第17話 女吉原に咲く色
「うそ……いない」
すずは呆然と呟いた。
そこにおせんの姿はなかった。
すずが
慌ててそぞろ歩きをしている男たちの間に視線を走らせるが、おせんらしき者はいない。小走りに目抜き通りを進む。
仲の町通りから手当り次第に木戸門をくぐり、おせんを探した。だがいるのは湯屋に向かう遊女や座敷に揚がる芸者ばかりである。
仲の町通りの突き当りである
そうして再び大門近くまで戻ってきたとき、大見世らしき妓楼の裏手で見慣れた姿を見つけた。
おせんちゃん。そう声を掛けようとして、慌てて口を閉ざす。
おせんは一人ではなかった。
咄嗟に物陰に身を隠した。
おせんが心配だったからとはいえ、後を尾けたのだ。後ろ暗さがあった。
物陰から少しだけ顔を覗かせる。
おせんと花魁は何か話している。小声で話しているらしく、内容まではわからない。
知り合いなのだろうか。姉妹にしては似ていない。友人同士というのとも少し違う気がした。地味な着物をまとったおせんと、華やかな花魁とではあまりに雰囲気が違いすぎる。
なにより二人からはどこか人目を忍ぶ気配が濃厚で、それがなんとなくすずを立ち去りがたくさせていた。
風向きが変わったのか、時折二人の声が聞こえるようになった。
「おせんは変わりんせんなあ」
「……そんなことないさ」
他愛もない会話。その端々から二人が幼なじみであることがわかった。
おせんは花魁になった幼なじみに会いに、女吉原に来ていたのだ。
それならすずが心配するようなことではない。おせんに気づかれる前に帰ろう、そう思ったすずの耳に一つの言葉が滑り込んできた。
「すき」
動かしかけた足が自然と止まる。中途半端な格好のまま、すずは目を白黒させた。
すき……好き?
おせんたちの方を見ると、高下駄を履いた花魁が背を少しかがめて、おせんの頬に口づけをしたところだった。
目が釘付けになる。一瞬にして思考が停止した。
花魁がゆっくりと唇を離す。
おせんが照れくさそうに笑った。すずの知らない、幸せそうな顔。
「私もだよ、しの」
おせんの声は聞いたことがないほど優しかった。
女の女色――。
そういう者がいることは知っていた。だが、すずにとって女色はお
まさかおせんちゃんが――?
「おせんと会える日だけが、わっちの楽しみでありんすえ」
「なかなか来られなくてごめん」
おせんがすまなそうに謝る。そのまま何事か思案するように押し黙ったかと思うと、意を決したように花魁を見つめた。
「なあ、やっぱり私」
おせんが何かを言いかけようとしたところで、花魁がおせんの唇に指を押し当てる。
「だめ。それ以上、言っちゃだめ」
「でも」
言い募ろうとしたおせんの口を、花魁が焦れたように唇でふさごうとした――。
「あ」
声を上げそうになった。瞬間、すずの足が物陰に立てかけてあった板に当たった。慌てて押さえようと手を伸ばすも間に合わず、ガタガタッという音を立てて板が倒れた。
「誰!」
鋭い声はおせんのものだった。
すずはすぐに立ち去らなかったことを激しく後悔した。いまさら逃げることもできない。
仕方なく姿を見せると、おせんの目が
「すず……」
目を伏せた。距離を置いて向かい合ったまま重い沈黙が流れる。
「ごめん、私……その」
居たたまれなくなって口を開くと、動揺と怒りがない交ぜになったようなおせんと目が合った。
「……尾けたの?」
「ごめん。私、おせんちゃんが女吉原に身売りするのかと思って……」
おせんが複雑そうに目を逸らす。
「……わっち、戻っていんすな」
しのと呼ばれていた花魁が、気まずそうにおせんに声を掛ける。
「いや、しのはまだここに」
おせんは花魁を引き留め、
「……すず。ここまで来られたんだから、帰り道わかるよね」
すずの方を見ないまま言った。有無を言わせない口調が確かな拒絶を示していた。
「うん……。ごめん」
かろうじて声を絞り出す。
ぎこちない動きで反転し、小走りに道を戻る。二人から姿が見えなくなってからも、小走りに歩き続けた。道を適当に、右に左へと曲がり、できるだけ場所を離れた。
人通りが絶えた道で、すずはようやく立ち止った。
走ったわけでもないのに、息が上がっていた。寄りかかるものが欲しくて、近くの
そうして息を整えている間も、
おせんちゃんが女色――。
そのこと自体は不思議とすんなりと納得できた。驚きはしたが、嫌悪もない。おせんが男娼たちにまるで無関心なのもこれで合点がいく。
どうやら自分はそういうことにあまり
だが――。
ふいに息苦しさを覚えて、すずはひときわ大きく息を吸った。
――すず。ここまで来られたんだから、帰り道わかるよね。
そう言ったおせんの声は、ひどく乾いていて冷たかった。おせんのあんな声を聞いたのは初めてだった。
拒絶と怒り。
おせんは怒っていた。すずが後を尾けたことを、花魁との関係を知られてしまったことを。
早くどこかに行ってほしい。あのときの声にはそういう意味が含まれていた。
「おせんちゃんに嫌われた……」
口に出すと、胸の奥から感情の槍が突き上げてきた。突き刺すような痛みがあった。
自業自得なのだ。たとえ悪意がなくても、褒められたものではない行動をした結果が、自分に返ってきた。
板塀から体を起こし、とぼとぼと歩き出す。
おせんちゃんはあの花魁が好きなのだろう。花魁の方もおせんちゃんが好きで。
想い合う二人の間に流れている空気はとても優しく、そして悲しかった。二人がどれほど互いを想っていようが、一緒になれる可能性は限りなく低い。たまの
江戸における女色への風当たりは弱くない。一般的には存在しないものとする中で、ひっそりと忍ぶしかない。ましてやここは女吉原である。
二人の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます