第21話 色と喧嘩は男娼の華
すずが女吉原に行った日から数日後のことだった。
いつものように男娼たちが遅い昼餉を終え、すずは後片付けをしていた。
もう間もなく暮れ六ツ。夜見世が始まる頃だ。それまでは男娼たちにとって貴重な自由時間だが、夜見世の身支度がある。
二階が騒がしくなり始め、早々と準備を終えたのか、一人の男娼が階段を下りてきた。いつも着物を着崩している男娼である。
「ずいぶんと早いですなあ」
若い者が気さくに声をかける。
「へへ。今日は伊東屋の若女将が来るからな」
「ああ。あの
若い者と男娼の会話を片耳に聞きつつ、すずは洗い終えた皿を手拭いで拭いていた。これが終わったら、すぐに夜食作りに取り掛からなければいけない。やることはまだまだあるのだ。
「すず、この魚
おせんがまな板の上に魚を乗せながら言う。
「うん、お願い」
おせんとはすっかり元通りの関係に戻っていた。むしろあの日以来、これまで以上に相手の呼吸がわかるようになったらしく、通りがかった楼主の又六はやたら上機嫌だった。
「おうおう、こりゃいい相棒同士だ。これなら十分二人でやっていけるな」
あっははは、といかんなく金勘定の才を発揮した笑い声を上げたものだ。
「よし、片付け終わり……っと」
すずが野菜を取り出そうとしたときだった。
表の方で怒声が響いた。
「てめぇ!」
驚いた拍子に手から大根が滑る。ごとんっ、と音を立てて大根が落ちた。
青くなるすずをよそに、怒声は続く。
「ふざけんじゃねえ!」
すずはそれどころじゃない。今夜の主菜である大根は、落ちた衝撃で先の方が少し折れてしまっていた。青くなって大根を見つめるすずに、おせんがひょいと顔を出した。
「平気、平気。どのみち切っちゃうんだから」
折れた大根を拾い上げて笑うおせんに、すずはホッと安堵のため息をついた。
「ところで何事?」
ようやく怒声のことが気にかかった。
「あぁ、なんだろ。喧嘩みたいだね」
「ちょっと行ってくる!」
「すずも物好きだねえ……」
前掛けを外して表に向かうすずの背中に、おせんの呆れたような、感心するような声が追ってきた。
妓楼の入り口では二人の男娼が言い争っていた。
そのうちの一人は、先ほど若女将が来るからといち早く下りてきた男娼だった。頬に薄笑いを浮かべ、にやにやとしている。対する男娼は葵屋でも古株で
いまにも掴み合いになりそうな一触即発の雰囲気があった。
すずが近くにいくと、若い者の一人に腕を掴まれた。
「やめとけ。怪我するぞ」
「なにがあったの?」
「客の取り合いだよ」
若い者が小声でそう教えてくれる。
どうやら先ほど話題に上っていた伊東屋の若女将は、はじめ年嵩の男娼の客だったらしい。それをもう一人の男娼が素知らぬ顔で
男吉原では一度一人の男娼と馴染みになったら、他の男娼に変えるのは御法度である。だが馴染みになる前であれば、客の不義理にはならない。ゆえに男娼同士が上客を奪い合うのだ。
「汚い手ぇ使いやがって!」
年嵩の男娼が顔を真っ赤にして怒る。
薄笑いを浮かべていた男娼が、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「へっ、どうせあんたじゃ、あの方を満足させられねえさ」
「なんだと! この、男娼の恥知らずがっ!」
年嵩の男娼が掴みかかった。
「俺とやろうってのか!」
優雅に着飾っていても、中身は血気盛んな江戸の野郎たちである。あっという間に掴み合いの喧嘩になった。客が絡んだ男娼同士の喧嘩は見栄と意地もあって、収まるところを知らない。
それを知っている若い者たちも取り囲んではいるものの、仲裁に入るに入れず、右往左往するばかりだ。
「おい、誰か甚五郎さん呼んでこい!」
止められるのはあの人だけだ、とばかりに誰かが叫ぶ。
と、ぎしぎしと階段がきしむ音がした。
甚五郎かと、すずが振り向けば、赤地に大きな
「なんだあ、喧嘩か?」
雨でも降ってきたか、と聞くようなのんきな口調で言った。
「甚五郎さん、上にいるっ?」
「ああ。この間入ったばっかりの奴の世話焼いてたぜ」
「呼んでくる!」
「甚五郎呼ぶまでもないだろ」
月の兎はそう言うが早いか、着物の
「え、うそ、ちょっと……」
焦った。昼三男娼だろうがなんだろうが、近づけば間違いなく巻き込まれる。
ああもうっ、あの美しい顔に傷の一つでもついたらどうするの!
すずの心配をよそに、月の兎は優雅な足取りで拳を繰り出す二人の間に立った。
「危ない!」
思わず悲鳴混じりの声が出た。
当たる! そう思った瞬間、目にもとまらぬ速さで、月の兎がそれぞれの拳を受け止めた。
左右から迫った拳を両手で食い止めた月の兎が、呆れたようにため息をつく。
「どうせ喧嘩するならもうちょっとマシな拳繰り出せって……」
あっさりと拳を受け止められた男娼二人が、唖然とした顔で呆ける。
周囲にいた若い者らから感嘆のため息が漏れた。
「さすがは月の兎さん。武家の出はやっぱり違うねえ」
「武家の出? 月の兎って元は武士なの?」
気が抜けたあまり体から力が抜け、柱にすがりつくようにして立っていたすずは、思わず口を挟んだ。
月の兎が武家の出なんて初耳である。
「ああ。小さい頃は剣術、武術に明け暮れてたらしいよ」
人は見た目に依らないよ、と言って若い者が
つられるようにして、すずの視線も月の兎に吸い寄せられる。
あれほど武とは無縁そうな見た目なのに、武家の出……。
にわかには信じがたい話だった。
月の兎は流し目で辺りを見回している。目じりに引いた紅のせいで、ただ視線を流すだけでぞくぞくするほど色っぽい。
「おい」
月の兎が呼びかけるように声を上げた。
誰が呼ばれたのかと思っていると、人だかりの隙間から見慣れた二人が抜け出してきた。
夕顔と宿木である。
「やれやれ」
「面倒くさいなあ……」
二人は文句を言いながら、喧嘩をしていた男娼たちの背後に回った。
「ほら、ほら。暴れないで。俺、力ないんだから」
夕顔に後ろ手で掴み上げられた年嵩の男娼が、縛めから逃れようと身をよじる。
「何が力ない、だ。くそ、この馬鹿力が。動きゃしねえ」
その向かい側では同じく宿木に押さえつけられた男娼が、往生際悪く暴れている。
宿木はまるで意に介した様子もなく、うんざりとばかりに首を振った。
「あーやだやだ。こういうの性に合わないわ」
「なら離せ!」
「いやだね」
嫌みたっぷりに宿木が笑ってみせる。
そのとき、野生の獣が駆け下りてくるような地響きを轟かせながら、甚五郎が二階から下りてきた。
「んもう! この子たちは血の気が多いんだから。少しは頭を冷やしなさい。ほら、それ以上暴れると、私との接吻で落ち着いてもらうことになるわよ」
途端、二人の男娼がおとなしくなった。
「まったく、失礼しちゃう」
甚五郎は心外だと
哀れな男娼二人を見送り、それぞれが持ち場へと散っていく。
何事もなかったように張見世に入っていった月の兎はどう見ても男娼のそれで、剣術、武術に明け暮れていた姿を想像するのは難しかった。
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