#03 near the temple
ハンナの見つけた「彼」は、日暮れの森をずんずんと進んでいる。
これだけ木の多い、鬱蒼とした森ならば野犬の一匹でも潜んでいようものだが、どういうわけか、彼とハンナ以外、生き物の気配はなかった。
(どうしよう……もう夜だ……)
彼は森を抜けず、ぐるぐると回って歩く。ハンナがそれを追いかけているうちに日は沈み、月が空の真ん中で輝いている。生い茂る木々のせいで、足元は真っ暗だ。恐らくもう日付は変わっているが、ここまで後をつけておいてノコノコ帰るわけにも行かない、これも修行のうちだ―――と、ハンナは自らに強く言い聞かせていた。
ふと、彼が開けた場所に出た。
(――――
森のなかには、木造りの、大きな
そして、ここにも生物の気配はない。寺があるなら、人も居るはずであろうに。
それから、ハンナは自分の持っていた情報を修正した。
(日本人が魔法を使えないなんて、誰が言ったんだか……)
ハンナらのような魔法使いほどしっかりと「魔力」を意識して使えているわけでは無さそうだが、それでもこの社の周囲にはしっかりと結界が貼ってある。吹けば飛ぶような結界でも、これこそがこの国の「魔法」であることは明白だ。何か、独自の技術で魔力を扱っているのだろう。この事実を発見しただけでもここまで来た価値がある、とハンナは考えた。
だが、彼女が気になったのはそこではなかった。
結界の一部が、割れている。
解かれたのではない。あれは、何か別の純粋な「力」で、叩き割られている。
ハンナが尾行していた男も、その割れ目から神社の境内に侵入し、そのままその場でしゃがみこんでいる。
(結界が見えてる……って感じじゃないなあ。何か落ちてるのかなあ)
彼女は霊体化して姿が見えないのをいいことに、彼のすぐそばへと近寄った。
彼が彼女を見た。
(―――――――――っ!)
ハンナの動きが止まる。
―――――――見える、わけが、ない。
霊体化しているんだから。
実体がないんだから。
見える、はずが、ない。
彼女はそう考え自分を落ち着かせようとしているが、それでも彼は、何かを感じ取ったようにハンナのいる中空を睨んでいる。
(見えてない……見えてない……見えてない……っ)
しばらくすると、彼は首を振りながら立ち上がり、また森のなかへと歩を進めた。。
(……………………、近づくのは、やめとこう)
ハンナは、まだこの国の人間のすべてを理解できているわけではない。
少なくとも彼は、妖精の姿かたちそのものまでは見えずとも、その気配は確実に感じ取っていた。幸い、そこまでしっかりと感じ取れるようではなかったが。
ふと、ハンナは彼がうずくまっていた地面に目をやった。
そこには足跡があった。
普通の人間の、二倍はあろうかという大きさの。
―― ―― ――
「おー、そこかあ。探したぞ」
森へと戻り、足跡を追っていた彼が不意に声をあげた。まるで、旧友と再会したような口ぶりで。
しかし、それは明らかにヒトではなかった。
「――――――」
ケモノのような、静かで、それでいて心を凍てつかせるような啼き声が森に響く。
(…………な、に、アレ……)
ハンナはソレを、ただ眺めることしかできなかった。
四メートルはあるだろうか。
その大きな体躯は燃えるような赤色で、長く伸びた腕の先に、更に長い爪が生えている。
頭には、これまた大きなツノが二本もあって――――――ヒトの、顔をしている。
脚が二本。手も二本。腰があって、胴があって、首があって、顔がある。だがどう見たってヒトではない。それどころか、この世のモノであるかすら怪しい。
それでも。実際に、ここに居る。薄ら笑いを浮かべて。真っ白な瞳を、自分に話しかけてきた男にまっすぐ向けて。
(悪、魔……)
ハンナは、そうとしか思えなかった。
だが、どの伝承に伝わる悪魔とも違う。違いすぎる。ハンナが、一人の見習い魔法使いがどうこうできる相手ではない。ましてや、魔法も使えぬ男など――――
「五人は喰ったかあ。元気な奴め。そうら、新しい餌だぞう?」
事もあろうに、彼は両手を上げて、二〇メートルほど先の「悪魔」に歩み寄った。
そのあとは、当たり前。
「悪魔」はうれしそうに口角を上げ―――彼に向かって、まっすぐに走り出した。
いや、跳んだのか。どちらにせよ、凄まじい速度で、ひとつ結びの彼との距離を詰めていく。大きく右腕を振りかぶりながら、太い脚で地を蹴って。
そうしてそれから、ひときわ大きく地面が震え、轟音とともに大きな土煙があたりを包んだ。
あの恐ろしい「悪魔」が、右腕を叩きつけたのだろう。
けれど、ハンナはもう、違うものを見ていた。
(飛んだ…………)
ひとつ結びの彼は、「悪魔」の爪を、まっすぐ上に跳躍して避けていた。
見上げるほどの高さに彼は居る。月をバックに、地面に背を向けて、横になった体をひねりながら、鋭い目で「悪魔」を見据える。
腰の剣に手をかけて、少しずつ鞘から抜きながら、グリップをゆっくりにぎりしめて。
その右腕に、
空へと飛翔した彼は、体の正面を完全に地上に向けてから―――空を蹴って、地面へ跳んだ。
流星のように真っ直ぐに。稲妻のように鮮烈に。
「悪魔」も、そのさまを見ていた。首をもたげ、薄ら笑いを浮かべたままで。
反面、男の目は違った。
殺意に満ちていた。
笑う悪魔に、殺す彼が飛び掛かる。
その一閃を、月が照らした。
彼の一撃で、悪魔は手首をひとつ失った。
もはやその顔に薄ら笑いはない。悪魔も、彼と同じ殺意を顔に浮かべている。
なくなった左腕の先を、右手で押さえながら悪魔がなにかを叫んでいる。
それを聞きながら、今度は彼が嗤う。
「ははははは! そうだ! それだ!
