第2話
第二章
***
「こんなに立派なレストランに連れて来て頂いて申し訳ないわ」
コーヒーカップをソーサーの上に置いて私は彼に向かって言った。
「別に構わないさ。だって来てみたかったんだろう?」
「ええ、それはもちろん。いつも外から眺めていて素敵な店構えだと思っていたから」
「それならいいじゃないか。……僕のデザートも食べるといい」
そう言って彼はデザートの乗った皿を私の方へ差し出した。ベリーソースや生クリームで鮮やかに装飾されたガトーショコラは真っ白な皿の上に品良く鎮座していた。
「ありがとう」
「僕に遠慮なんかしなくていいんだよ。君のわがままなんてかわいいものさ」
彼はゆったりとした所作で肉料理と一緒に提供された赤ワインの残りを口に含み、反対の手では羊革の手袋を指先で撫ぜている。
「でもあなたにはいつも迷惑をかけてばかりだわ」
私は様子を窺うように上目使いで彼を見た。彼は普段のように穏やかな目で私を見つめ返した。正面から見つめられると、気恥ずかしくなって私は少し視線を伏せ、足元の籠の中に置かれたマフラーのチェック柄を眺めて気を落ち着けた。
こうして一緒に食事をするのは何度目だったろうか、いつ会っても彼は紳士的な振る舞いで私を安心させた。それに、縫製の良い紺色のスーツをスマートに着こなす彼は、何事においても優雅さを損なうことはなかった。今回の食事にしても彼のマナーは評価されて然るべきものであったし、その育ちの良さをうかがわせるには充分なものと言えた。
そういう点において私が彼を拒絶するような理由はなかったし、また、彼のことを拒絶出来るような立場ではなかった。
「美味しかったわね」
隙の無い動作で食器を片付けるウェイターを横目に私は言った。
彼は軽くネクタイを整えながら私の言葉に頷いた。
⑤
「さて、そろそろ行こうか」
すっと椅子を引いて席を立つと、彼は優しく私の手を引いた。
私は自身を導くその手をまじまじと見る。神経質そうに見えるが滑らかなその指は私には美しく官能的に映った。その繊細そうな手で彼は両開きの荘厳な扉を押し開けると、私を先に外へ出した。
「大丈夫?」
階段を下りる私の半歩手前を歩きながら彼は気遣いを忘れない。出会ったころからずっと彼は気品と礼節を持って私に接してくれていた。
「ありがとう。平気よ」
彼の繊細な気遣いに対して、私は努めて気丈に振る舞った。そうでもしないと自分の無力さを認めてしまうような気がして耐えられなかった。せめて彼の前では一人の女性でいたかった。
「無理を出来る身体じゃないんだ。用心をしないと」
そう言った彼の表情は不安げながらも愛情に満ちているように思われた。そんな彼の明るいブラウンの瞳を見つめて、私の頬は朱に染まっていただろうか。
「月が綺麗ね」
彼の瞳からわざと視線を逸らすように見上げた空に浮かんだ月を見ながら私は言った。
「本当だね。中秋の名月かな」
その姿を覆い隠すような雲も存在せず、涼やかな、月の明るい晩だった。大きな満月の周囲に多くの星が見えた。月の無い晩であればもっと多くの星が見えただろうと私は少し残念にも感じた。夜空を眺めていると自ずと思い出される過去の思い出に浸りながら、私は彼の手をさっきよりも強く握った。
「ほら、早く車に乗って。身体が冷えるよ」
彼の手を握り、空を見上げたまま車の脇に立ち尽くしていた私は、彼の言葉に促されてゆっくりと車に乗り込んだ。
***
「わざわざ送って下さってありがとう」
車を降りると、マフラーを巻きなおしながら私は彼に向かって軽く頭を下げた。
「ようやく仕事が一段落しそうなんだ。今度時間を作るからテニスでもしよう。また連絡するよ」
そう言い残して彼は窓から出した手をひらひらと振って車を発進させた。丁寧に磨かれた黒塗りの高級車はするりと夜の闇の中に溶けて見えなくなった。
「おかえりなさい。お食事はどうでした?」
父が存命だった時と比べて肌艶の悪くなった母が玄関先で問い掛けた。
