてみたが、さすがにこれを毎日食べさせられることになる男娼たちに、同情の念を禁じ得ない味だった。


「却下」


 又六が厳然と判決を下した。


 そして三人目。又六も厳選に厳選を重ねたらしく、事前に料理の腕前を確かめた上に宿木には無言の命令を出し、万全の態勢で迎えることになった。


「まあ、いいんじゃねえの」


 どこか適当な月の兎の味の合格点をもらい、晴れて三人目が正式に決定するかと思われた。

 だが、事件は夜中に起きた。


「あれ、こんな時間にどうしたの?」


 夕顔の寝ぼけた声と、行灯あんどんの油皿に油をついで回る不寝番ふしんばんの怒声が重なった。

 すわ何事か、と甚五郎たちが駆けつけてみれば、夕顔の布団の横で裸のままぐるぐるに縛られた女子の姿があった。


「この女、夕顔の部屋に夜這よばいに来たらしい」


「あー、やっちゃったね」


 宿木がにやにやと笑う。


「だ、だって……どうしても一度抱いてほしかったんだものぉー」


 女は自ら脱ぎ捨てたらしい床着をかき抱き、叫んだ。


「飯炊き女が昼三男娼に夜這いなんぞ言語道断! 即刻、クビだ!!」


 商売道具に手を出されかけた又六はそう言って夜中のうちに、女子を大門の外に放っぽりだしてしまった。

 以前にもこの手の飯炊き女候補はいたらしい。物腰柔らかく、来る者拒まずの夕顔の色香につられ、ついふらふらと道を踏み外してしまう。


「はあーっ、すずちゃん。あなたって本っ当に稀有けうな存在だわあ」


 どっぷり疲れたため息をつき、甚五郎が感心するようにすずを見た。


「ここでこんなに保った飯炊き女は少ないからねえ。すず、やるじゃん」


「それ、褒めてくれてる……?」


「最大級の褒め言葉よぉ。葵屋でこれだけ保った子なら、それだけではくがつくわよお」


 昼下がり、甚五郎とおせんに褒め称えられ、すずはなんとも微妙な笑いを返した。

 事情を知らない者が聞いたら、いったいどれだけ過酷なところで過ごしているのかと思うだろう。


 もっとも眉目秀麗な男娼を毎日見られ、大好きな料理を作っていられるのだから、すずが葵屋を過酷だと感じたことはないのだが。……ときどきしか。



 そんなある日、男娼たちの自由時間である九ツ前、すずはなぜか月の兎の部屋にいた。

 いま手が離せないからお茶を三つ持ってきてほしいという、夕顔の言伝を聞いて、部屋に行ってみれば、そこにはごろ寝をしながら文を書く三人の男娼の姿があった。


「うわっ」


 障子近くまで、にょきっと伸びた月の兎の足につまづきそうになる。

 慌ててお盆の上のお茶をかばいつつ、小さく跳んで避けた。


 だが墨を乾かすためか、そこかしこに文が並べられており、部屋は足の踏み場もない。なんとかわずかな隙間に立った。


「気をつけてよ。こっちは面倒くさい文を片付けてる最中なんだから」


 宿木が文の安全を図る。


「お客さんたち宛て?」


 お茶を文机の上に置きつつ、ひょいと覗き込む。


「あ、見るんじゃねえ」


 慌てて月の兎が文を隠す。

 お客の前での豹変ひょうへんぶりをあれだけ見せられているのだから、いまさらだと思うのだが、月の兎にとっては違うらしい。


「月の兎の文は、それはそれは甘いんだよね」


「おい、夕顔」


「本当のことじゃない」


「この間はなんだっけ……貴女との逢瀬おうせだけが僕の心のり所です、だっけ?」


「んなこと書いてねえ!」


 じゃれあう三人に半ば呆れながら、すずは密かにため息をついた。

 こんなふうに穏やかに過ごす日々は、もう残り少ない。


 すずの後任の飯炊き女はまだ決まっていないが、又六は躍起やっきになってツテをあたっているし、見つかるのも時間の問題だろう。それに銀之助との約束の期日もある。

 コキ使われ、散々な目に遭うことも数知れないが、それでもすずは男吉原での毎日が好きだった。見飽きることも見慣れることもない、美しい男娼に囲まれて過ごす日々。


 毎日うっとりと眺めては、永遠に枯れることのない花畑に居るような気分を味わう。色の白いは七難隠すではないが、男娼の器量は十難でも隠す。


 女吉原にいるのは、当然女ばかりだろう。それも美しい女だらけである。いたって平々凡々へいへいぼんぼんな顔の自分がそんなところに行って、果たしてやっていけるのか。到底、客が好むとは思えない。それ以前に、花魁同士の張り合いもあれば、客の取り合いもある。いじめに勝ち抜けるような気丈さなど、すずは持ち合わせていない。


 考えれば考えるほど鬱々うつうつとした。暗く、深い沼にずぶずぶと沈み込んでいくようだった。


「はあ……」


 もらした吐息は、すずの想像以上に大きかったらしい。

 一斉に三人の視線がすずに向いた。


「あ、違うの。なんでもないから」


 慌てて顔の前で両手を振ってみせる。

 三人は顔を見合わせたが、特に何か言ってくることもなく、また黙々と文を書き始める。


「じゃあ私、戻るね」


 すずはそう言って月の兎の部屋を後にした。

 三人とも文に集中しているのか、返事はなかった。

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