第3話

第三章


 病床に横たわる彼女を見ると、私の心中は非常に複雑なものとなった。

もちろん、心の大部分は悲嘆に占められていたのだが、あるどこか一部分では奇妙な恍惚を覚えていた。私はこの恍惚が何に由来するものなのか、暗に自覚していた。それというのも、実はこの感覚は初めてのものではなかったからだ。

 恐らくもう長くはない……

 彼女の周囲を取り巻く黒い靄のような漠然とした予感が、その美しさを清冽に際立たせていた。

 冬の風が乱暴に窓ガラスを叩く。

 私は彼女の肩に優しく触れる。彼女は苦しそうに自身の手を重ね合わせることでそれに応じた。荒い呼吸を繰り返す彼女の横で、私の呼吸はゆっくりとより深く潜行してゆく。

「これからもあなたはこの邸に暮らすの?」

 息を切らせながら彼女が言葉を発した。

「ああ。養父が残してくれた家だからね」

「そう、私もずっとここにいていい?」

 懇願するような瞳で彼女は私を見た。

「当たり前じゃないか。君はいつまでもここにいて僕と一緒に暮らすんだ」

「ありがとう、でも私、すごく恐いの。もうあなたと会えなくなって、一人になってしまうかもしれないから」

「そんなことはない、大丈夫だよ。おとぎ話をしてあげよう。きっと君の聞きたい物語だ」

目の端に映り込んだガラスケースに私は密かに意識を集中させた。

 ガラスケースの中で息を殺して佇む人形は緻密そのもので、まるで本物のような質感をたたえてそこに静止している。ケースの中で沈黙を貫く人形の、真っ黒な髪にスタンドライトの柔らかな明かりが反射してつややかに輝いていた。

 ……これは彼女の一部だ。


◆◆◆

望まれて生まれてきたわけではなかった私は、生まれて早々に両親から捨てられたため、本当の親の顔を知らずに育った。私を育ててくれたのは田舎の町で人形職人として生活していた養父だった。養父がどのようにして生計を立てていたのかはわからないが、人形職人が儲かっていたとは思えなかったので、親の遺産でも相続したのではないかと思う。

私は義務教育を終えると、高校に進学することもなく、養父の下で人形職人の見習いになった。人付き合いが苦手で、高校に進学したとしても友人を持てないだろうと思ったからだ。

瞳の色や髪の色が周囲とは違うことを理由に中学校でからかわれた時、養父は、恐らく私の実の父親か母親、あるいは祖父か祖母が日本人ではないのだろうと言っていた。その言葉を聞いてから私自身も、何とはなしにそう信じるようになっていった。

私が工房で修行を始めて二年が過ぎた頃、養父が急な病に倒れて亡くなった。私以外に親類のいなかった養父から、工房と邸と多額の遺産を相続したものの、天涯孤独の身となった私は頼れる友人もなく途方に暮れていた。

私が彼女と出会ったのはそんな折だった。

緩やかな丘陵の上に彼女が通う高校がある。地方の公立高校にありがちな学力も揃わぬ雑然とした雰囲気の中で、彼女は他の誰よりも私の目を引いた。この田舎にそぐわぬ、一種独特の雰囲気を持っていた。

彼女は私の仕事場に面した坂道をいつも確かな足取りで登ってゆく。スカートの裾からのぞく脚はスラリと健康的に伸びて、歩調に合わせて揺れる黒髪が殊更美しかった。

この時から私は彼女に思いを寄せていたのだろう。

しかし、一方で彼女が他の男に思いを寄せているであろうことも気が付いていた。

ある日の暮れ方、夕日に照らされた坂道に二つの陰が長く伸びていた。片方はすぐに彼女の影だとわかった。恋人というには少しぎこちないが、ただの友だちとも違った距離感。工房の窓から毎日彼女を見つめていた私には一目でそれが理解出来た。胸に走る鈍痛は初めての感覚であった。一つ大きなため息を吐くと、私は手近な人形を一つ取り上げて作業に戻った。


