第15話 甘い汁だけは吸わせません

 そしてその日の夜も、宿木を老けさせる女はやってきた。


「冗談だろ……。俺を殺す気……?」


 うんざりしたように張見世から出てきた宿木の足は恐ろしく重い。


 いったいどんな一夜を過ごせばそこまで憔悴しょうすいするのか。翌朝の見送りを終えた宿木の疲労ぶりは昨日の比ではなかった。目の下にどんよりクマを作り、顔色も良くない。退廃的たいはいてきな色気も影を潜め、まるきり不健康そのものだった。


 さすがに気の毒に思ったすずが、宿木用の夜食を作っていると、張見世の前に見覚えのある女が立っていた。

 すずがこっそり覗きに行くと、案の定、例の女である。いくら大見世葵屋とはいえ連日登楼する客はさすがに少ない。


 いったいどんな暮らしをしている人なのだろうかと思っていると、女が何かを確認するように張見世の中をきょろきょろと見回した。

 それもそのはず、宿木はいま他の客の相手をしているところだ。昨日の今日だ。張見世にいなければさすがに諦めるだろう。


 そんなすずの予想を裏切るように、女はこそこそと妓夫台ぎゆうだいに近づいていく。

 指名を聞いた妓夫台の見世番は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに真顔に戻って指名を告げる。


「月の兎さん、お支度ぅー」


 耳を疑った。宿木ではなく、月の兎?


 月の兎はいつもと変わらない悠然ゆうぜんとした動作で張見世から出てくる。ゆったりと歩きながら、妓夫台の横を通り過ぎるときに、見世番に眉をしかめて見せた。


 見世番が無言で頷く。


 翌朝、満足そうに帰って行った女だったが、その翌日の夜にもまたやってきた。

 今度は宿木を指名する。


 女を先に二階に上がらせた見世番が、張見世から出てきた宿木に何事かを呟く。

 宿木は心得た様子でにやっと笑うと、やけに楽しそうに階段を上がって行った。


 その日はやけに客が立て込む日であった。月の兎も夕顔もそれぞれ上客が登楼し、妓楼の二階はいつにも増して賑やかな酒宴が繰り広げられている。


「あらあ、いやだ。宿木ちゃんがいなぁい」


 張見世を一瞥いちべつするなり、小太りな女が大げさに嘆いてみせる。


「これは井上様。お久しぶりでございます」


 見世番がすかさず対応しに行ったところを見ると、宿木の上客らしい。

 へこへこと愛想笑いを浮かべた見世番が、井上様と呼ばれた小太りの女を二階へと案内していく。どうやら名代みょうだいに相手をさせるつもりらしい。


 と、ぼんやり成り行きを見ていると、見世番に手招きされた。


「わ、わたし?」


 ちょくちょく張見世を覗きにいくせいか、見世番ともすっかり馴染み、こうしてときどき使われる。


「井上様は気が短い上に、ちょっとでも退屈させると後が面倒臭いんだ。名代は呼ばせに行ったから、あんたは宿木を呼んできてくれ。早くしてくれよ。俺じゃ、井上様を相手にしきれん」


 見世番に頼み込まれれば嫌とは言えない。


 酔っ払いたちの嬌声きょうせいが響く廊下を通り過ぎ、男娼たちの個室が並ぶ通路へと出る。

 宿木の部屋の前まで来たすずは、掛けようとした声を飲み込んだ。


 行灯の火に照らされ、障子越しの影が揺れている。左右に激しく動く影は良く見れば、女のものであった。宿木の上に女がまたがっているのだ。乱れ髪を振り乱し、女が背中をけ反らせる。すらりと伸びた宿木の足が、女の体に巻き付くように掛けられた。


 宿木の荒い息遣いが聞こえ、そのあまりの色っぽさに、すずは腰から力が抜けていくのを感じた。


 女の声に混じるようにして漏れ聞こえる宿木の声は、とても演技とは思えない。男娼が感じるのは恥だと言っていたことが嘘だったのかと思うほどになまめかしく、ぞくぞくするものだった。


