河童とフィリップ

merongree

河童とフィリップ

「やあ、僕が買った」

 そう言ってフィリップは赤い襦袢から伸びた手首を取った。降りしきる雨を編笠で防ぎつつ、人混みを掻き分けて彼はずんずん行った。もっとも、金髪に色白の、日本人から見たら妖怪のような姿をしたフィリップを、街道の人々の方が避けた。

(河童じゃなさそうだけれど)

 河童は手に水かきがあるという。それで水を掻き、旅人を捕まえて川に引き込むのだという。また肛門から尻子玉という内臓を抜いて、人を半身不随にしたり、遊び半分に殺すのだという。

 フィリップはそんな奇妙な生物に遭いたくて、わざと川沿いを歩いていたのだが、彼が見たのは、水辺には足止めを食らう旅人の溜り場があり、彼らを呼び止める娼婦が多いという光景だった――年端もいかない子供を含めて。

 今彼が捕らえた、引かれていくことに微かな抵抗を湛えた手は、そのように獰猛な妖怪のものとは思われなかった。通称「河童橋」の前に立ち、夜でも目立つ赤い襦袢を頭から被り、白い顔を半月のように覗かせていた「河童」の少女は、自分の三倍もある大男に向かって手を差し出していた。それが何を示す仕草は、言葉が分からない彼にも見当がついた。

 フィリップは気がつくと、少女の手首を攫っていた。

(十歳をいくつか超えたぐらいか、)

 彼が走ると、背後でりん、りんと鈴の鳴る気配がした。河童は袂のどこかに、子供の玩具らしい物を含んでいるらしかった。

 その音がぴたりと止んだ。

「せんじゅまる――、」

 やや低い大人びた声がフィリップの背後で響いた。河童は、草むらに立っている少年に向かい、彼の名前らしいものを明瞭な口調で呼びかけた。それから低い声で何か言った。

 おまへは――という最初の部分しか、フィリップの耳には分からなかった。どうも家に帰れという意味らしいことは、母親が子供を叱る口調と似ていることで推察ができた。河童は、少年が草を踏んで去っていく音を注意深く聞いていたかと思うと、フィリップに向かってくっきりと同意の意を含んだ目を向けてきた。フィリップがつい目を背けたほど、その黒い瞳は暗闇で眩しかった。


 翌朝、一人の少年が行く手を遮ってフィリップの前に現れた。年は十二歳ぐらい、身形は乞食のようで、カタナと呼ばれる長い刃物を持っているが、彼の手に生るとあたかも彼自身のように荒み、痩せているように見える。刀身が赤く、歯零れが激しい。

「やあ、昨日の――」

「お亀に何を言いやがった――」

 互いに言葉が通じない。フィリップは敵意のないしるしに編笠を掲げて見せたが、金髪が陽光のなかに豊かに零れ、青い目が露わになると、この子鬼のような子供はわずかに後ずさった。

「お亀に何を言いやがった――」

 その剣幕から、どうやらお亀という、昨日の河童のために怒っているらしいことが彼には伝わってきた。フィリップは昨夜、お亀の肌を知り、また「千寿丸が自分を買った」という彼の身の上話を聞いた。寝ることで人と獣、妖怪の間でさえ言葉が通じるようになる、という伝説をこの迷信好きな旅人は思い出した。

 お亀はフィリップの姿にも驚かず、

「この国の男は、寝た相手の身の上話を聞きたがるものだが、お前はそうでないのか」

 と訊いた。フィリップは好奇心から「知りたい」と答えた。

「君はいつから『河童』になったのか」

 そう尋ねるとお亀は「千寿丸が自分を買った時からだ」と言った。そうして首を振る姿はいかにも悲し気で、裸になった姿は十二、三の少年らしく見えるのに、その眼差しばかりは五百年生きている女のようだった。

 お亀は少年の身ながら、首から先、袖から先は少女と変わらないので、その年齢の貧しい少女と同じ所へ売られた。そこを覗きに来る少年と友達になった。牢の隙間から伸ばした手だけでする遊びを、子供同士の彼らはいくつも作った。

 やがて千寿丸がお亀を攫いたいと言い出す。お亀は自分を自由にするにはこれだけの金が必要だ、と千寿丸の指を折って教える。お亀は金のない家に生まれ、そのために売られたが、己の人生を形作った金というものが、どこで生っているものなのかは知らなかった。

 やがて刀を血に汚して千寿丸が帰ってくる。お亀が尋ねないうちから、彼は「三人殺した」と言って笑顔になった。

「『これでずっとお前と遊ぶことが出来る』と……」

 そう言ってお亀は懐から、二つに割れた木片を取り出した。札の中央に赤い円が描かれており、それが真っ二つに切られている。彼の眼差しが言うには、それは千寿丸がお亀を身分ごと買った証拠品らしかった。お亀はその切断面を軽くぶつけた。それは鈍い丸みを帯び、既にカッチリとは合わさらなかった。