◇◇◇

 高校生活は私が想像していたよりもはるかに活気のあるものだった。中学生の頃よりも高いレベルで活動する陸上部は刺激的であったし、まだ不明瞭ではあるが、淡い恋心もまた私の高校生活に一つの花を添えた。

 部活動の終りに駅までのわずかな距離を彼と一緒に歩く、そんな些細なことに喜びを見出していた。

 父の転勤を機に地方への引っ越しが決まった時には多少の反発も覚えたが、そよそよと吹く風は柔らかく、私は次第にこの土地に愛着を抱くようになった。

 都会よりも格段に緩やかな時間の流れの中にゆっくりと呑みこまれるように私はここでの暮らしに溺れていった。そこには陶酔や自惚れといった感情も確かに存在していたように思う。何もかもが自分の思い描いた通りに進んでゆくような、そんな幼稚な幻想を抱かせるほどに……


◆◆◆

 何か行動を起こさなければ変化は得られない。私は彼女に認識してもらうために、毎朝彼女の登校時間に合わせて工房の外に出た。自分自身、気味の悪い行動だと理解しつつも他に妙案は浮かばなかった。

 怪しまれないよう適当な距離を保って、私は彼女に近付く機会を窺った。日々の積み重ねは次第に功を奏していった。目が合えば軽い会釈を交わし、徐々にではあるが、彼女も私の存在を受け入れ始めたように思えた。

 しかし、同様に彼女と以前から見かける男との関係も順調に進展しているように見えた。

 登校時よりも歩調を緩め、明らかに時間を掛けて坂道を下ってゆく二人の姿が視界に入る度に、私の胸はきつく締めつけられた。

 彼女の世界の中に私の居場所は極めて少ない。せめてもう少し、あと少し……

 彼女の身体に残る痣となりたかった。

 そんな憤懣を抱えたまま一月以上が過ぎた。私が彼女の変化に気が付いたのは、じき本格的な夏を迎える六月の末のことだった。


◇◇◇

 今日もまた部活に参加する気持ちにはなれなかった。右脚に抱えた違和感のせいでしっかりとした走りが出来そうになかったから。そして、そんなみっともない姿を先輩に見られたくなかったから。

 昇降口へ向かう階段がいつもよりも長く感じられた。私の横を駆け抜けてゆく友人にほのかな嫉妬さえ覚えた。つい数週間前まで思い描くことが出来ていた明るい未来が、今は想像出来ない。少し足が痛いだけで……

 私はどうしようもなく弱い自分に嫌気が差した。

彼が私に声を掛けたのはそんな折だった。

「どうしたの? 元気がないね」

 不意に掛けられた言葉に私は一瞬たじろいだ。通学途中によく見かける人形工房の青年だった。年の頃は私たちと同じか少し上程度に見えるが定かではなかった。

 男は頼りなげな表情を携えて私の方を見ていた。

「いえ、別に……」

 話したこともない相手だ。まともに会話する必要もないと思った私は歩みを止めることなく男の横を通り過ぎた。

「脚が痛いの?」

 背後から男の言葉が追いかけてきた。

 図星を突かれた私はつい足を止めてしまった。なるべく素振りには出さないように注意をしていたのにどうして気付かれたのだろうか。

「何故?」

 私は努めて冷静に、振り返ることなく言った。

「いや、なんとなく様子がおかしいように思ったから」

 男の要領を得ない答えに私は少し苛立った。

「あなたには関係ないわ」

 歩き出そうとする私に男が再び言葉を投げる。

「脚が痛いことは否定しないんだね」

「そうよ。だから何?」

 私は語気を強めて振り返る。彼は相変わらず頼りなげな、捨てられた仔犬のような表情で私を見つめた。正面から見ると彼の瞳は淡い茶色をしていることがわかった。陽に照らされた髪も同級生の男子生徒と比較すると色素が薄いように思われた。