「素敵なお店でとても楽しいお食事でしたわ」
母は満足そうに頷くと私のコートを脱がせた。不意に目の端で捉えた、痩せて骨ばった母の手が痛々しかった。いや、痛々しいだけでなく、私はある種攻撃的な醜ささえもそこから感じてしまったのだ。以前は女性的で程よい柔らかさを窺わせる身体つきをしていたのだが、その柔らかさの内に隠匿されていた人間としての脆さが、支えを失ったことによって一気に表出してきているかのような印象を受けた。
父が亡くなり、母と私の生活は一変した。遺族年金と保険金を頼みにどうにか今の暮らしを維持してゆくのがやっとで、やがては臨界点に達することは目に見えていた。その時、家庭が壊れるのが先か、母が壊れるのが先か、いずれにせよ私には恐ろしかった。
だから私は少々納得のいかない時にも、母の言葉に対して強く反発することはなかったし、極力母の望むように振る舞っているつもりだった。しかし、そうしているうちに私は自分が本当に望んでいるものが何か、それがわからなくなってしまっていた。
「順調そうで嬉しいわ。彼はとても立派な方ですからね。あなたのわがままでせっかく築いた関係を崩してしまわないように気を付けなければいけませんよ」
そう、彼は立派な人だ。家柄も性格も、社会への責任の果たし方も。母の言う通り彼と将来を共にすることが出来れば、私たち家族も何不自由の無い生活が約束されるだろう。だが、その将来は果たして自分が望んでいるものなのか、それとも母が望んでいるものなのか、私には見極められなかった。だからこそ私は彼の好意を素直に受け取ることが出来なかったのだ。また、その資格があるのかについても自信が持てなかった。
私は母の言葉を身振りで肯定して自室へと引き取った。
階段を上り終え、部屋に入ると私は大きく嘆息した。少し階段を上るだけでも息切れするような私がテニスなんて出来るわけがない。そんな自嘲的な思考を抱きながら鏡台の椅子に腰掛けた。櫛で髪を梳かしながら私は愛とは一体何だろうかと考える。当然、愛と一口に言っても、家族に向けられるそれと、恋人に向けられるそれとが異なるものであろうことは理解している。ただ、もし仮に私が母のために彼と結婚することを決意した時、そこに存在する愛は家族に対して向けられるものだけなのだろうか。彼の想いに応えることを私に踏み止まらせる理由として、微かに芽生えているであろう彼への愛の存在が私自身の足枷になっている気がしてならなかった。
私は鏡に映った自らの顔を眺め、その目の下の隈を数回擦った。もちろん明確な根拠はないのだけれど、私は幸せを望んではいけないのではないかという気もしていた。
⑥
「またこの曲かい」
私の肩に優しく手を置いて彼が言う。
「いいじゃない、好きなんだもの」
私の身内に沁みついたメロディーはいつだって心を落ち着かせてくれる。
「確かにとても綺麗な曲だ。穏やかで、それでいて力強いメロディー」
彼は瞳を閉じて私の奏でる音色に耳を澄ませる。私は彼をもっと曲の世界に引き込もうと指先に意識を集中する。指に僅かの力を込めて弾いた鍵盤が心地良い音色を響かせて私の指を跳ね返す。また私が弾き返す…… その応酬が美しい調を紡ぎだす……
ピアノの高らかな歌声は彼の広い邸の隅々にまで波紋してゆく。
ソファに身を沈めた彼は、両の手を組み合わせたまま身体で小さくリズムを取っていた。
この緩やかな、そしてささやかな時間が彼と私の愛を濃密なものにしてゆくのだという意識が私にはあった。そしてふと、母のことを思い出す。母も彼と同じように私の演奏するピアノに合わせて小さく身体を揺らし、時折、満足気に頷くのだ。
父が亡くなって、生活が苦しくなりピアノを売ってしまったため、この邸でピアノに触れられることは私にとって無上の喜びだったと言っても過言ではない。そんな背景から私の演奏には自然と熱が入り、以前よりも遥かに感情豊かなものとなっていたように思う。
