第20話 不夜城に見る夢

 その日の夜遅く、おせんは帰ってきた。


「……おかえり」


「ただいま……」


 それだけ言うと会話が途切れた。部屋に重苦しい空気が漂う。なにか言わなければと思いつつも、会話の接ぎ穂つぎほが見つからない。


 おせんがまとう気配も、すずの言葉を奪っていた。

 普段の気さくなおせんからは考えられないほどかたくなな表情、しっかりと引き結ばれた唇。すべてがすずを拒絶しているように思えて、さっきから口を開きかけては再び閉じるということを繰り返していた。


 まるで見えない壁が立ちはだかっているようだった。同じ部屋にいるのに、おせんが遠い。


「お水、飲んでくるね」


 居心地の悪さに堪えかねて、すずは立ち上がった。部屋を出て、障子を閉める。

 おせんからの返事はなかった。


 廊下に出たすずは、どっぷりと重いため息をついた。


 もう八ツを過ぎている。大引けの拍子木ひょうしぎも終わり、男娼たちも床につく刻である。妓楼全体がひっそりと静まりかえり、夜の気配に満ちていた。

 夜の賑わいが派手だからだろうか。寝静まった妓楼には祭りが終わった後のような、寂寥感せきりょうかんと物悲しさがある。


 かつて男吉原に来る前は、煮詰めたような夜の闇が当たり前だったはずなのに、不夜城ふやじょうに慣れたいまとなっては、明かりが恋しくてたまらない。


「はあ……」


 知らずため息が口をつく。たった一日で色々なことが起こり過ぎた。

 おせんと花魁のこと、女吉原で襲われたこと、月の兎のこと。

 あまりに濃厚なことが一編に起きたせいで、どれも儚い夢だったような気さえしてくる。


 ぼんやりと歩きながら台所まで来ると、床着姿らしい者がうろうろしていた。


「誰……?」


 怖々こわごわ問えば、床着姿の者がぴたりと止まり、ついで返事があった。


「あれ、すずちゃん?」


 夕顔の声である。いつにも増してゆったりとした口調だった。


「なにしてるの?」


「お水欲しくて。湯呑、どこにあるかわかる?」


「それならこっち」


 まるで見当はずれの場所を探していた夕顔の脇をすり抜けようとして、


「うわ、すごいお酒臭い」


 思わず袖で鼻をおおった。


「あ、ごめん。お客さんにかなり飲ませられちゃって……」


「大丈夫……?」


 すずが水を差しだすと、夕顔はおいしそうに飲み干した。


「まあ慣れてるから。なんか僕に飲ませたがるんだよね、みんな」


 夕顔が苦笑する。近くで見ればまだほんのりと頬が赤い。

 客の気持ちがわかった。色白の夕顔が酒で頬を上気させている姿は、さぞ色っぽいのだろう。


「ところですずちゃんこそ、こんな時間に何しに来たの?」


 訊かれて答えに窮した。何か用事があったわけではない、部屋に居づらかっただけだ。

 すずが答えられないでいると、夕顔はそれ以上追及してくることなく、おかわりと言って二杯目の水を飲み始めた。


 仄明かりに照らされてわずかに上向く夕顔の影が浮かび上がる。流麗りゅうれいな線を描くあごに、嚥下えんげに合わせて隆起する喉ぼとけ。見とれるほどの美男ぶりなのに、夜に見る夕顔はどこかかげが差しているような気がした。


