第19話 不機嫌の理由を教えてほしい

 男に女吉原の大門まで送ってもらったすずは、一人、男吉原への帰途についた。


 もうすっかり日は暮れてしまっている。楼主に許可も取らず、夕餉ゆうげの支度もしないまま出かけてしまったのだから、大目玉を喰らうことは免れない。自業自得だ。切見世きりみせに売り飛ばされる以外であれば、どんな罰も受けるつもりだった。


 鬱々うつうつとした気持ちで大門を見れば、大門に背中を預けるようにして立っている人影が見えた。


「……月の兎?」


 すずは目を凝らした。この刻であれば張見世に出ているはずである。

 だが、そや行灯あんどんに照らされて浮かび上がる横顔は、紛れもなく月の兎だった。衣装も張見世に出るときのものではなく、ただの着流し姿である。


 すずが小走りにそちらへと駆け寄ると、足音に気づいたのか、月の兎はこの上なく不機嫌そうな顔を向けた。


「月の兎。どうし、痛ッ」


 言い終わる前におでこを弾かれた。およそ容赦がない強さだった。


「ったぁい!」


 堪らずおでこを押さえて呻く。痛みのあまり抗議する余裕すらない。


「こぉの馬鹿野郎!」


 ビクッと肩が跳ねた。恐る恐る顔を上げると、目に怒りをたぎらせた月の兎の顔があった。

 なまじ美しい顔だけに、本気で怒ると凍り付きそうなほど怖い。反射的に歯がカタカタと鳴り出す。


「ご、ごめんなさ」


「いま何刻だと思ってやがる!」


「六ツ過ぎ……」


「そうだ、六ツ過ぎだ。飯炊き女が男吉原の外に出てていい刻じゃねえ!」


 月の兎の怒声が辺りに響き渡る。周りを行く客たちが何事かと見てくるのもお構いなしだった。


「わ、わかってる。罰なら」


「馬鹿野郎! 何がわかってるだ。何にもわかってねえっ!」


 凄まじい勢いで跳ねつけられ、不覚にも鼻の奥がツーンと痛くなった。

 だめだ、泣いちゃ。

 目に涙があふれそうになり、すずは慌てて横を向いた。


 月の兎がハッとしたように息を飲み、次いで小さくため息をついた。


「……それで、こんな刻までどこでなにしてやがった」


「それは……」


 思わず言いよどむと、月の兎にあごを掴まれ、強引に正面を向かせられた。


「言えねえなんて、言わせねえ」


 んで含めるようにゆっくり言われ、すずは観念した。

 おせんの様子がおかしかったから心配で女吉原まで尾けていったこと、そして女吉原で迷子になって酔客に絡まれたこと――。


 そこまで言ったところで、月の兎の顔色が変わった。


「何された! やられたのかっ? 怪我は? くそっ、どこのどいつだ!」


「ま、待って! 大丈夫、何もされてない。平気だったの!」


 沸騰ふっとうしたかのような月の兎の剣幕に、すずの方が慌てる。


「どこが平気なんだよ! 酔っ払いが手を出さねえまま、諦めるわけねえだろ! ちくしょう、ぶっとばしてやる!」


「待って、待ってってば!」


 そのまま走って出て行ってしまいそうな月の兎の着物を、思いっきり引っ張る。

 だが月の兎は止まらない。


「月の兎!」


 勢いあまって月の兎の胴体に腕を回した。ほとんどしがみつくような形で、ぎゅっと腕に力を込めると、ようやく月の兎が我に返ったように動きを止めた。


「すず……」


 なぜか、ひどく傷ついた顔をしていた。


「大丈夫。私は何もされてない」


 すずが言い切ると、月の兎の体から力が抜けていくのがわかった。


「……本当、だな?」


 こくんと頷いた。


 はあぁ、と月の兎が息をついた。疲れ切ったように大門へと体をもたらせかけ、月を見上げるように上を向くと、目をつむったまま黙りこくってしまった。

 その様子は我を失った自分を恥じているようにも、落ち着きを取り戻そうとしているようにも見えた。


「助けてくれた人がいたの」


 ぽつんと言うと、月の兎が少しだけ顔をこちらへと向けてくる。

 すずは言葉を続ける。


「名前は聞けなかったけど、女吉原の扇屋っていう妓楼の人みたい。その人が止めて、追っ払ってくれた」


「扇屋……」


 月の兎が訝しむように眉をひそめた。


「それより私が月の兎のお使いで出かけるなんて言伝頼んじゃったから、月の兎、ここで待ってたんでしょ。ごめんなさい、こんな迷惑掛けるつもりじゃなかった。ちゃんと罰も受ける」


 すずはそう言って、月の兎に頭を下げた。


 頭上から月の兎のため息が聞こえた。心底呆れかえったようなため息に、すずは申し訳なさで縮こまる。


「……そうじゃねえ」


「え?」


 思わず顔を上げた。


「だから、おまえが掛けたのは、迷惑じゃねえって言ってんだ」


 迷惑じゃない? それなら、なに――?