そして、彼は常に私の演奏の模範的な観客であり続けた。そこには当然、私と過ごす、一瞬一瞬を大切にしようという彼の意識が存在していることを、私は何とはなしに察していた。
***
「ごめんなさい。せっかく予定を立ててくれたのに急に体調が悪くなってしまって」
「気にすることないさ。テニスなんてまたいつだって行けるんだから」
電話越しに聞こえてくる彼の声は相変わらず穏やかなもので私を安心させた。
「お見舞いに行ってもいいかい」
「ダメよ。あなたにうつしてしまったら申し訳ないもの」
クスクスと彼の笑い声が聞こえる。
「たまには僕のわがままも聞いてくれよ。……会いたいんだ」
会いに行くよ。私が返答に窮しているうちに彼はそう言って電話を切った。
彼の強引さ、押し出しの強さは、決断力がなく引っ込み思案な私には都合が良かったと言えるかもしれない。もしも彼が奥手な青年ならば二人の関係に進展はなかっただろう。
受話器を置いてから一時間も経たぬうちに彼は訪ねてきた。階下では母が平生よりも一段高い声で彼を出迎えているのがわかった。
彼は一抱えもある果物と品の良い一輪の花を持って部屋に入ってきた。
「車を飛ばしてきたよ。これ、外が恋しくなるだろうからね」
私の鼻先へ花を差し出す少し気障な仕草も彼ならば許せてしまうのは不思議だった。
彼の指先でたおやかに揺れる花を受け取ろうと伸ばした手を掴んで、彼は不意に私を抱きしめた。コロンの甘い香りが私の鼻先をかすめる。
「結婚して欲しい」
突然の彼の言葉に驚かなかったと言えば嘘になる。しかし心の底で、いつかこうなることを予測していたのだろう。甘い香りに身を委ねて、私は必要以上にあっさりと彼の申し出を受け入れた。先日まではその資格は無いと考えて、断る理由を探していたにも関わらず、いざ、現実として我身に迫った時、私は考えることを放棄して大きな流れに身を任せることにしたのだ。
将来への希望を言葉巧みに語る彼の傍らで、私は不謹慎にも母が聞いたら跳びあがって喜ぶであろう、なんてことを想像していたのだった。
風が窓ガラスを叩く。木は木枯らしに負けてほとんどの葉を落としていた。そんな木をわずかに飾っていたヒバリもこちらの視線に勘付いてどこかへ飛び去って行った。
窓外の一つの景色と化した彼は小躍りするような軽い足取りで門の外へ出てゆく。
布団を出ていた時間が長かったためか、私は少し寒気を感じた。母が剥いてくれたリンゴを一切れだけ食べると、布団の奥に潜り込んだ。そして、私は顔まで布団で覆って咳き込む音を聞かれまいとした。この乾いた咳は数ヶ月続いていた。人前では極力抑えるようにしていても、胸が痛んでとても我慢しきれない時も多くなってきていた。おそらく心因性のものだろうと自身に言い聞かせて、私は布団の中から手だけを伸ばしてもう一切れリンゴを齧った。
私が婚約のことを母に伝えたのは翌日の昼になってからだった。
⑦
「ねえ、また星を見に行きましょうよ」
私は何気ない口調で彼に言った。
「でも最近、夜は冷えるよ」
彼は調べものをするために開いた本から顔を上げてこちらを見た。本を読むときや、仕事をする時にだけかける縁の細い眼鏡が、細面の彼の輪郭に違和感なく収まっていた。
「だけどまた見たいの。寒い時期の方が空気が澄んで星が良く見えるって言うでしょ?」
ふっと笑いながら彼が言う。
「君のわがままには困ったものだ」
「母にもよく言われたわ」
私が窓を開け放つとにわかに夜の冷気が部屋の中に撹拌する。風に吹かれたカーテンが艶めかしく波打つ。
頭上を覆う天幕にぽっかりと穴が開いたかのように明るい月が輝いて、しきりに相手を求める虫たちの声が森のそこここから聞こえた。愛を求める虫たちの声を聞きながら私は小さく呟く。
「これが最後かもしれないから」
私が発した言葉は森の中を当て所無く彷徨って、やがて誰にも受け取られることなく消えていった。
