第三章 女吉原はおそろしい

第16話 花園への危険な旅路

 その日、朝からおせんの様子がおかしかった。

 話していてもどこか上の空で、味噌汁に味噌を入れ忘れるという普段ならありえないような失敗をしていた。


「おせんちゃん、具合でも悪いの?」


 心配になって尋ねると、驚いたように否定した。


「まさか。ぴんしゃんしてるよ」


「じゃあ、気になることでも……」


「ないない。強いて言えば、食材が値上がりしたことか」


 そう言って笑い飛ばすおせんは、確かにいつも通りのおせんである。

 だがどうにも気になった。男ばかりの男吉原において、おせんは唯一の女友達なのだ。困っていることがあれば力になりたかった。


 もう一度聞いてみようか。

 すずが逡巡しゅんじゅんしていると、大階段の方が賑やかになってきた。


 明け六ツ前。朝帰りの客が身支度を整え、ぞろぞろと階段を下りてくる刻である。

 と、媚びるような甘えた声が階段の方から聞こえた。


「また来てくれる?」


 ちらりと覗くと、客を見送りに階段下まで降りてきた月の兎が名残惜しそうに、客の背中に羽織を着せ掛けていた。

 ぜいをつくした羽織を着た年増の客が、とろけそうな顔を月の兎に向ける。


「もうそんな顔して」


 手を伸ばし、月の兎の頬を撫でる。

 月の兎は手のぬくもりを確かめるように顔を寄せ、うっとりと目を細めた。


「だって柏木様、なかなか来てくれなかったから。もう僕に飽きちゃったのかと思って……」


「そんなことあるわけないじゃない。昨夜も愉しい思いをさせてもらったわ」


「本当?」


 月の兎が無邪気に目を輝かせる。


「ええ。またすぐに来るわ」


「きっとだよ。約束だから」


 捨てられる子犬よろしく目を潤ませた月の兎に、年増の客は今夜の夜にでも来そうなほど顔を緩ませる。

 年増の客が妓楼を出て行った途端、月の兎が遠慮のない大きなあくびをした。


「相変わらず財布の紐が固てえなあ」


 頭を掻きながらぼやく。


「別人……」


 すずがぽつりと呟けば、耳ざとく聞きつけた月の兎が台所へとやってくる。


「男娼相手に野暮だな」


 不敵に笑いながら月の兎がまな板に手を伸ばした。


「あ、ちょっと!」


 作り終わったばかりの朝餉あさげが、さっと掠め取られる。

 止める間もなく月の兎が口に運ぶ後ろで、おせんが内所に向かうのが見えた。


「残り、食べちゃだめだからね!」


 月の兎にそう言いつけ、すずは前掛けで手を拭きながら内所に向かった。

 おせんはいつになく神妙な顔で、内所にいる楼主の又六の前に座っていた。とてもじゃないが、入っていける気軽さはない。


 そのまま立ち聞きするわけにもいかず立ち去ろうとしたすずの耳に、楼主の無駄にでかい声が飛び込んできた。


「女吉原に行きたがる者も珍しいがな。わしは構わんぞ」


 ぎょっとして立ち尽くした。

 女吉原――?

 おせんちゃんが女吉原に行く?


 咄嗟とっさのことで意味を掴みかねた。だが、すずが言葉を理解する間もなく、又六に軽くお辞儀をして立ち上がったおせんが、こちらへと来ようとしていた。

 慌てて踵を返し、台所へと走り戻る。


「どうした?」


 別のおかずに手を出そうとしていた月の兎が、血相を変えて戻ってきたすずを見て、不審そうに眉を寄せる。

 いまの出来事を話していいものか迷った。まだすず自身、うまく整理しきれていない。


「な、なんでもない」


「……そうは見えねえぞ」


 月の兎の眉間にしわが寄る。


「なんでもないってば。ほら、これあげるから部屋に戻って戻って」


 そう言って月の兎の手にり豆腐をひとすくい載せる。


「うわ、おまっ、なんて渡し方しやがる」


 ぼろぼろとこぼれそうになる煎り豆腐を、両手で受け止めた月の兎の背をぐいぐい押す。

 なんとか月の兎を台所から追い出したところで、入れ替わるようにおせんが戻ってきた。


「さあ、みんなが起き出す前に盛り付けよっか」


 又六の前での顔が嘘のように、おせんはやけにすっきりした様子だった。

 



