ドライフラワー
如月 朔
第1話
プロローグ
忘れるという作業は私にとって実に容易で難しい。今もぼんやりと書棚の前に立っているが、一体どの本を探しに来たのか思い出せない。それにも関わらず、隣の寝室から聞こえてくるモルダウの流麗な調べが、鍵盤によって紡ぎだされる柔らかな音色が、この耳に入る度に私の脳は官能的な刺激に浸る。完全なものはそこに存在して当たり前のものとなるため、時としてその存在を忘れ得る。しかし、それは記憶の底に沈殿した澱のようなもので、ささやかな刺激によって一度舞い上がってくるといつまでも脳裏を過って忘れることが出来ないものだ。そして不意に舞い上がってくるこの恍惚とした感情こそが、私が自身の作品に対して丹念に注ぎ込んだものだと言える。
よくあるそれのように、頭部だけがやたらと大きく、不自然なバランスの頭身ではなく、人間のそれとほぼ等しい頭身を持ったアンティークドールや自作の人形が、静物画のようにひっそりと邸のあちらこちらに飾られている。至る所に配された人形たちは、邸全体の雰囲気を損なうことなく見事に調和し、邸を一種の異質な空間とすることに一役買っていた。方々から集めたもの、自作のものを合わせると、その正確な数は幾つとも知れないが、中でも私が特に気に入っているものが寝室に一体、それからこの書斎に一体飾られている。
人形たちが痛まぬよう、湿度管理が徹底された部屋の空気は渇ききっており、埃臭いような独特な匂いに、喉がチクリと痛んだ。しかし、この痛みも私にとっては慣れ親しんだものだった。隙間から西日の差し込むカーテンをそっと開け、赤々とした日差しを採り入れる。
換気のために些か開けた窓から穏やかな風が流れ込む。微風を頬に感じながら私は揺り椅子に腰掛けた。眩しさに目を細め、囁くような声で彼女に語りかける。
「このモルダウの音色のように、美しいものは色褪せることなく美しい」
腰掛けた揺り椅子を小さく軋ませて、彼女は無言のまま一点を見つめている。私の言葉が彼女に届くかどうかは重要ではなかった、どんなに小さな声でも、あるいは言葉でなくても構わない。私の思いが彼女には伝わるであろうという強い自負があった。今、目の前に存在する作品にはそれだけの魔力が宿っていると確信していた。
春の風に煽られて黒いワンピースの裾がハラリと乱れ、滑らかに磨き上げられた象牙のように美しい彼女の足首がチラリと私の目に映り込んだ。
第一章
①
山の頂にわずかに冠雪の残る春の日、彼女は高層ビルの建ち並ぶ街を幾つも越えて、私の住む片田舎へ静養にやってきた。
まだ若かった私は、絹のように白く、ガラス細工のように繊細な彼女にたちまち夢中になった。思い描く理想に限りなく近い彼女の造形が、私の心を強く刺激したのだった。
久しく忘れていた、消えかけていた感情の脈動を確かに感じた。
当時、私は制作に若干の行き詰まりを感じており、理想を追求しようにも、その理想が現実としての質感を全くもって伴わないものとなってしまっていた。もしかしたら、本当に美しいものなどはこの世には存在しないのではないかと、私の考えは深い地の底を彷徨った。
彼女の存在はそんな私の暗闇に差し込んだ一条の光であるとも言えた。都会の汚い煙を吸って育ったなどとは到底思えない程の透明感と汚れの無さは私に新たな活力を与えてくれた。それと同時に心の奥底で考えてしまうのだ、彼女の美しさはその造形に起因するものなのだろうかと。あるいはその中身が腐臭を放ってこそ、彼女は刹那的な魅力を持ち得るのではないだろうかと。過去の経験から生じる疑念はいつまでも私の頭の中をグルグルと駆け回り出て行こうとはしなかった。そして私はこう結論付ける。彼女を愛することで、前述のどちらであったとしても最終的に私の求める答えにたどり着くことが出来るのではなかろうかと……
②
「肌が弱いから」
そう語る彼女は、もう七月になろうというのに長袖の黒いワンピースを着ている。袖からのぞく白い手は、もしや血が通っていないのではないかと疑いたくなる程に、弱々しく細かった。それを見て私は丁寧に塗り上げられた陶器を連想して恍惚となった。
「紫陽花が綺麗に咲いているのね」
山間のこの土地は気温が低く、七月の中旬まで紫陽花が花を付けている。薄紫色の花に顔を近付けて彼女はその表情を崩した。
彼女が顔にかかる髪をよけた時にわずかにのぞいた首すじには、紫陽花と同じ薄紫色の痣が浮かんでいた。体調が芳しくないのだそうだ。先週末、彼女は東京の病院で治療を受けてきた。私に対して彼女が自身の病状を詳しく語る機会は少ないが、春に初めて彼女を見た時と比較しても衰弱していることは明白だった。
