第22話 嵐はふいに訪れる
問題というのは、起きる日には何度も起きるものらしい。
張見世が始まって一刻も経たないうちにそれは起きた。珍しく、月の兎、夕顔、宿木の誰にも客の指名が入らず、暇を持て余した挙句、かるたに
葵屋の前に、一人の男が通りがかった。
男はぶらぶらと歩いているようで、その実、しっかりと妓楼の看板を一軒一軒確かめながら歩いていた。
男吉原において、男の姿はそれ自体が珍しい。
美しい男娼に目がない男色家か、はたまた女房の浮気を疑った男が目を血走らせながら、相手の男娼を見に来るかのどちらかだ。
だが前者であればたいていは
男は周囲の視線を物ともせず、ゆったりとした歩調で歩いていたが、ふいに葵屋の前で立ち止った。
「ここ、か……」
ぽつりと独り言を呟くと、興味深そうに張見世の中を覗き込んだ。
中にいる男娼たちを
いつもなら誘う素振りを見せる男娼たちも、さすがに相手が男とあっては声を掛ける者もいない。男色家の要求は得てして、男娼に無理を強いるものだ。
男は一通り眺めてから、へえ、と楽しそうに笑った。
「さすがに男吉原で名が知れた妓楼。粒ぞろいだねえ」
「どんな男娼をお探しでしょう?」
見世番が声を掛ける。
男は驚いたように妓夫を見やり、ついで一人で納得したように頷いた。
「ああ、そうか。確かにそう見えるな」
「いまでしたら、うちの看板男娼が揃っておりますよ」
見世番の口上に、張見世の中で宿木が、げっ、と小さく声を上げた。
隣に座している月の兎が宿木を肘で軽く小突く。
「あれなら我慢できなくもねえ面だろ、この間の
「……思い出したくもない」
「男色家は大体宿木を指名するよね」
げっそりとため息をつく宿木に、夕顔がトドメをさす。
張見世の中のやりとりなど知る由もない男は、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「じゃああの三人全員」
「は?」
見世番が
「看板男娼三人でいくら?」
「は、あ……いや、その」
しどろもどろになる見世番の肩を、男はふざけるようにぽんぽんと叩いた。
「冗談に決まってるだろ」
「そ、そうですよね。あはは……」
「俺が指名したい者が、たぶん妓楼の中にいるはずなんだけど、入ってもいいかい」
「どの男娼でしょう? もう座敷に揚がっていれば」
見世番がほっとしたように、妓楼の中を確認するように後ろを向いた。
「いや、男娼じゃない。――飯炊き女だ」
男娼たちの喧嘩騒ぎで遅れた分を取り戻そうと、いつにも増して手早く夜食を作っていたすずは、最後の一皿分を終え、額にうっすら浮かんだ汗を拭った。
「あとは特にやることないかな……」
夜食を作り終えてしまえば、あとは食べに下りてきた男娼への
幸い今日は妓楼もさほど忙しくないようで、若い者たちだけで手が足りている。
「じゃあ今日はもう部屋に戻ろうか」
おせんが肩をぐるぐる回しながら言った。
そうだね、と言いかけたすずの元に、困惑した様子の見世番が頭を掻きつつやってきた。
「あの、すずさんにお客で……」
「お客? 私に?」
すずは目を白黒させた。お客のアテはない。
「おそらく……。それともおせんさんなのか。いやいや特徴はすずさんだし」
はっきりしない見世番の言葉に、おせんが首を傾げた。
「どういうことだい?」
「それが……女吉原の
「さあてねえ」
不思議そうに首を振ったおせんの横で、すずは心臓に汗を掻いていた。脳裏に先日の羅生門河岸での出来事がよぎっていく。もしすず宛てに訪ねてくるとしたら、追い払われた方の男が腹いせのお礼参りに来た可能性が高い。
「し、知らない」
すずも首を振った。
「あぁ、やっぱり人違いなんですかねえ。まったくどこの遊び人だか」
見世番がぶつぶつとぼやく。
遊び人? あの浪人ではなく?
「待って。知ってるかもしれない」
慌てて見世番を呼び止めた。もし助けてくれた人なら、無下にはできない。
見世番の男に続いて妓楼の
間違いない。あのとき助けてくれた人だ。
すずが声を掛けるより早く、男がすずの姿に気づいて破顔した。
「元気そうで何よりだ」
「あのときは本当にありがとうございました」
そう言ってすずが頭を下げると、男は目を細め、満足そうに笑った。
「うんうん、素直な良い子だねえ」
「いえ、そんな……」
理知的な色男に褒められて、嬉しくないわけがない。自然と顔が緩む。
「ところでここでの居心地はどうだい?」
ふいに男はそんなことを言った。
「居心地ですか? えっと……」
思わず張見世の中をちらりと見てしまった。まさか男娼――とくに看板男娼たち――にコキ使われている毎日です、とは言えない。
月の兎たちはすずの視線など気づいていないというふうに、つんっと澄ましている。
「良い待遇で雇ってもらっています」
そつのない回答を口にした。
「へえ……」
男はすずの視線を追うように張見世を一瞥し、意味深な笑みを浮かべた。
「満足にご飯は食べられている? 忙しさは? ……たとえば男娼たちに顎で使われていたりしないかい?」
後半の方の問いに答えが詰まる。すずが答えに窮していると、男は追い打ちを掛けるように、ずいとすずの方に近寄った。そのまま腰をかがめるようにして、すずと目線を合わせる。
うわぁ、目の前に色男……。かっこいい!
近くで見ると、人懐っこい目の奥に秘めた強さが見えるような気がして、すずはうっとりと男の顔を
「おい、こら」
と、無粋極まる声が背後から掛かった。
ドスの利いた声に、条件反射のようにびくりと肩が跳ねた。
「ちょっと顔の好い奴を見るとすぐこれだ。おい、すず。寝惚けてないで、目ぇ覚ませ」
怖々と振り向けば、月の兎が張見世の中で仁王立ちになっている。
月の兎の横では、夕顔と宿木が、やれやれとばかりに肩を
「怖いねえ。せっかくの美丈夫ぶりが台無しじゃないか」
男がからかうように言った。
「こちとらこの顔で売ってんだ。ちょっとやそっとで揺らぐほど安くねえんだよ」
「大した自信だねえ」
「冷やかしなら間に合ってるぜ」
言外にさっさと帰れ、と言っている。
男も月の兎の言葉を察したようで、スッとすずから一歩離れた。
「冷やかしじゃなくて、この子と、ここの楼主に用があってね」
「私とおやじさんに?」
予想外の言葉に、すずの中に警戒心が芽生える。
助けた謝礼金を払えとか言われたら、どうしよう。
すずの不安そうな顔に気づいたのか、男は兎を愛でるようにすずの頭を撫でた。
「大丈夫。きみにとっても良い話だよ」
そう言って男は軽く腰を折り……すずの額に唇を落とした。
瞬間、その場の時が止まった。
目を丸くしたまま硬直する、すず。
握りしめた格子に張りついて絶句する、月の兎。
わあお、と言いつつもどこか楽しそうな夕顔に、小さく口笛を吹いてひやかす、宿木。
そんな中、混乱の渦を巻き起こした当人だけが、
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