 答えに迷うすずの様子に、月の兎がこりゃだめだ、と呟いた。


「もういい、もういい。わかんねえならいい」


 戻るぞ、と言うが早いか、月の兎はさっさと歩いて行ってしまう。

 すずも慌てて後を追った。

 月の兎の背中はどこか怒っているように見えた。




「あ、帰ってきた」


 葵屋の入り口では宿木がたくあんをかじりながら立っていた。

 宿木は面白がるようにすずたちの様子を眺めると、すぐに合点がいったとばかりに、皮肉な笑みを浮かべた。


「なんだよ」


「いや、別にー」


「……言いたいことがあんなら、はっきり言えよ」


 月の兎が機嫌の悪さそのままに言う。


「なら言うけど、すず、月の兎の機嫌が悪い理由わかってる?」


「私が仕事放り出したから……?」


「なるほど。そうきたわけね」


 宿木がにやりと笑い、月の兎が狼狽うろたえた。


「ま、待て」


「月の兎はね、心配してたわけ。柄にもなく」


 月の兎の制止を無視して宿木が言葉をかぶせた。


 こつん、と宿木の言葉が胸の中に落ちてきた。ほんのりと温かいそれは、胸の中でじわりと溶けだし、みるみる周囲に広がっていく。


 心配、してくれた――?


 そう思ったとき、月の兎の言葉がよみがえった。


 ――おまえが掛けたのは迷惑じゃねえって言ってんだ。


 掛けたのは迷惑ではなく、心配――。


 ぶわっ、と激しい感情がこみ上げた。止める間も、隠す余裕もなく、涙が目に溢れ返った。

 一瞬で目に溜めきれなくなった涙が頬を伝って流れ落ちていく。平静を保とうとした努力もむなしく、顔がぐしゃりと歪んだ。慌てて手で顔を覆う。


「あーあ。月の兎が泣かせた」


「違っ。おまえが! あーもう、くそ……」


 心底困り切った月の兎の声に、余計に涙が溢れた。

 胸の辺りが痛くて、熱くて、どうしようもなかった。手で覆い隠した内側は、涙と鼻水で大変なことになっている。


「じゃあ、後は頑張って」


 宿木が楽しそうな声を残して歩いて行くのがわかった。


「おい宿木てめえ! おまえがどうにかしろ!」


 ばたばたと逃げる音に、追う音が重なる。どうやら逃げ出した宿木を追って、月の兎も行ってしまったらしい。体よく逃げた、とも言うが。


 妓楼の入り口に一人取り残されたすずは、顔を覆ったまま、鼻をすすった。なんとか涙は止まっていた。

 幸い今なら周囲に人の気配はない。袖からてぬぐいを取りだし、急いで涙を拭った。


 ふうっと息をついたところで、奥から甚五郎が前掛けで手を拭きながら出てきた。


「あら、声がしたから来てみれば、あの二人は?」


 すずが妓楼の中を指さすと、甚五郎が呆れたというふうに首を振った。


「もうあの子たちは……」


「……あの、甚五郎さん」


「なぁに?」


「ごめ」


「あー待って待って」


 謝りかけたところを手で制止され、すずは口を開いたまま止まった。


「謝らなくていいのよお。何か理由があったことは月の兎ちゃんから聞いてるから」


「でも夕餉の支度も、月の兎の張見世も私のせいで潰しちゃったし」


「夕餉はともかく」


 甚五郎はそこで言葉を切ると、意味深に、んふっと笑った。


「な、なに……?」


「大門で待つって、月の兎ちゃんが言いだしたの。今日、稼げない分はきっちり明日稼いでやるっておやじさんに啖呵たんか切って。もうっ、可愛いこと言っちゃってぇ」


 甚五郎が興奮したように、きゃあきゃあ騒ぐ。


「……月の兎が?」


「そうよお。あの子、ああみえて男気あるからねぇ」


 うっとりと目を細める甚五郎の横で、すずは大門の横で不機嫌そうに待っていた月の兎の顔を思い出していた。


 あのときも不機嫌だったのではなく、いつまで経っても帰ってこないすずを心配してやきもきしていたのだ。


 月の兎は不器用すぎる。客の前ではあれほど自由に性格を変え、歯の浮くような甘い台詞をささやいておきながら、ひとたび素に戻れば、ひねくれた性格が顔を出す。

 今日のことも宿木や甚五郎が言わなければ、すずはきっと誤解したままだったに違いない。


 心配かけてごめんなさい。ありがとう。


 いつか、直接言おう。すずはそう思った。

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