その頃からであろうか。私は少しずつ焦燥を感じるようになっていた。もしかすると、彼女にはもう余り時間が無いのではないだろうか。しかし、このとき私にはこの焦燥が一体何に由来するものなのかはっきりと見定めることは難しかった。彼女との関係を進展させることに焦っているのか、あるいは結論を見出す前に彼女の完全性が揺らぐのではないかという不安によって生じるものなのか判然としなかった。いずれにせよ、私には目に見えて弱っていく彼女の姿から幽玄と形容するに相応しいような魅力を感じ、一方で、残された時間はそう長く無いだろう、そんな無慈悲な確信を抱いていた。そして、その確信は私の心の隅にいつまでも居座った。
③
「この川の水はやがて東京へ流れて、そして海へと還ってゆくんだ」
私が発した言葉に、彼女はつばの大きな麦わら帽子が飛ばされないように片手で押さえながら頷いた。
「あの東京と繋がっているなんて信じられない程ここの空気は澄んでいるわね」
そう言われて私は深く息を吸った。土の匂い。水の匂い。木の匂い。それから彼女の匂い。初めて出会った春よりも近い、甘い匂い。そして、
……夏の風の底でほのかに薫る何かが朽ちてゆくような甘美な匂い……
私はそれらの匂いを堪能して、ゆっくりと返事をする。
「本当にそうだね」
風に吹かれて波立った水面に陽光が反射して無数の魚の群れのように見えた。彼女は目を細めて水面を見つめている。その横顔はどこか作り物めいて見える程に整っていて、長い睫毛が描く緩やかな曲線は芸術的ですらあった。私はその光景をしっかりと目に焼き付ける。そして心の内で密かに計算する。理想的な瞳の形と睫毛の長さ、眉や鼻との位置関係を。
「そんなに見ないで。恥ずかしいわ」
「絵になるなと思って」
彼女は頬を少し赤らめて、私の顔を上目遣いに覗き込んだ。
「あなたの瞳はすごく明るい茶色なのね。少しだけ緑ががっているようにも見えるし、なんだか吸い込まれてしまいそうな不思議な色だわ」
「昔から色素が薄いんだ。最近になって瞳の色はますます明るくなっているような気がするけどね」
彼女少し前屈みになって興味深げに私の目を見つめていた。
「今何時かしら」
はっとしたように彼女は目を大きく見開いて言う。髪が風になびいて胸元がわずかに露わになる。以前よりも痩せた彼女の身体はその身を包む服との間にやや大きな隔たりを生んでいた。
「もうすぐ三時になるね」
私は彼女の胸元から必死に目を逸らし、腕時計を確認して言った。
「大変、おばあさまの家に戻らないと」
「そうか、じゃあ家まで送るよ」
彼女の白い肌に浮かぶ薄紫色の痣は私の気持ちを狂おしい程に掻き乱した。
車は道路の凹凸に合わせて度々小さく弾んだ。
「こっちに来てから私、あなたに色んな所に連れて行ってもらってるわね」
助手席の窓を開けながら彼女が言う。
「あんまり連れ回して体調が悪化したりしないといいけど」
「そんなことないわ。初めて見るものばかりでとても新鮮なのよ。でもおばあさまには内緒ね」
悪戯っぽい表情を作って彼女はコロコロと笑った。そんな彼女を見ると、先日までの自分の考えはまるっきり的外れなのではないかとも思ったりするのだ。本当は彼女はこの土地での療養が順調に進んでいて、快復に向かっているのではないかと。
「これからももっと色んな所に行って、色んなものを見よう」
自分の口からこんなにもチープでつまらない科白が出たことに驚いたし、気恥ずかしさも覚えた。しかし、一方で彼女とのこれからを約束するにあたって、これ以上の言葉も私には見付からなかった。間の悪さを取り繕うように私は言葉を続ける。
「じき七夕だろう。星を見に行こう。東京の空じゃ天の川は見えないだろう?」
「本当に。嬉しい。東京では星だってそんなに多くは見えないもの」
心底嬉しそうにはしゃぐ彼女を見ることで、私の心はにわかに平静を取り戻すのだった。
時折、木立ちの間を駆け抜けてゆく車のタイヤに踏み潰された木の枝がパキッと高い音を立てて弾けた。
④
七月七日、いつもの待ち合わせ場所である駅前の時計塔に、生真面目な彼女には珍しく少し遅れてやってきた。
身に纏う純白のワンピースとは対照的にその表情は暗く曇り、抑えた感情が今にも溢れ出すのを必死に堪えているように見えた。
私は、自身の脳裏に過った考えに胸が苦しくなったが、次の瞬間に彼女が発した言葉によって、その考えは杞憂に終わった。
「おばあさまが……おばあさまが倒れたの」
数日前のことだった。彼女が散歩から戻ると台所で祖母が倒れていたのだそうだ。脳の血管が破裂して、今も意識が戻らないのだという。
「そんな……病院を空けて大丈夫なの?」
「意識もないし、私がいても何も出来ることはないから。それに東京からお母さまも来ているし……」
彼女に対して掛けるべき言葉が見付からず、私はただ木偶の如く彼女の前に立ち竦むより他になかった。