「走れない……走れないから落ち込んでいるんだね」

 私は次の言葉を考えて、彼は私の言葉待って、場には重い沈黙が横たわった。

「休日に君が陸上のジャージを着ていたのを見たから」

 男が言い訳がましく言った言葉になるほど合点がいった。こんなに小さな町だ、どこで誰に見られていても不思議はなかった。

「そうね……そうかもしれないわ」

 私は彼の推測を肯定した。すると、彼は僅かに逡巡する様子を見せてからおずおずと切り出した。

「……人形を見ていかないかい?」


◆◆◆

 彼女の表情があまりにも悲しげで、考える余裕もなく声を掛けてしまったことを私は今更、後悔していた。きっと失礼な私の振る舞いに彼女は腹を立てていることだろう。事実、彼女の顔にあの男に見せるような瑞々しい笑顔はない。むっつりと黙ったまま、工房に飾られた人形たちを眺める彼女の横顔を見ながら、私はそんな悲観的な想像をしていた。

 工房内の空気を循環させるために働く扇風機の風が、普段ならばおがくずの匂いで満たされている室内に、ほのかに漂う彼女の甘美な香りを浸透させた。

 ほっそりと締まったあの美しい脚に不具が生じているなどとは私には到底信じられなかった。

 彼女は私が最も気に入っている人形の前で立ち止まると、左右から覗き込むようにしてしげしげと眺めていた。

「気に入ったかい?」

「ええ、まあ」

 淡泊な返事ではあったが、先程までよりは幾分表情が柔らかく見えた。

「それはもともとかなり古い人形らしいんだ。部品を取り換えて少しずつ修理して、この前完成したばかりなんだ」

 ヴィクトリアンドレスを纏ったその人形はアンティークドールにありがちなおかしな頭身ではなく、人間のそれに近かった。

「素敵ね。何もかも完璧な姿に思えるわ。綺麗な人をお人形さんに喩える理由がよくわかるわね」

 そう言ってようやく彼女は相好を崩した。

「本当はね、脚だってものすごく痛いわけではないの。ただ少し違和感があるだけ。これまでいろいろなことが上手くいき過ぎていたから、ちょっとしたことでも失敗や挫折に臆病になっているのね。きっと」

 彼女は少し迷いが減ったように爽やかな表情で言った。私もそんな彼女の目を見て頷く。

「早く治してまた走れるようにならないとね」

「ええ、いつまでもウジウジ悩んでいても仕方ないわね」

 これが余計な助言であることは自分でも気付いていたが、言わずにはいられなかった。怪我が治れば、彼女はまた部活に参加し、あの男と親密になってゆくのだろう。そうなればそれこそ自分が入り込む隙なんてなくなってしまうのではないだろうか。

 駅へと続く坂道を下ってゆく彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、私は工房の前の歩道に立っていた。工房に戻って、机の上に置かれた紅茶を一口含むと、数時間前に煮出されたアールグレイは冷えて苦味が増していた。


◇◇◇

「どうして。どうして私ばっかりこんなことになるの」

 私は言葉を抑えることが出来なかった。考えは何度も同じ所を巡り、もうすでに進むことも戻ることも出来ないように思われた。現実を受け入れまいと、どんなにもがこうとも絶望は私の前に立ち塞がって微動だにしなかった。

雨粒が私の部屋の窓を容赦なく叩き続ける。一向に明ける気配の無い長梅雨は私の心を象徴するかのようだった。


 先日、工房の彼と話をして僅かに勇気を得た私は、右脚の違和感を診察してもらうために病院へと出向いた。

「簡単な検査をしましょう」

 穏やかな口調でそう言った医師の表情は僅かばかりの険しさを含んでいるように私には見えた。検査結果を確認して戻ってきた医師は最初に私ではなく、付き添いに来ていた母を呼んだ。

 診察室から出てきた母を見た時、私は血の気が引くと言う言葉の本当の意味を悟ったように思った。土気色した母は私と目が合うと、すぐに目を伏せた。

「こっちに来なさい」

 伏せた目を上げることなく、か細い声で母は私を呼んだ。私はその言葉に従って、母の後ろに付いて診察室の中へ入った。

 そこからのことはあまり正確に覚えていない。世界の全てがモノクロの無声映画のように感じられた。医師もいかにも深刻そうな演技をする俳優のように思えたし、隣で泣き崩れる母の声は一切耳に入って来なかった。