「……こんなの、あんたが、はじめて、だよ……」


 宿木が息を継ぐ合間をって、言葉を発する。


「ああ、宿木……。私も」


「体の内側から……煮えくり返りそう……。もう、これ以上我慢、できない……」


「宿木。もっと言って」


「こんなふうに、あんたと体を合わせてると……むかむかしてくる」


「ああ、いいわ! もっと、もっと言って!」


 女が興奮したように叫ぶ。


 いったいどんな趣味なのだ。いたぶられてよろこぶ女が、すずには理解できない。


「ほんっと……反吐が出る!」


 宿木の語気が荒くなったかと思うと、影がぐるりと入れ替わり、宿木が女におおいかぶさる形になった。


「え……」


 たじろぐような女の声。


「あんたみたいな下衆げすな女は、うちの見世にはふさわしくない。河岸見世かしみせにでも行くか、夜鷹よたかでも買いなよ」


「ちょ、ちょっと宿木……」


「気安く名前を呼ばないでもらえる? ……昨日、あんたが月の兎を指名したこと、俺が知らないとでも思ってるわけ?」


 障子越しに宿木が顔を近づけるのが見えた。女がヒッと小さく叫ぶ。


「たとえあんたみたいな女でも客だからって相手してやれば、調子に乗ってくれちゃって。男吉原では同じ妓楼で別の男娼を買うのは御法度ごはっと。……知ってるはずだよね」


 低い声でささやく宿木の声を最後に、部屋の中はしんっと静まり返った。


 いったい宿木はどんな顔をして女に話していたのか。

 刃のように鋭い切れ長の目が冷めた色をたたえる様を想像して、すずはぶるりと震えた。きっと相手を傷つけようとするときの宿木はおそろしく容赦がない。


 部屋に入るどころか声を掛けることすらできず、立ち往生することになったすずは途方に暮れた。


 動くに動けない。いまさら声を掛ければ、後でなんと言われるかわからない。だがこのままここにいるわけにもいかない。


「おい、そこ。ちょっと入ってきて」


 ふいに呼ばれ、すずは飛び上がった。息を殺し、空耳であることを祈る。


「あんただよ、すず」


 望みは絶たれた。


 名指しで呼ばれれば、もう観念するしかない。渋々障子に手を掛ける。

 中には着物を羽織りながら醒めた目で女を見下ろしている宿木と、素っ裸のまま布団の上ですすり泣いている女がいた。


「お、お呼びでしょうか……?」


「ずっとそこにいたくせによく言うね」


「……わかってたの?」


「当たり前。人の情交を盗み聞きとは、あんたもなかなか良い趣味してるよ」


「ち、違う。盗み聞きしようとしたわけじゃなくて、声掛ける機会がなくて……っ」


「はいはい。そんなことより、この女、甚五郎さんに突き出すから。下まで持って行ってくれない?」


「持っていくって……」


 まるで物みたいな言いぐさである。

 女は抵抗する気も失せているらしく、布団に座り込んだまま動かない。


「あの、じゃあ下まで」


 すずが女に手を伸ばすと、ぱしんっとはたかれた。


「なによ、あんなみたいな小娘風情が! 馬鹿にしないでよ!」


 すずは手を引っ込めることも忘れて、唖然とした。


「あーあ。ちょっとやめてもらえる? こんな小娘風情でも一応うちの数少ない飯炊き女なんだよね。少なくともあんたよりよっぽど価値がある。ほら、邪魔だから出てってよ」


 宿木がつま先で女の尻をつつく。


「お、お願い宿木。見逃して!」


 女が宿木の着物のすそにすがりつく。


「見逃す? 相手が悪かったね。それなら俺じゃなくて夕顔辺りを選んでおくべきだったんだよ」


 酷薄な笑みを浮かべる宿木は、普段の顔を知っているすずでさえ凍り付きそうになるほど冷たかった。


 ようやく諦めたらしい女がすずに従って部屋を出ようとすると、宿木が思い出したように声を掛けてきた。


「それと、うちには不義理の罰があるからお愉しみに」


 ご愁傷しゅうしょうさま、そう言って宿木はにっこり笑うと、ぱたんと障子を閉じた。

 トドメまで刺された女の顔は、悲惨としか言いようがないほど老け込んでいた。




 すずが女を連れて階下に行くと、すでに心得顔こころえがおの甚五郎が待っていた。


「すずちゃん、ご苦労さま」


「あ、あの……葵屋の罰って」


 激しい折檻せっかんを想像して恐る恐る尋ねるすずに、甚五郎が手を横に振って笑う。


「やだ、そんな痛いことじゃないのよ。宿木ちゃんが言うと物凄く痛そうに聞こえるかもしれないけど」


 甚五郎の言葉に、女が怯えた顔を少し緩める。


 と、階段がギシギシと鳴り、紫縮緬ひぢりめんの床着をまとい、ゆるく扱帯しごきおびを締めた姿の月の兎が下りてきた。本人はまったく意識してないのだろうが、着崩した床着姿はひどく婀娜あだっぽい。