「……酷いことしたの」


 気づいたときには言葉がこぼれていた。


 夕顔は驚いた様子もなく、話の続きを促すように視線をすずに向けた。

 夕顔の優しげな眼差しにつられるように、すずはぽつりぽつりとおせんの後を尾けたことを、おせんと花魁の関係は伏せて話した。


「おせんちゃんは根に持つ子じゃないよ。もう謝ったの?」


 すずは首を横に振った。


「話しかけにくくて……」


「それは良くないよ。酷いことをしたならちゃんと謝らないと。すずちゃんが話しかけにくいと思っているように、きっとおせんちゃんも話しにくいんだ」


 そうなのだろうか。おせんちゃんは怒っているんじゃないだろうか。すずの酷い行為に怒り、軽蔑したんじゃないだろうか。

 すずの不安を読んだように、夕顔は微笑を浮かべ、ついっと視線を逸らした。


「もし謝っても許してもらえなかったら」


 夕顔が言葉を切る。


「謝り続ける?」


 少しでも早く答えがほしくて、すずは自分から続きを言ってみる。

 夕顔はゆっくりと首を横に振った。


「……許してもらえるまで待つしかない」


 なぜだろう。一瞬、夕顔の目がうつろに見えた。まるでここではないどこか遠くを見ているように。


 だが、すずが声を掛けるよりも早く、夕顔はいつもの夕顔に戻っていた。

 気のせいだったんだろうか。暗くてはっきり見えなかった。

 と、夕顔が湯呑を流しに置く音で我に返った。


「ありがとう、夕顔。これから謝ってくる」


 夕顔は穏やかな笑みを浮かべ、頷いた。




 部屋に戻ると、おせんはまだ寝ていなかった。

 何か考え事をしているらしく、珍しくぼんやりと畳に視線を落としている。


「……おせんちゃん」


 すずが声を掛けると、おせんはハッとしたように体を固くした。身構えるような反応に、すずも体が強張っていくのを感じた。


 だめだ。自分から近づかなきゃ。


 自分を叱咤しったするように、すずはおせんの横に正座した。おせんがぎょっとしたように、すずを見る。


「ちょ、ちょっと……」


「ごめんなさい。身勝手に後なんか尾けたりして。私、自分の気持ちばっかりで、おせんちゃんのこと全然考えてなかった」


 本当にごめん、と腰から折るようにして頭を下げた。


「すず……」


 おせんが戸惑っているのがわかった。言葉を探しあぐねているというふうに、何か言いかけては、言葉を飲み込む。

 頭を上げるのが怖かった。


 もし拒絶されたら? 許してもらえなかったら?


 そうしたら夕顔の言う通り、ずっと待つしかないのだろうか。相手が許してくれる日まで。


「顔上げて、すず」


 静かにおせんが言った。恐る恐る顔を上げた。

 困惑したおせんの顔があった。困惑、狼狽、そして――怯え。

 そこにすずが怖れた怒りの感情は見受けられなかった。


「おせんちゃん……」


「……怒っていたわけじゃないよ。驚きはしたけど」


 おせんはそう言って視線を彷徨さまよわせた。言うか迷っているようだった。

 じっと待った。ここですずが口を開くことはない。

 やがて意を決したように、おせんがすずを見た。


「軽蔑、されるのが怖かったんだ」


 予想外の言葉だった。


「軽蔑? どうしておせんちゃんを軽蔑するの?」


 意味が解らず問い返すと、おせんがふっと笑った。肩から一気に力が抜けたような笑い方だった。


「すずはそう思ってくれるんだね。……女人が女人と、そういう関係を良く思わない人の方が多いんだ。江戸では侮蔑の対象さ」


 心底驚いた。男と男の関係はそこまで珍しいものではない。すずも直接知り合いがいるわけではないが――甚五郎は除いて――男を好む男が侮蔑された、という話は聞いたことがない。

 むしろ通の間では男女どちらとも経験してこそだ、と豪語ごうごする者もいるほどである。


「そんなのずるい」


 すずが思ったことをそのまま口にすると、おせんは困ったように笑った。


「はは、まあね。でも現実はそうなんだ。……だからあのとき、もう終わりだと思った。すずに軽蔑されたかもしれないって、怖くてまともに顔を見ることもできなかった。こっちこそ、ごめんな」


 そう言って、おせんがぺこりと頭を下げた。

 すずは拳を握りしめた。


「おせんちゃん、なにも悪くないじゃない。好きな人が女の人だって別に悪いことじゃない。男とか女とか関係ないよ。だってあの人が好きなだけでしょ」


 一気にまくしたてた。

 すずの剣幕に目を丸くしていたおせんが、ふいにくしゃっと笑った。ほとんど泣きそうな笑顔だった。


「すず、すごいなあ……。そんなふうに考えられるやつと会ったの、初めてだよ」


「そ、そう……?」


 すずだって驚いたことは驚いたのだ。それまで現実味を持って考えたこともなかった女色が、急に目の前で繰り広げられたのだから。だが、驚きはただの驚きだった。そこには嫌悪も侮蔑もない。


「――あいつ、あの花魁は私の幼なじみなんだ。しのって言ってさ、小さい頃から器量良しで、泣き虫なくせに妙に頑固で、野の花みたいだった。だから源氏名の花扇ってのも、すごく似合ってると思う」


 でも、とおせんは言った。


「しのは花魁なんか似合わないんだ。……でもこの間十四才になって今度水揚みずあげされるらしい」


「水揚げ……」


 花魁として客の前に出る準備として、経験させられるのだ。


「だからその前に会いに行った」


 おせんの目に悔しさが宿る。おせんの気持ちを考えると、掛ける言葉が見つからなかった。

 迷った末に違うことを聞いた。


「どうしておせんちゃんは女吉原の飯炊き女にならなかったの?」


 そうすれば花扇花魁のそばにいてあげられる。男吉原にいては会うことすらままならない。


「しのが嫌がったんだ。毎日毎日、男に抱かれることになる自分を見てほしくない、ってな」


「そんな……」


「しのの気持ちもわかるんだ。もしあたしが同じ立場だったら、きっと同じふうに思うだろうしね。だから男吉原の飯炊き女になった。男吉原の飯炊き女として金を稼いで、いつかしのをを身請けする」


 おせんがここで働いていた理由。いつだったか、おせんが言っていた。


 ――男吉原に来る奴も女吉原に行く奴も、みんな訳ありさ。あんただってそうだろ。


 花魁の身請けとなれば途方もない額だろう。ましてやあの花魁がいたのはおそらく大見世だ。

 だが、おせんもあの花魁も、それが唯一残された希望なのだろう。


 夢のない場所で見る夢――。


 それがどんなに儚いものでも生きる糧にはなる。

 悲壮な決意を微塵みじんも感じさせなかったおせんを見ながら、すずは小さく息を吸った。

 体の奥底でおりのように溜まっていたものが、かすかに揺れ動いた気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る