 ただ一言だけがはっきりと私の鼓膜を震わせた

「転移の速い病気なので、右脚は膝上まで切断を余儀なくされるかもしれません」

 医師は感情の宿らぬ瞳ではっきりと私に告げた。


窓を打つ雨音を、いや、外界の全てを避けるようにして、潜り込んだ布団の中で私は自身の運命を呪った。一月前までは新しい環境で、鮮やかな夢や希望を抱いていたというのに。見えない所から私に迫っていた病は、私の夢も希望も、人生さえも根こそぎ奪っていくように思えた。

涙もいつか枯れるとどこかで聞いたように思ったが、私の目から溢れ出る涙はいつまでたっても枯れることはなかった。


◆◆◆

 彼女が通う高校が夏休みを迎える数日前からパタリと彼女の姿は見えなくなった。彼女がこの工房に来て、人形を見て行ったあの日以来、私と彼女は少しずつ言葉を交わすようになっていた。彼女の姿が見えなくなったのはその矢先の事だった。

 工房の窓から臨める世界。雲が隙間なく空を覆い、長雨が景色を滲ませる。窓ガラスを舐めるように流れた水滴がガラス面に反射した私の頬をなぞる。

 数日間続いた鬱々とした感情を抑えることが出来なくなった私は意を決して、家路を急ぐあの男に彼女の様子を尋ねた。

 話してみると、彼女が惚れるこの好青年は、もし私が高校に通っていたならば同級生に相当することがわかった。

 彼も詳しい事情は聞いていないが、彼女は体調が悪く学校に来ることが出来ないこと、それから大変ふさぎ込んでしまっていることなどを隠さずに語ってくれた。

 男の話を聞いても私にはどうすることも出来なかった。男に礼を述べて、私はやるせない思いに包まれた。それでも、もう一度彼女に会いたかった。このまま終わりにすることは出来ない、会わなければいけないと思ったのだ。

 その日、雨は休みなく工房の窓を叩き続けた。


結局夏休みに入るまで彼女は一度も姿を見せなかった。


◇◇◇

 夏休みの初めに私は高校を退学した。

 母は私を励ますために度々外出に誘ったが、私は毎度それを断った。車椅子に乗っている姿を人に見られることに耐えられそうもなかったからだ。

 先輩は私が退学してからも幾度か家を訪ねてきてくれたが、とても顔を合わせる気にはなれなかった。

 いつの間にか、私は自室の窓から外を眺めることが日課になった。二階の私の部屋は大通りの往来を見下ろすことが出来た。稀に通る知人の姿を認めると、私は胸が苦しくなった。もう往来を見るのはやめよう。もう見たくない。そう思っても数日経てばまた窓外の景色に魅せられてしまうのだった。今日もまたいつも通り、意味もなく窓外を眺めた。

 私の部屋を見つめたまま往来に立ち尽くす一つの影。人形工房の彼だった。私は彼と目が合うと反射的に身を隠した。窓枠の下で私は息を殺す。数分の後、私は恐る恐る窓外を見た。彼はまだそこに立っていた。あの時と同じように頼りなげな表情を浮かべて。

 どうしてそこにいるの? 何故だかわからないけれど、彼の頼りない表情は私を安心させた。いるはずのない人物がそこにいて、不安定な気持ちを支えてくれるような期待を抱かせるわけでもないのに。

 それは身を寄せるべき大樹ではなく、親の不在を嘆き合う雛のような心境だった。互いに支え合わねば倒れてしまうような、互いの不安定さを拠り所とした安心感。あまりに不毛で、あまりに居心地の良い堕落……