彼は読むことを一度は中断していた本を再び手に取って、しげしげと眺めていた。
「じゃあ、今度の新月の晩にしようか。もちろん晴れていない場合は中止だよ」
「それでいいわ。半月後ね……楽しみだわ」
彼が立ち上がってこちらに歩いてくる。
「風が心地良いね」
そう言って彼は窓の桟に手を掛けて私の隣に立った。私は彼の横顔を見つめる。彼は痩せていて少し頬骨が尖っている。あまり寝ていないのか、目の下にはいつも隈が出来ていた。私がベッドから起き上がる頃に彼は既に朝食の準備を済ませていることがほとんどだし、私が寝る直前まで、彼は工房で作業をしていたり、読書をしていたりする。
「今日はあなたも早めに休んだ方がいいんじゃない? なんだか疲れているように見えるわ。もう寝室に行きましょう」
私は窓を閉めて彼を促した。
「じゃあ、今日は君の言う通りにするとしよう」
彼は机上に置いた本を取り上げると、ゆっくりとした足取りで寝室の方へと歩いて行った。
***
机の上に置かれたキャンドルの炎が一瞬大きく揺らめいた。
「この前の話、正式に親に話そうと思っているんだ」
行きつけのレストランで唐突に発せられた彼の言葉に私は咳き込んだ。おそらく彼にはそう見えただろう。私は白いハンカチで口元を抑えた。
「大丈夫かい。それでどう思う?」
「もちろん素敵なことだと思うわ」
私は口を抑えていたハンカチをテーブルの下に隠しながら言った。
「今度、両家の親族を僕の家に招いて食事をしようと思うんだけど、君のお母さまの都合がいい日はわかる?」
「どうかしら、聞いてみないとわからない。それに何だか恥ずかしいわ」
彼のことは良い人だと思うし、彼の気持ちも嬉しいけれど、何もかもが急過ぎて、ノロマな私には自分のこととして捉えることが出来なかった。
「母さんもまた君に会いたいって言ってるんだ。恥ずかしいのなんてすぐに慣れるさ」
彼は今後の計画を次々に話すと私に承諾を求めた。きっと私に考える権利なんて存在しないのだろう。父が亡くなってから懸命に育ててくれた母の為にも、家柄の差を越えて私を愛してくれる彼の為にも……
家まで送ると言ってくれた彼の言葉を丁寧に辞去して私は家路についた。
乾いた冷たい風と歩道を埋め尽くす落ち葉を踏む度に立てる音は、私の困惑と同時に火照った気持ちを落ち着かせる一助となった。
母にも言えない不安を抱えたまま私は麗しい将来への第一歩を踏み出そうとしていた。
上着のポケットにひっそりと仕舞われた白いハンカチには乾いた赤黒い染みが残っていた。
⑧
「どうだい、美しいだろう」
工房から戻ってくるなり彼は、自身の手で修復された精巧なドールを私の前に掲げて得意気な声で言った。ドールの頭部に付けられた銀色の長髪は実際の人毛であると彼は以前説明していた。
「まるで生きているみたい」
私は眼前のドールの額にかかる髪を撫ぜる。それはやはり生きた人間とは違った独特の手触りを持っているし、近寄せてみればゴムのような無機質な匂いがする。その重量は見た目よりも遥かに重く、人間の赤ん坊を抱きかかえているような、密度の濃さを感じた。
そして実際に彼はそのドールを我が子のように愛でた。
「愛情を持って接すれば、この子も愛情を返してくれる」
彼は私に言ったのか、独り言であるのか判別出来ぬような調子で言った。
広大な邸の中には幾つかのドールが置かれていた。あるものは椅子に座り、あるものはガラスケースの中でポーズを取り、またあるものは天井から糸で吊られていた。
ふとした拍子には、その人間のような存在感にはっとさせられることもある。しかし、初めは気味悪く感じた彼の趣味も、今では美しく感じられるようになっていた。
そして、心血を注いでドールを作り上げる彼の姿を見るたび、私はその真剣な眼差しや繊細な手つきに魅力を感じずにはいられなかった。そして密かにこんなことを思ったりもするのである。彼は形として愛を残す方法を知っているのではないだろうか。
