第15話 飛翔

 七部屋目でとうとう、拘束されている患者を見てしまった。狭い部屋の中には、真っ白な拘束着で全身動けなくされた、女の子がいた。


 彼女の翼は、ユウくんのように綺麗に広がってはいなかった。かなりの部分羽が抜け落ちてしまい、部屋中に飛び散っていた。羽毛のクッションでも引き裂いた後のようだった。翼はあまりに痛々しく、見ていられなかった。


 すると、ベッドの上で芋虫のように転がされ、痩せて暴れる元気も失いつつある彼女は、覗き込んでいるわたしに気づいたのか、じっとこちらを見つめてきた。彼女とわたしは、まっすぐに眼が合う。舌を噛まないようにか口にも何かマスクのようなものを付けているので、彼女は何も言わなかった。


 長い黒髪の彼女は、しかし、信じられないほど美しい眼をしていた。澄み切って、見ているこちらが囚われてしまいそうなほど、澱みのない瞳がそこにあった。どれだけ身体や翼がぼろぼろになっても、彼女の眼は気高く、自信に満ちたままだった。わたしはしばらくの間そんな彼女を見つめ続け、それから耐えられなくなって、そこから急いで立ち去った。


 並ぶ病室を廻るうち、何人もの最終段階の患者をわたしは眼にした。彼ら、彼女らは、一人一人違う状態にあった。


 ある子は必死に拘束から逃れ、空に飛び立とうと半狂乱になって暴れていた。


 ある子はもう全てを諦めた様子で、床に倒れ、涙を流してうずくまっていた。


 頭から血を流している子もいた。何の事情でか、片腕のない子もいた。


 でもたぶん、みんなそれぞれに必死で、だからわたしは見ているのが辛くて、仕方なかった。


 そうして見ているうち――次第になぜ、この子たちを拘束しなければいけないのか、わたしは分からなくなってきた。いや、もちろん、空に飛び立てば死んでしまうから、こうしているのだ。そんなことは分かっているのだけれど。でも、なぜこんなひどいことをしなければいけないのか。見れば見るほどに、分からなくなってくるのだった。


 部屋の奥に縛り付けられ、中程から真っ二つに折れた大きな翼を晒したまま、強い瞳でこちらを見据えている小学生くらいの男の子を見たとき、わたしは目の前が霞む気がした。


 いくつの部屋を廻ったのか、もうはっきりしなくなってきた。ようやくわたしは、ユウくんのいる部屋を見つけた。わたしは扉の窓にとびつくようにしてその中を覗き込むと、眼を大きく見開いた。


 拘束着姿のユウくんは、部屋の中央に立てられた柱へ括り付けられて、翼を左右に広げた状態で佇んでいた。


 今は眠っているのか、彼は目を瞑り、俯いている。もちろん手足は固定されていて、見えている身体は口以外の顔と、喉と、それから翼だけだった。


 その翼が、わたしには驚きだった。他の患者たちと比べて、彼の翼は、不思議なほど、完璧なままに保たれていたのだ。ほとんど部屋一杯に広がったそれは、羽が落ちた様子もなく、汚れたところもなく、血も付いておらず、ただひたすら綺麗だった。


 外で連れだって歩いていたときにも感じたけれど、彼の姿はもはや、古代ギリシアの彫刻のようにしか見えなかった。何と言っただろう、サモトラケのニケ、だったか。教科書か何かで見たあの美しい姿をそのまま、ここへ移してきたかのようだった。


 わたしは数度、扉を叩いてユウくんを起こそうとした。彼が目覚めたところで、何が出来るわけでもないのだけれど。でも彼は、身動き一つしなかった。扉が厚すぎて、届かないのかも知れない。

 彼は、顔を上げてすらくれなかった。わたしは諦めて、彼のたとえようもなく美しい姿を、厚いガラス越しに眺めているしかなかった。


 そしてそのとき――。

 自分の手の中にあるカードキーのことを、思い出した。


 わたしは、奇妙な感覚に囚われだした。



 ――開けてしまえばいいんじゃないか?



 そんな、強い衝動を感じた。


 ここを開けて、ユウくんの拘束を解いてしまえばいいんじゃないか。


 わたしはそう、感じた。次第に、自分の背筋が冷えていくのに気づいた。そうだ。簡単なことなのだ。ここを開けて、彼を解放してしまえば、それで済む。単純なことじゃないか。なぜか、そう感じた。


 もちろん理屈の上では、そんなことはしてはならない、と分かっている。それは、殺人も同じだ。開けたが最後、彼はここから駆け出し、自分の意思とは関係なく飛び立ち、墜ちる。そして死ぬ。当たり前のことだ。


 だから彼らは、ここに閉じこめておかなければならない。時間が来れば、彼らの翼は自然に失われ、空への妄想はなくなり、まっとうな人間として生きることが出来る。そのために、この扉を開けてはならない。


 でも。


 さっきから何人も何人も患者を見ていくうち――わたしの中では抑えきれないほど強く、扉を開けたいという気持ちが高まりだしていた。


 ――なぜ彼らはこんな監獄のような場所で、涙を流し暴れ回りながら、時間が経つのを待たなければならないんだ?


 そうだ。きっとマコトくんの時も、同じことがあったのだ。わたしはここへ来て、そう直感した。きっとあれは、ユウくんが想像していたような陰謀なんかではないのだ。外の人たちが画策したとか、そんなことではない。やったのはたぶん、わたしと同じ気持ちになった、医師か、看護師の誰かだ。


 毎日こんな翼を持つ彼らを見て、そして彼らがこうして狭い部屋に閉じこめられているのを見て、自分はその扉を開けるための鍵を持っていることに気づいたとき――彼らの中の誰かが、マコトくんの部屋の扉を開けてしまったのだ。その背後には、たぶん何の悪意もない。


 この静かな病棟に立ち、自分の気持ちがシンプルになっていくうちに、そんな気持ちを押しとどめることが出来なくなってしまったのだろう。


 ――翼を持っているなら、飛び立てばいいじゃないか。


 そう思うのだ。


 扉に付いた小窓から、わたしは部屋の中で恐らく眠っているユウくんの姿を、食い入るように見つめている。もう、目を離すことは出来ない。彼をこのままにして、わたしは立ち去ることが出来ない。


 わたしの手の中には、彼をここから出すための鍵がある。扉を開けば、彼はここから逃げ出し、そして空へ飛び立つ。ほとんど間違いなく、彼は死ぬと思う。わたしは確信している。けれどわたしは同時に、今にも扉を開けてしまいそうになっている。そればかりか、もしかしたら彼は死なないんじゃないか。そう思い始めている。


 ――もしかしたら彼だけは、空へ飛び立ち、あの美しく大きな翼で羽ばたいて、そのまま帰ってこないんじゃないか。


 そう、心のどこかで期待しているのだ。そんなことはあり得ないと理解しているというのに。


 わたしは自分の手の内のカードキーを、じっと見つめた。



 そしてそれをリーダーに押しつけると、迷う間もなく扉を満身の力を込め、開いた。

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翼人 つばさびと 彩宮菜夏 @ayamiya_nanatsu

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