第23話 幸運の形をした不幸
内所に楼主の又六と甚五郎、そしてすずと男が並んだ。
「話ってのは?」
又六が煙草をのみながら言う。
「本題に入る前に、俺の素性を明らかにしておこう」
さきほどまでの軽い雰囲気が消え去り、男から自信に裏打ちされた威厳が漂う。
「ほう、素性か……。まあ、どことなく同じ匂いがしないでもない」
「はは、さすがですね。お察しの通り、俺は女吉原の扇屋という妓楼で楼主をしている銀之助という者です」
「あらあ、その若さでねぇ。いまいくつ?」
甚五郎がすかさず口を挟む。色男への
「二十七です」
おいしいわぁ、と言って甚五郎が目を輝かせる。
女吉原の扇屋――。
それは助けてもらったときにも言っていたが、まさかそこの楼主だったとは。
すずの中での楼主の姿は、まさにこの又六みたいな男である。でっぷりと太った巨体で金への執着凄まじく、常に抜け目なく周りの状況を
又六が咳払いをした。
「それで、女吉原の楼主がうちに何用だ?」
「単刀直入に申し上げましょう。すずさんをもらいたい」
……もらいたい?
お嫁に……?
すずの頭の中では、男が女を「もらいたい」と言えば、それは嫁としてという意味になる。だが又六はすずの父親ではないし、ましてや、もらわれるほど仲を深めた覚えもない。
まさか私に一目惚れして……?
加速度的かつ珍妙に進んでいくすずの妄想を打ち壊すように、又六がにやりと笑った。
「いかほどだ?」
「それは了承の返事と受け取っても?」
「あんた次第だな」
にやにやと笑いながら、又六が親指と人差し指で丸を作ってみせた。
「なるほど」
銀之助が
にわかに想像と違う方に転がっていく話の内容についていけず、
目顔で、どういう意味、と問いかけると、甚五郎は小さく首を横に振り、気まずそうに視線を逸らした。
すずと甚五郎のやり取りを横目で見ていたのか、銀之助が楽しそうに喉の奥で笑う。
「男吉原にいてもこれほどとは、さすがだねえ。俺の目に狂いはなかったみたいだ」
「それ、どういう……」
「俺はものすごく君が気に入ったんだ」
伊達男に真面目な顔で言われ、すずの心臓は跳ね上がった。
「そ、それは、お、女としてですかっ」
「ああ、もちろん。君が実は少年だったらすごく困るねえ」
「大丈夫です。女です!」
銀之助は吹きだしそうになるのを必死に堪えるように一度
「それはよかった」
と言った。
「君には才能がある。男にこれほど
「甘味!」
すずだって年頃の女子だ。甘味には弱い。
「君ならきっと朝飯前だろうねえ」
「はい、甘味ならいくらでも!」
「ははっ。君と話していると刻を忘れそうだ」
本当に楽しそうに笑っていた次の瞬間には、潮が引くように笑顔を引っ込め、銀之助は又六に向き直った。
「どうやらご本人の同意も得られたようですし、そろそろ……」
「こっちは端からそのつもりだ。……よもや本人の了承が取れたからと言って、値を渋ったりはせんだろうな?」
「ええ、もちろん」
銀之助の言葉に満足そうに頷きながら、又六がすずに向こうに行っているようにと、手で払う仕草をした。
すずは夢見心地のまま立ち上がった。
内所を出るとき、涙ぐんだ甚五郎が慌てて顔を背けた気がした。
「あほか、おまえは」
それが、すずから事のあらましを聞いた月の兎の第一声だった。
すずがふわふわとした心持ちで張見世の方に行くと、待っていたとばかりに、月の兎が格子越しに声を掛けてきたのである。
すずが話す前から相当険しい顔をしていた月の兎だったが、もらいたいと言われたと伝えた瞬間、
「あ……あほってなんでよ」
せっかく人が求婚されたのに、どうしてこう……。
すずが口をへの字にしていると、これまた格子越しに夕顔がすすっと近づいてきた。
「すずちゃんはあの人にもらわれた場合、どうなると思ってるの?」