 お亀は低い歔欷のなかで顔を覆った。しゃくり上げる度、暗闇に微かに鈴の音が漂った。

「わしには三人、と言ったが――、わしが驚いて泣くのが怖くて、それで言わないのじゃろ。どこへ行っても千寿丸を追いかけて来る奴がいる。太陽が出ているうちは、わしらは表を歩けない。歩くだけでも力が要る。食うのと寝るのとで金が要る。力のないわしが出来ることといったら、これしかない」

 そう言ってお亀は太陽を眩しがるように、仰向けのまま両腕で目を覆った。露わになった裸の腕には、彼がしくじった時についたと思われる傷痕が糸を巻いたようにあった。

 フィリップはこの痩せた河童のために同情した。確かに造形は美しいが、彼の身体は決して泳ぐために作られてはいなかった。女らしい脂がどこにもなく、暗闇でも女の肉とはまず間違えられまい。しかし貧しい土地を耕すため、薄い堤防をわざと切って水を氾濫させるような仕掛けを彼は持っていた。生身の女らしさより、河童が肌を切って作り出す泉の冷たさに、フィリップは痺れるような感動を覚えた。その冷たい水は河童の肌を離れた後も、彼の脛や腕に絡みつき、全身をじわじわと浸食した。フィリップは彼の身体の下で微笑している河童に向かい、ふと情事とは全然違うことを言った。

「でも、君はいつか」

 別に、フィリップは河童を侮辱する気も、傷つける気もなかった。ただ彼は、その身体を離れてなお闇のなかに氾濫してくるように感じられる、河童の濡れた肌の手触りから逃れようとして、陸に上がって呼吸するように言葉を継いだのに過ぎなかった。実際、彼はその身体を抱いた人間なら誰でも分かることを言っただけだった。

 河童は、それを聞いた途端に泣くのを止めた。袂の鈴が遅れて、大粒の音を零した。


(センジュマルは弟か、恋人か――どちらだろう)

 フィリップが刀を持った少年を恐れる気にならないのは、木陰深くにいる彼の立ち姿から、水の匂いが漂って来ないことも理由にあった。理由は不明だったが、あの河童はこの少年には手を出していないのではないか、と思われた。

「カネが欲しいんだろう、君たちは――」

 フィリップはコインの穴に通していた糸を切り、千寿丸の目の前にばら撒いた。湿った土の上に鈍い音を立ててコイン同士がぶつかった。少年はそれらに目もくれなかった。

「足りなかったかい――昨夜は君の姉さんが、当分の間誰とも寝ないで済むぐらいのカネを、渡したはずだったんだけれど――」

「お亀に何を言いやがった、」

 千寿丸は叫ぶように繰り返した。彼には言葉だけでなく、どんな目くらましや誘惑も通じる気配がなかった。ふと鈍い音がした。今度はコインが当たった音でなく、彼が刀を握り直したために刀身が揺れた音だった。

(それじゃ、君は一体今までに――)

 ふと彼の意志が通じたかのように、千寿丸が木陰から彼の方へ進み出た。太陽の下に出ると、それまで隠れていた全身が露わになった。フィリップはつい目を逸らしかけた。昨夜は暗闇にいて分からなかったが、顔の半分は疥癬のために爛れ、栄養失調以上に何かの病を負っているらしかった。刀を持つ手は震え、老人のように肉が削げており、暗闇でも明るく見えたお亀の瑞々しい手とはまるで違っていた。お亀も痩せてはいたが、彼が得る栄養の半分ほども、この忠実な下僕は与えられていないのではないか。

 木の葉を大きく揺らす風の音がし、千寿丸が顔を上げた。太陽がその瞳の底までを照らした。彼の目の骨までが透けるように光り、突き出た頬骨と、微かな睫毛が露わになり、その貧しい生活の様式が明るみに出たようだった。

 目が合った瞬間、フィリップは息を呑んだ。彼がこの震えている少年に想像したのは、せいぜいただの憎悪だった。人を殺してまで手に入れた恋人が別の誰かと寝る、そのことで起こる嫉妬の炎だった。

 しかしフィリップが対峙したのは、全然別の光景だった。少年の瞳のなかには、いつもと変わらない生活をしている人間が、無意識に浸っている泥のような倦怠があった。少年自身は、この対峙に慣れていた。むしろいつもと同じ肉を食い、同じ眠りを貪ることに対する草臥れが、彼をやや不機嫌にしていた。震えていたのは、彼が近い未来に眺める死骸が金髪であったことがなかったせいだった。彼は他に映すものを持たない虚ろな瞳のなかで、フィリップの珍しい姿をやっと死骸の像にすると、そこで震えるのを止めた。その兆しに驚いているフィリップの白い額の上に、少年の赤く錆びた刀がもたれかかるように落ちた。

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