◆◆◆

「人があまりいない場所が良いわ」

 彼女はほとんど顔を上げることなく言った。

「それなら河川敷に行こう。犬の散歩をする人くらいしか通らないだろうし」

毎日のように彼女の家に通ってようやく外へ連れ出すことに成功した。彼女の不具を意識しながらも私は有頂天だった。

私はそっと車椅子を押した。彼女が顔を隠すために被っていた大きな麦藁帽からこぼれる黒い長髪が、湿気を含んだ夏の風に吹かれて車椅子を押す私の手をくすぐる。その髪は病のためか些かツヤを失って見えた。

人目を避けて、極力狭い道を通りながら私たちはようやく川の近くまで来た。幸いスロープ状の道が存在したため、苦労することなく河原に降りることが出来た。彼女の座る車椅子を、夏の強い日差しに直接さらされることのない下生えの上に停め、そのすぐ脇に私は腰を下ろした。

「私、東京から来たのよ。この川が流れ着く先……」

 彼女は川面を見つめたまま言った。彼女が見つめる先にある水面に乱反射する陽光は何にも縛られることなく自由にきらめいているように見えた。

「最初はこんな田舎に来たくなかった。でも慣れたらいいものだって思えた。むしろ、何もかもが思い通りになるような気さえしてたのよ」

 彼女の瞳には涙がたまっていた。私は彼女にかけるにふさわしい言葉を見付け出すことが出来なかった。私は彼女の言葉に無力に頷くだけだった。その時、川から視線を逸らさずにいた彼女の頬に涙が伝った。

「綺麗だね」

 卑怯な私はあえて主語を省略した。どちらとも受け取ることが出来るように。いや、実際にどちらの意味も含んでいた。

「そうだね。ちょっと前までは私もあんな風にキラキラした未来を想像していたのに」

 彼女は震えた声で答えた。私は彼女に残された脚を盗み見た。私の顔からわずか数十センチの距離で、細い足首が所在なさげに孤立していた。

「もうこのまま誰にも会わずに一人で暮らしたい。時々そう考えることがあるの」

 思い詰めた表情だった。もう一度彼女の姿を見て私は密かにそれに納得する。

 太陽は能天気に陽光を放って輝いている。彼女の眼前に屹立する絶望などまるで意に介さないといった風情で……

「あの山の向こうに打ち捨てられた邸があるんだ。家主が死んでしまって、今では無人になっているんだけど、素敵な洋館だよ。今度そこに行こう」

 私は川を隔てて向こう岸に見える山を顎で示しながら言った。自分の家だと告げれば彼女が気後れするだろうと思い、私は咄嗟に嘘を吐いた。

「誰もいない洋館なんて素敵ね。ぜひ行ってみたいわ。でも、この脚じゃ…… 山は無理ね」

「大丈夫。僕が手伝うよ」

 そう言って私は、すぐ横に生えていた笹から葉をむしった。一つの小さな舟をこさえて彼女の眼前に掲げる。

「さあ、願い事をして」

 彼女は瞳をこすって頷いた。私は少し間を置いてから川のそばへ寄ると、笹舟が転覆しないように用心しながらそっと川へ流した。

「きっと願いは叶うから…… 帰ろうか」

 私の言葉に彼女は苦しそうに笑顔を作るとそれきり言葉を発することはなかった。

 はたして彼女に願いなんてあったのだろうか。絶望の中で希望など浮かんで来なかったかもしれない。それでも私は、自分がこっそりと笹舟に込めた願いが彼女のためになるであろうと盲信した。