彼女は瞳を潤ませて私の顔を見た。その表情は数秒、厳密には一秒に満たなかったかも知れないが、私の心を捉えるのには充分であった。おずおずと、しかし、強かに私は、彼女の細い身体を自身の胸元に引き寄せた。こんな状況でも私は直接伝わってくる彼女の生きた体温に興奮を覚えていた。
「ありがとう」
彼女は私の胸に顔を埋めて言った。
「ごめん」
何故だかはわからない。無意識に口をついて出た言葉だった。
車へと場所を移し、彼女が落ち着くまで私は黙って彼女の手を握っていた。
「ねえ、約束通り星を見に行きましょう」
囁くように発せられた彼女の声は気丈に振る舞おうとする少女の強がりを孕んで私の鼓膜を震わせた。
「でも……」
「いいの。星が見たいの」
彼女の祖母のことを考えると、私は彼女の意見に賛同しかねた。
「私ね、わがまま娘だから。お母さまにもよく言われたわ」
そう言って真っ赤な目を無理矢理に細めて作った笑顔は、途端に夜の闇に呑まれてふつりと消えた。
車はライトを上目にしてサスペンションを軋ませながら林道を進んでゆく。わずかに開けられた窓から流れ込んでくる外気が車内に満ちて、夜の湿気を帯びた森の匂いを私に伝える。昼間に蓄えた温もりを、森は白く立ち込める霧として空へ返した
小高い丘の上に出ると森が急に拓けて、視界全面にダークブルーの空が広がる。空は中空にロマンスグレーの豊かな髪を揺蕩わせている。
サイドブレーキを引いて車のヘッドライトを消灯すると、辺りには太陽の光を反射して淡く光る半月と星の光だけが煌々と輝いていた。
「ほら、あれが天の川だよ」
丘の突端まで歩き、空の、その美しい髪を指さして私は言った。
「すごい。どれ、どれが織姫と彦星なの」
「あの一際明るい星が織姫で、川を隔てて、その右下にある……ほら、あれが彦星だよ」
彼女は私の指の示す先を必死に見つめている。私はその美しい横顔をひそかに視界の端に収める。
風が止み、虫も鳴かぬ、時間さえも止まったのではないかと思う程の静寂。その静寂を彼女が澄みきった声で引き裂いた。
「私、東京に戻らなければならないの。おばあさまも私と暮らすことは出来なくなってしまったから……」
私はその言葉をある程度予測していたが、それでもやはり飲み込むまでには多少の時間を要した。
「そうか」
小さく呟くと私はまばらな緑が地面を覆う足下に寝転んだ。
……星が流れたなら良いのに……
そうすれば私はすぐに星に願いを懸けただろう……君を、このまま……
どれくらいの時間そうしていただろう。ただ空を見上げたまま、私はぼんやりと彼女の言葉を頭の中で反芻していた。
「綺麗ね。この沢山の星たちは今も燃えているのかしら。……それとも」
私には彼女の言葉の意味するところが理解出来た。そして切なくなった。苦しくなった。それと同時に二人で川を眺めている時にははっきりとしなかった焦燥の理由が自明のものとなった。
「一緒に暮らそう」
考えた末に出てきた言葉ではなかった。それはあまりにも自然で淀みなく、空から聞こえてきたのではないかと自分自身が錯覚する程だった。
「そんな……急に言われても」
「大丈夫。川と同じ、続くべき場所に続いているさ」
私の言葉に彼女はゆっくりと頷いた。私にはもう少しだけ彼女との時間が必要だったし、それは彼女にとっても同じことだった。
「二人で暮らすのね……」
私の言葉の意味を改めて確かめるような口調で彼女は言った。
彼女の手を握るべきなのか、口づけすべきなのか、私は戸惑ったが、そのどちらも必要ないのだと気付いた。もう彼女はある意味では私の一部だった。互いに重なり合う部分、あるいは感情の融け合う部分が存在することは明白だった。また、私の感情と融和することで、その完全性が今後も保たれるであろうことを私はこのとき悟った。
私は立ち上がると、月明かりに照らされて青白く染まった彼女のワンピースの袖を引いた。驚く程清涼な月の影に包まれて二人はゆっくりと歩調を重ねた。
車は林道のさらに奥へ。人里から離れた私の邸へと向かってゆく。
「さあ、中へ。入って」
扉を開けて彼女を邸の中へと促す。彼女は雲に乗るかのようにふわりと、廊下に敷かれた赤い絨毯を踏んだ。扉が音を立てて閉じる。
私は後ろから彼女を抱きしめた。耳に、そして首筋にそっと口づける。細い肩に触れ、そっと背中から手を入れてワンピースを下ろしてゆく。雪よりもなお白い彼女の背中には所々、薄紫色の紫陽花の花が咲いている。彼女の儚さを主張するかのように。
「恥ずかしがらないで」
彼女は手で身体を隠しながらも、その唇は私を受け入れた。
窓から差し込むわずかな光を頼りに私は、白く、青い、そしてかすかに紅い彼女を寝室へと導いた。
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