 九ツ頃、妓楼を出ようしているおせんを見かけた。

 おせん本人に聞くわけにもいかず、すずは後を尾けることにしたのだ。

 もしかしたらすずの勘違いか聞き間違いかもしれない。まずは真実を確かめたかった。


 妓夫台ぎゅうだいに居た見世番に月の兎の使いで買い物に行くという言伝を頼み、すずは距離を置いておせんの後を追った。

 おせんの足取りに迷いはなかった。ひたすら真っ直ぐ、女吉原への道をたどっていく。


 男吉原と女吉原はさほど離れていない。すぐに女吉原のくるわが見えてきた。

 遊女を思って客が振り返ると言われている見返り柳の前を通り、茶屋がひしめく五十間道を通り抜けると、女吉原の大門に着く。

 女吉原も男吉原と同じく、出入口はこの黒塗り板葺いたぶきの冠木門かぶきもんだけである。


「うわ、男ばっかり……」


 大門を前にして、すずは思わずたじろいだ。

 男だらけの光景は日常だが、男吉原にいるきらびやかに着飾った男娼たちと、女吉原に来る男では種類があまりにも違う。しかもいまは昼見世。女吉原に来るのはもっぱら武士である。


 たおやかな雰囲気をまとった男娼たちに慣れ過ぎたせいか、無骨な男にはそこはかとはない恐怖を覚える。

 すずが大門をくぐるのをためらっている間にも、おせんは慣れた様子で、ずんずんと先に進んでいってしまう。


「まずい、見失っちゃう!」


 慌てて後を追おうとすると、大門を入ってすぐ右のところにいた男に呼び止められた。


「おい、そこの女!」


 どすの利いた声に、反射的に身をすくめる。


「わ、わたし……?」


「おまえ以外に誰がいる。一人か? 付き添いは?」


「つ、付き添い?」


 意味がわからず、すずが首を傾げると、男は奥の建物をあごでしゃくった。


「こっち入れ。四郎兵衛会所しろべえかいしょだ」


 その名前には聞き覚えがあった。確か遊女たちの出入りを監視する会所である。


「ちょっと待って。私、遊女じゃない!」


 慌てて身を引いた。

 男の目つきが鋭くなる。明らかに疑っている目だ。


「ならばなぜ女吉原に入ろうとする? ここは男吉原じゃねえぞ」


「と、友達を追って……」


 言いかけて、はたと気づく。

 どうしておせんちゃんは呼び止められずに、ここを通り抜けられたのだろう。


「ふざけやがって。いいから来い」


 いよいよ疑惑の色を濃くした男が焦れたように、すずの腕を掴み、強引に会所の中に引っ張り込もうとする。


「待って! たったいまここを通っていった女子おなごがいたでしょ。私は彼女を追って」


 すずがそう言うと、男がいぶかしむように振り返った。


「それが本当なら手形を見せてみろ」


 男が言った。決して逃がすまいとして容赦なく掴まれている腕が痛い。


「手形って……こ、これのこと?」


 すずは懐に入れていた一枚の紙きれを出した。それは初めて葵屋に来たときに、楼主の又六に渡されたすずの身分証である。

 男は片手で紙切れを受け取り、めつすがめつして眺める。


「……本物のようだな」


 ようやくすずの腕が解放される。

 どっと安堵がこみ上げた。もしこの紙切れを持っていなかったらと思うとゾッとした。


 考えてみれば当然のことではあるが、女吉原に女が入るということは、かなりの危険が伴うのだ。下手をすれば、そのまま遊女にされかねない。一度でも疑いがかかれば、きっとこの廓から出してもらえなくなる。


 河岸見世かしみせの鉄砲女郎――。


 ふいにその言葉がよみがえり、すずはぶるりと身を震わせた。


 だがここまで来て、そのまま引き返すわけにはいかなかった。

 男から紙切れを受け取り、すずは逃げるように目抜き通りの仲の町へと出たのだった。

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