寝室のガラスケースの中で保存されているドールを思い出す。彼は寝る前に必ずそのドールに話し掛けた。おやすみ、というような簡単な挨拶の時もあれば、美しいとポツリ呟くこともある。そして、その目には私を愛する時と同様の輝きが込められていることにある時気が付いた。その時、私は希望を見付けたように思った。永遠は確かに存在するのだろうと……
***
「お母さま、ごめんなさい」
ベッドの横に置かれた椅子に座って両手で顔を覆っている母に私は声を掛けた。
私の言葉にはいくつかの意味が込められていたが、母はそのどれにも答えなかった。ただ小刻みに身体を揺らして現実から我が身を遠ざけようとしているようだった。
念入りに消毒されたであろう病室のリネンは予定調和の匂いを放ち、私を落ち着かなくさせる。カーテンのみで仕切られた隣のベッドから唸るような声が絶え間なく私の耳を犯した。六人部屋の一番奥のベッドであったおかげでベッドの上で上半身を起こすだけで窓外の景色が臨めたが、等間隔に植えられた樹木と、噴水を止められて、ただの水溜まりに等しい人口の池では私の心の慰めとはならなかった。
桟にはコップに生けられた一輪の花が、本来持っていた鮮やかな色とはまるで違う、くすんだ黄色の花びらを力無くその身に連ねている。
窓ガラスに反射する母の姿は、その花と同じように萎れて見えた。
三日前、私の婚約は破談した。
……君と一緒に生きる人は他にいると思う……
私の病がもう完治する見込みがない段階まで進行していることを知ると、彼はまるで理解することの出来ない不可思議な言葉を残して私の元を去った。しかし私は彼のことを責める気にはなれなかった。初めから幸せになるような資格などなかった私が、ただ彼のことを騙していただけなのだ。先に裏切っていたのは私なのだと自分に言い聞かせた。
「この街ではなくてどこか綺麗な所で暮らしたいわ」
寂しい景色を眺めながら私は言う。
母はまた私の言葉には答えなかった。二十二歳まで手塩に掛けて育てた娘の婚約が破談になった時の気持ちを娘の私がうかがい知ることは出来ない。人生が一転すると思われた幸福な数日間を過ごした後に、突如として人生のどん底に突き落とされる気持ちも私にはわからない。そんなことを考えながら、一体どちらが病人なのかわからないほどに憔悴しきった母の様子に私は憐憫さえも覚えた。
気が付くと窓の外にはチラチラと雪が舞っていた。
今年最初で最後の雪だった。
⑨
「彼は嫁を貰うことが会社を継ぐ条件だったみたいなの。私のように子供を産むことの出来ない女と一緒になるなんて考えられなかったのでしょうね」
彼は作業机の上に頬杖をついたまま黙って聞いていた。着古したカーキ色のセーターは袖が綻びている。
「気分の悪い話だったかしら。もう過ぎたことよ……ほんのわずかな時間であってもこうしてあなたと過ごすことが出来て、私幸せなのよ」
胸の中を開いて見せるような飾り気のない言葉で私は彼に思いを伝えた。彼は私の言葉に穏やかな微笑で答えた。
私はそっと彼の唇に指先で触れる。彼は自身の口を封じていた呪縛がようやく解けたとでもいうように小さな声で囁いた。
「……あの曲を聞かせて……」
言い終わると彼は作業机に置かれたドールを赤いベルベットで丁寧に磨き始めた。
私は隣室に移動し、姿勢を正してピアノと向き合う。
第一音が響く…… 続く第二音……
やがて私と彼の前に美しい川が流れる。
「私はあなたよりも少しだけ先にこの川の向こうへ行く。でも不思議と今は恐くないの。あなたと一緒に過ごして永遠の存在を感じるようになったから」
先日彼が修理を終えたドールが棚の上からこちらを見つめていた。深い緑色の瞳が川を流れる水を想起させた。
モルダウ川は彼我をより深い所へと誘う……
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