 毎日見ていてもドキドキするのだから、布団で待つ客にしてみれば垂涎すいえんものだろう。


「あー、腹減った。甚五郎さん、俺の廻し入れすぎ」


 すでにあちこちの床を行ったり来たりした後なのだろう。さすがに疲れた様子である。


「ごめんねえ。なんか今日はやたらお客さん多くて」


「なら貸しにしとく。すず、なんか夜食くれ」


 月の兎に言われ、すずは台所に走る。煮しめか何かが残っていたはずだ。


 残り物をかき集めて戻ると、いつの間にか広間には夕顔と宿木も来ていた。

 例の女を囲むようにして座る男娼たちの横で、甚五郎が粛々しゅくしゅくすみっている。


「何が始まるの……?」


「葵屋で不義理を働いた罰」


 宿木が薄く笑う。


「はい、宿木」


 夕顔が宿木に筆を渡す。ちょうど甚五郎も墨を磨り終わったらしく、宿木の横にすずりを置いた。


「さあて、何にしようか」


 獲物を前にした狼よろしく、宿木が舌なめずりする。


 月の兎が女をその場に座らせ、背後から着物を腰まで脱がせる。女はされるがままに上半身をはだけさせ、ガタガタと肩を震わせている。


「よりにもよって宿木に不義理とは、あんたも見る目がないな」


「それ、もう俺が言った」


 宿木が筆に墨を染み込ませる。十分に筆を扱いて余計な墨を払うと、筆先を女の背中につける。


「ひゃっ」


 女が間の抜けた悲鳴を上げた。


 宿木は構うことなく、筆を女の背中の上で滑らせていく。真っ白なたまのような背中に、真っ黒な文字が書きこまれていく。


 意味がわからないまま、女の背中を覗き込むと、癖の強い字で〟の女、玄人くろうとなり〟と書かれていた。


「ど、どういうこと?」


 すずが戸惑っていると、夜食の煮しめを食べながら、月の兎が説明してくれる。


「葵屋はな、客が不義理を働いた場合、二股をかけられた男娼によって、ちょっとやそっとじゃ消えない特殊な墨で背中に文字を書くっていう罰があんだよ」


「あーこれは可哀想に……」


 続いて覗き込んできた夕顔が、同情するように首を振った。


「え、ちょっと、なんて書いたの? ねえ、宿木」


 みんなの反応に不安をあおられたらしく、女が慌てふためく。


 女の反応をじっと見ていた宿木が、厳かに筆を硯に戻しながら呟いた。


「あんたに似合いの言葉だよ」

 



 翌朝、女は大門が開くと同時に逃げるように出て行った。

 朝餉の準備を終えたすずは、二度寝から起きてきた宿木を捕まえると、女の背中に書いた文字の意味を尋ねた。


「あぁ、あれね。あの女、女吉原の出だよ」


「花魁ってこと?」


「脱走か、身請けされた後で追いだされたか。男に慣れ過ぎなんだよ。俺たち男娼と同じ匂いがした」


 宿木が言う匂いというのは、同族という意味なのだろう。その言葉にはどことなく嫌悪のようなものが滲んでいた。


「でもどうしてわざわざ玄人なんて書いたの?」


 すずの問いに、宿木が待ってましたというようににやりと笑う。


「あの手の女はすぐに我慢できなくなって、また男吉原に来る。どこの妓楼に行こうが、背中にあんなことが書かれててみなよ。すぐに知れ渡って、もし脱走だった場合、すぐに女吉原に連れ戻されることになる」


 男吉原も女吉原も脱走の折檻は苛烈かれつである。脱走であれば激しい折檻が待ち受けており、身請けだったとしても、あれでは還俗げんぞくできずにまた吉原に戻るしかなくなる。どちらにせよ地獄のような日々だろう。


「うわあ、さすが宿木。やることがえげつない」


 思わず本音を漏らせば、宿木はいつになく真顔で言った。


「当然だよ。不義理には報いを受けてもらう。男吉原には男吉原の流儀があるんだ」


 冷めきった顔で言う宿木を見ながら、すずは宿木が内に抱える危うさが、ちらりと見えた気がした。

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