 彼女は麦藁帽を目深に被って顔を伏せている。その後ろで私は黙って西日へ向かって車椅子を押した。

 その夏一番の猛暑日だった。


◇◇◇

 あの日以来、彼が私の家を訪ねてくる回数はめっきり減った。きっと私の姿を見て幻滅したのだろう。支えを失ったような、半身を奪われたような不思議な喪失感を感じた。

……彼は私を見捨てた。やがてそんな思いが心を占めた。

 傷付いた私はずるかった。その喪失感を埋めるために、先輩の優しさに甘えた。部屋の中で他愛もない言葉を交わし合うだけ。核心を避け続ける会話。

 その会話の間中、先輩は私の脚から必死に目を逸らしていた。縮まることのない距離と残酷な程の遠慮が今の私には心地良かった。

 簡単なことだった。私が一歩近付けば、先輩は一歩下がる。彼の譲歩に縋って私はどこまでも侵蝕し、依存した。

 そうして、胸に空いた穴を埋める仕事を私は他人に押し付けた。


◆◆◆

 私は笹舟に込めた願いを実現させるため、それこそ寝食を惜しんで勉強した。

 彼女の苦しそうな笑顔はそれほどまでに私の心を強く揺さぶったのだ。

 一緒に山の向こうへ行こう。そう伝えてあげたかった。ただ、今のままでは言ってあげられない。それが悔しかった。

 昼夜が逆転し、曜日の感覚は麻痺した。何日が経過したのかも、いつ最後に食事を摂ったのかもわからない。同じ日が何度も廻っているような錯覚さえも覚える中で、私は確かに前進していた。もう少し、あと少し……

 鏡を見る。隈に囲まれた、目だけがやたらに鋭い男がそこにいた。自分の顔にまるで見覚えがなかった。

 脳裡に鮮明に浮かぶものは彼女の残された左脚だけ。その左脚を脳内で反転する。疲労で感覚の鈍った掌に濃密な重量を感じる。いつの間にか閉じられていた瞳をゆっくりと開く。私の手には確かに彼女の一部が存在した。指先で肌触りを確かめると、宝物でも扱うように丁寧にそれを布にくるんだ。

 工房の窓から見上げた月は紅く輝いていた。


◇◇◇

 真夜中、私の部屋の窓が奏でる人工的なリズム。三ヶ月近く音沙汰のなかった彼が突然私の前に現れたのは十一月の半ばのことだった。

 半袖シャツに作業用のズボンを履いた出で立ちはまるで季節感に欠けていた。顔はやつれ、くぼんだ眼窩は三ヶ月前とは別人のようだった。

「さあ、山の向こうへ行こう」

 真夜中だというのに、まるで周囲を気にしていないかのような大声で彼が通りから叫ぶ。

 初めて言葉を発したかのような奇妙にかすれた声だった。また、その言葉は私の耳に届いたものの、その真意が脳にまで達することはなかった。

「こんな夜中に何を言っているのよ」

 私は声を抑えて彼に言う。

 「大丈夫、行こう」

 彼は再び、あの頼りなげな表情を見せた。その表情だけは以前と変わらぬもので私はそれを無条件に信頼してしまっていた。

 私は両親に気取られないよう、片足で慎重に通りへ出た。通りに立った私を彼は突然抱き上げると木陰へと運んだ。見た目よりも力強い腕だった。

「これを……」

 彼の取り出したものを見て、私は大きく目を見開いた。


◆◆◆

 彼女は驚いたようだった。しかし、私は彼女が抵抗するふうでもないのを見て取ると、彼女のズボンを脱がせた。左右不揃いな彼女の白い太ももに触れ、ゆっくりと丁寧に、愛撫するように義足を取り付けた。