彼は剣を真っ直ぐに悪魔―――鬼に向けて、嬉しそうにそう言った。
その剣は、ひどく細かった。ひどく薄かった。
緩やかにカーブしているブレードなど、あの鬼が触れただけで粉々になってしまいそうだった。
でも彼は、その細くて薄い剣だけを手に、叫び続ける鬼へと駆け出した。
―― ―― ――
その鬼の動きは、まるで町のごろつきのようであった。
手首を失った左腕を、むやみやたらに振り回す。
腕だけとは言え、丸太のように太いそれをまともに受ければどうなるかなど、考えるまでもない。そのうえ、速い。一度腕を振るう度、森の枝葉が音を立てている。
男はその攻撃を、完全に避けている。ときに右に、ときに左に、ときに後ろに。するりするりと地を滑るように、ひょいひょいと跳び跳ねるように。
そうしながら彼は、考えを巡らせていた。
(硬かった―――)
先の唐竹は、右肩から先を斬り落とすつもりだった。
しかし、鬼は身を守るように左手を伸ばし、するりと後ろに後ずさった。そのうえ、その左の手首は妙に硬く―――斬り落とせこそしたが、刀を構え直した頃には鬼はとうに間合いの外へ逃げていた。
ごう、と、ひときわ強く鬼の腕が振られた。後ろへ大きく跳ねた彼の流し着に、鬼の血が降り掛かる。
互いに、間合いの外。男の刀が鬼に届かず、鬼の腕が男に届かぬ、ぎりぎりの距離。
鬼は、腰を沈めたまま動かない。
男は、右手の刀を肩に乗せたまま動かない。
(―――――ふうん?)
男は、それを妙と捉え―――唐突に、ニタリと嗤った。
じり、じり、と草履を前へと滑らせていく。
それを見た鬼は、まだ傷一つない右手を手刀のようにして男へ向けた。長い爪がひとまとめになり、幅広の剣の形をとっている。
じり、と彼がもう一歩踏み込んだ瞬間、鬼がその爪を思い切り突き出した。
男がそれをしゃがんで避ける。姿勢はそのままに、鬼の両足めがけて刀を振るう。が、鬼の左腕がそれを阻んだ。前腕に刀が食い込み、それ以上刃が通らない。男はすぐさま刀を戻し、ごろりと左に転がった。彼が先程までしゃがんでいた場所の土を、鬼の爪がえぐり取る。
男が今度は爪へ刀を振るう。がん、と音を立て、刀が弾かれた。
すぐさま振るわれる鬼の左腕を、男が刀で受け止める。その肉に刃は何寸か食い込むものの、やはり、斬り落とすには至らない。
また、爪が男に突き出される。男は少し体を傾け、それを躱す。
振るわれる左腕を、ひらりと避ける。
突き出される爪を、はらりと躱す。
どちらも無理なら、刀で受ける。
風切り音と金属音との合間。
彼は、己を殺さんとする鬼の目に、かすかな理性を見た。
四十か五十か。爪と腕を、男はすべて紙一重で避け続けている。そのせいで、彼の着物のあちこちはぼろぼろに破れている。
しかし、彼は無傷であった。呼吸すら乱れていなかった。
対して鬼は、明らかに苛立っていた。繰り出される攻撃は次第に乱雑になり、速度も少しずつ落ち始めた。
鬼が、大きく叫び声を上げた。渾身の力で振り下ろされた右腕を、男はとん、と後ろに跳ねて避ける。
再度、互いが互いの間合いから外れる。
鬼は歯を食いしばり、憤怒の形相のままでありながら、決して彼の間合いには踏み込まなかった。
男はその様子を少しだけ眺め、また鬼の間合いへと走り出した。
刀を両手で握り、放たれた矢のように距離を詰めていく。
鬼はそれを見て防御の姿勢をとり――――
彼が、
「う、ぐ」
木の根に足を取られた彼が地面で胸を打つ。手から刀が滑り落ちる。
「ハ―――――ハハハハハ!」
鬼がげらげらと笑いながら、自らの間合いの外で醜態を晒した人間に走り寄っていく。
(――――そうだ、来い)
男は、落とした刀をひっそりと逆手に握りながら鬼の動きを凝視する。
爪―――――――まだ。刃が通らない。
手首――――――まだ。硬い。
前腕――――――これも多分、斬れない。
二の腕――――――――――
間合いに、狂いなど有り得ない。
躊躇も、ない。
右手の力を、すっと抜く。
両脚に、限界まで力を込める。
そして、
鬼が、叫んだ。
ちいさなわたしのこえ ゲンダカ @Gendaka
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