第18話 伊達者はおいしいところを食べる

 絶望的な気持ちで道もわからないままに彷徨い歩くうち、周りの雰囲気がひなびたものになっていた。


 おそらくは羅生門河岸辺りに出てしまったのだろう。退廃的な気配が足元をどんよりと漂い、いかにも堕落した遊女たちの暗く淀んだ目が、すずに向けられる。

 萎んだ気持ちに追い打ちを掛けられるようで、泣き出しそうになった。


 と、狭い道で浪人の風体をした男が通せんぼするようにすずの前に立ちはだかった。

 慌てて避けようとするが、男はよろけたふりをして道を空けようとしない。


「なあ、あんた安いんだろ。金がなくて小見世の妓も買えねえんだ」


 男から酒の匂いがした。相当飲んでいる。


「通してください」


 努めて冷静にすずが避けようとすると、男も合わせて横にずれる。


「いいじゃねえか。百文でどうだ」


「急いでいるんです」


「逃げんじゃねえよ。そこらの隅っこでやっちまおう」


 男がよろけた勢いですずの肩を掴んだ。


「痛っ!」


 思い切り掴まれ、すずは小さく悲鳴を上げた。痛みより恐怖の方が大きかった。

 酒に酔った男は四郎兵衛会所の男が丁寧だったと思えるほど、容赦がなく粗暴だった。


 男にはどうあがいても力では勝てない。助けを呼ぼうにも、こんな場所では誰も来てくれない可能性の方が高い。抑え込まれたら終わりだ。


「やめて、離して!」


 渾身の力を込めて振り払おうとしたが、びくともしない。


 視線を感じて見れば、河岸見世の遊女が薄ら笑いを浮かべて眺めていた。その目を見た瞬間、すずは体から力が抜けるような絶望を感じた。


 ここはそういう場所だ――。


 日の当たる場所ではない。世の中から弾き出され、それでも食いつなぐために全てをギリギリまで削りながら生きていく場所。削るものがなくなったときが、その者の生の終わりである。


 カクンと力の抜けたすずの体は、いともたやすく男に引っ張られた。

 男はこれ幸いとばかりにすずを物陰に連れ込み、これからのことを想像してか、下卑た笑みを浮かべた。


「へへっ、このぐらいの暗がりじゃ、おめえもなかなかの別嬪に見えるぜ」


 男が勢い込んで着物を脱ぎ始める。ふんどし一丁になった男の姿が、すずの中で古い記憶をかき混ぜる。

 鈍い吐き気がこみ上げた。


「い、や……」


 小さく声が漏れる。男には聞こえていない。


「おい、おめえも脱げ。それとも剥いてやろうか」


 男の手が伸びてくる。大きくて、抗えない強い力。男の手がすずの着物の衿を掴む。


 叫んだ。切り裂くような甲高い声を上げた――はずなのに、すずの喉は乾いて、大きく開いた口からは息が漏れただけだった。


 男の手が着物の前を広げようとした瞬間。


「やめときな」


 剣呑な、それでいてどこかやわらかい声が背後から聞こえた。

 男の手がぴたりと止まる。


「誰だ。人の色事を邪魔するたあ、ずいぶんと無粋なことしやがって」


「色事ねえ。これは酷い色事もあったもんだ」


 のんびりとした口調に、からかうような雰囲気が混じる。


「てめえ。馬鹿にしてんのか」


 男がすずから手を離した。まだ手を掛けてはいないが、腰には一本の刀を差している。


「馬鹿にしたくもなるだろ。これだけ女郎がいるってのに、素人に手を出そうなんてな」


「へっ。女吉原にいる女はみんな遊女も同じさ。こいつだって、俺のこと誘うような目で見てやがったんだ」


 違う! そう言いたかったが、口の中が乾ききってうまく喋れない。


「ほう、なるほどねえ。あんたも男だ。ましてや素人の女子から誘うような目で見てもらえるほどの伊達男だってんなら、こんな場所は似合わないだろ。どうだい、うちを紹介してやろうか」


「うち?」


「ああ、江戸町一丁目にある扇屋は知っているだろう」


「扇屋って……あ、あの扇屋か!?」


「俺が知る限り、女吉原で扇屋とつくのはうちだけだったはずだが?」


「じゃ、じゃあ、あんた……」


 男の声が震える。言いよどんだ先の言葉を男が言うより早く、すずの背後から喉の奥で笑うような声が聞こえた。


「いやあ、期待通りの反応だねえ。招待してやるから一晩遊ぶといい」


「冗談じゃねえ! だ、誰があんな馬鹿高い見世で遊ぶもんか。命がいくつあっても足りやしねえ!」


 男はすっかり酔いが醒めたらしく、身を翻すと足取りも確かに一目散に逃げ出した。


 目の前から男の姿が消え、一気に緊張が解けた。

 そのまま座り込みそうになるのを何とか堪え、すずは背後を振り返った。


「ありが……」


 後に続くはずだった言葉が途切れる。


 絵に描いたような伊達男であった。知的さと余裕をまとった佇まいから「通」を思わせる大人の色香が漂う。酸いも甘いも嚙み分けた者が持つ独特な落ち着きと、あえて危ない橋を渡りに行く野心が奇妙に同居したような雰囲気があった。

 いかにも一筋縄ではいかないとわかるのに、どこかいたずらっぽい笑みを口端に浮かべているせいか、不思議と警戒心は沸かない。


「……とうございました」


 すずが言葉の続きを言うと、男はにこりと笑った。


「どういたしまして。怪我はない?」


「は、はい」


「それはよかった」


 にっこり笑うと、柔和そうな目もとに華が広がる。

 色男には目がないすずである。先ほどまでの消沈はどこ吹く風、男の顔貌に見惚れた。心の中でうっとりとため息をつく。


 まさか女吉原にこんな好い男がいるなんて。ああ、格好いい……。


 このままずっと見ていたいと願うすずの思いが通じるわけもないのだが、なぜか男の方もじっとすずを見つめてくる。さきほどまでの笑顔とは違い、まばたき一つしない、真剣な目である。

 どちらも目を逸らさないものだから、まるで羅生門河岸で忍び合う男女の逢瀬のようである。


 美しい男娼もいいけど、遊び上手な伊達男もたまらない。

 伊達男の熱い視線にくらくらしていると、ふいに男が小さな声で何事かを呟いた。


「え?」


 思わず聞き返すと、男は笑って首を横に振った。


「なんでもないよ。いま言うのは野暮ってもんだ」


「あ、あの」


「いやいや、お礼なんていいさ。それよりどうして君みたいな子が女吉原に?」


 名前を聞こうとしたすずの言葉を強引に遮って、男が興味ありげに訊いてくる。


「友人を追って来たんですが……はぐれちゃって」


「友人?」


「はい。一緒に男吉原で働いている子で」


「へえ。男吉原で……」


 そのとき男の目が一瞬、きらりと光ったように見えた。


 すずが疑問に思ったのも束の間、男はさっとすずの手を取った。

 驚いて反射的に引っ込めようとすると、男は余裕たっぷりに笑った。


「あはは。大丈夫。俺は君を取って喰うほど餓えてない。迷子を大門まで送り届けてあげようと思ってね」


 確かにこれほどの色男だ。むしろ女の方が放っておかないだろう。


「……お願いします」


 おとなしく手を委ねると、男は色っぽい仕草で片目を閉じてみせた。

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