「作ったんだ。時間が掛かってごめんよ」

彼女は言葉を発することなく、自身の新たな右脚をさすった。見立て通り、彼女の左脚とぴったり長さが揃っているようで安心した。

「立てる? 行こう」

 私は手を差し出した。彼女は私の手を支えにして立ち上がる。

「少し痛いわ」

 当然関節など存在しない義足は、彼女の歩行の手助けにはなるが、だからといって完全な脚の代わりとはなり得なかった。

 それでも彼女は必至に歩いた。何かに取り憑かれたように一心に前を見つめて山道を進んでゆく。

「平気? 手を貸そうか?」

「大丈夫よ。自力で歩きたいの」

彼女は喘ぎ喘ぎ言った。しかし、その言葉には強い意志を感じた。

夜の森は二人を包んで静かに揺れている。足元を照らす懐中電灯の明かりと、木々の間から差し込む紅い月光を頼りに私は彼女を導いた。

「もう少しだ」

 踏み均された道の上を木々が覆い、自然のトンネルを作り出していた。トンネルを抜けると視界が大きく拓けた。


◇◇◇

 眼前の洋館は長く人が住んでいないとは思えない程、整然としていた。タイル張りの荘厳な造りは邸と呼ぶにふさわしかった。

「さあ、中へ。入って」

そう言って彼は私を中へと促した。

私の左脚に玄関に敷かれた赤い絨毯の柔らかな感触が伝わる。

不意に彼は後ろから私を抱きすくめた。首すじに触れた彼の手がくすぐったかった。

「ここで一緒に暮らそう」

 彼の言葉に私は顔だけ振り返った。

 彼の唇がそっと私の耳を這う。右手で私の新たな脚に触れる。

 彼は小さく呟いた。

「君は美しい」

 もうすぐ夜が明ける。森は粛々と二人を迎え入れた。


「あなたの瞳の色が魅力的な理由、初めて聞いたわ。それで彼女はどうなったの?」

 彼女の口から発せられた言葉は力無く私の耳まで届いた。私は彼女の手を強く握りながら質問に答えた。

「そこにいるよ」

 ガラスケースの中に視線を送る。真っ黒なロングヘアーと、スラリと伸びた美しい脚を持つそのドールは、先程と変わらぬ格好で虚ろな瞳をこちらに向けている。

少しだけ頭を持ち上げてガラスケースの方に視線を向けると彼女は穏やかな表情を作った。

「後日、転移が見付かったんだ。どうすることも出来なかった」

彼女は渇いた咳をするだけで私の言葉には答えない。彼女の瞳は涙で滲んでいる。苦しいのは身体なのか、心なのか……

私は優しく彼女の胸をさする。

「私の全てを愛している?」

 彼女が尋ねた。

「もちろん」

 私の言葉に対する、彼女の精一杯の笑顔は儚かった。

「それなら安心ね……お願い、あの曲を聞かせて」

苦しそうな彼女の表情がいつかの映像と重なり合う。記憶がリフレインするような錯覚を覚えながら、私は彼女の言葉に従って腰を上げた。

彼女の額にかかる髪を左右に分けてベッドを離れると、ピアノの前に座り、モノクロの鍵盤で彼女の望む色を奏でた。


私はまだ川の途中……

彼女にはじき向こう岸が見えるだろう。

美しい姿のまま向こう岸へと歩んでゆく彼女。私の求める答えがそこにあった。眼前に存在していると、全ての物と調和して、その存在を忘れてしまう永遠の美しさが、目の前で最期の輝きを放つ。この上なく完璧なものが私の目に焼き付いた。そして私はそれに正しい形を与える。永遠を留めるために……


 忘れるという作業は私にとって実に容易で難しい。

 ……モルダウのメロディはまだ止まない。



エピローグ


 パタン。

 風の力であろうか。書棚の一番端に置かれていた本が横倒しになった。その音で私はふと現実に引き戻される。

「もう三十年になるのか。君たちと暮らし始めて」

 いつの間にかピアノの自動演奏機能で再生されていたモルダウが止んでいた。

 窓の外で笹の葉がサラサラと音を立てて揺れる。まだ私が若かった頃、笹舟に幼い願いを託したことが不意に思い起こされる。あの笹舟は、私の気持ちを一体どこまで運んでくれただろうか……

 私は隣室の扉の方を振り返ってガラスケースの中に飾られ人形を見つめる。

「本当に君たちは何年経っても美しい」

 正面へ向き直った私は、向かいの椅子に座る彼女を赤いベルベットで撫ぜる。彼女は黒いワンピースからのぞく真っ白な手を西日に照らされていた。鮮烈なオレンジ色の光が、室内に多くの影を作り、それによって生み出された軽妙なコントラストがただそこに在る彼女の存在を際立たせた。


 私はまだ川の途中。だが、もう向こう岸は見えている。忘れ得ぬものを抱いて私は川を渡る。そんな私の姿を見て、しゃれこうべがカラカラと渇いた音を立てて笑った。

 その瞳の奥に暗き深淵をたたえて……

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ドライフラワー 如月 朔 @yazukazuya

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