「女吉原の妓楼の楼主だから……」
言葉を切って、少し考える。
「楼主の女房」
すずの答えに、宿木が大げさなため息をついてみせる。
「……本当にめでたい頭してるよ」
思わず、むっとした。
宿木の〟めでたい〟は明らかにすずを馬鹿にしている。
飯炊き女が妓楼の女房として迎えられるだけでなく、贅沢まで約束してくれたのだ。破格の幸運に恵まれ、めでたいというならわかるが、どうして馬鹿にされなければいけないのだろう。
「あのなあ」
月の兎は頭が痛いというふうに、
「あの男はおまえを嫁にくれって言ってんじゃねえんだよ。いいか、しっかり聞けよ」
「う、うん」
「この場合のもらいたいは、花魁として欲しいってことだ」
「花魁!?」
素っ頓狂な声が出た。寝耳に水だ。水どころではない。大洪水である。
「うそ、うそ。そんなはずは」
「どう聞いてもそうでしょ」
宿木が素っ気なく言い放つ。
最後の頼みの綱とばかりに夕顔に助けを求めるも、
「確かに花魁の才能はあるかもね」
違う方向で勝手に納得している有様である。
「うそ……」
私が花魁――。
頭の中に、つい先日見たおせんの幼なじみである花扇花魁の姿が浮かんだ。
見事な模様の
彼女は幸せそうではなかった。
「おまえ、花魁が何してるかわかってんのか。男に」
「わかってる!」
それ以上聞きたくなくて、思わず叫んでいた。
「いまから断ってきたら?」
「断るもなにも、こいつにそんな権利ないでしょ」
夕顔と宿木のやりとりも、すずの耳を素通りしていく。
色男のもらいたいという言葉に浮かれていた。そんな美味い話があるわけないのに。
どのみちやることは同じだ。――行き着く先だって同じだ。
今度ばかりは誰もすずを助けられない。
これは楼主と楼主の売買だ。すずが男吉原に来ることを拒めなかったように、当人の意思とは関係のない、頭上でされるやり取り。跳び上がって手を伸ばしたところで、
すずは、ただ言われたことに従うしかなくなる。
「おい」
月の兎の声が耳を通って、反対側の耳から抜けていく。
なぜか涙は出なかった。泣き出しても全然おかしくない状況のはずなのに、すずの瞳はからからに乾いて、涙があふれる気配はこれっぽっちもない。
体から心が分離していく。手足の感覚がやたらと遠くて、まるで他人の体を間借りしているみたいだ。
もし、このままであれば、花魁としてでもやっていけるのではないか。体の感覚がなければ、きっと何も感じることなく、日々を過ごしていけるだろう。
それはそれでいいのかもしれない――。
「おい!」
一際大きな声が
びっくりして目を丸くすれば、格子の向こうに怒った月の兎の顔があった。
最近、月の兎には怒られてばかりだ。
それにしてもどうして月の兎はいつも怒ってくれるのだろうか。
ぼんやりとそんなことを思う。
月の兎が眉を寄せた。戸惑ったように、迷うように。
そのとき、妓夫台脇の
銀之助はすずと月の兎の光景を見るや、一瞬驚いたように目を
「日を改めて迎えに来るから」
銀之助の目は月の兎の存在を映していない。楼主にとって男娼や花魁は商売道具である。なくては商売が成り立たないが、道具はあくまでも道具なのだ。
月の兎はすずから手を離し、張見世の中で
張見世の格子を挟んで、月の兎と銀之助が並んだ。張見世の方が高いから、自然と月の兎が上から見下ろす形になる。
月の兎がすっと目を細めた。いつもの人を惑わす
「昼三男娼舐めてると痛い目に遭うぜ」
銀之助は可笑しそうに、小さく笑った。
「それは楽しそうだな」
「ああ。男吉原のやり方を見せてやるさ」
「どうぞ」
銀之助は微笑した。
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