第11話 ポルトジェロ地区その3

「何だってあんな話を僕たちに」

 通りから去りゆく馬車を、窓から眺めてエルマーが呟く。眠気も飛んでしまったようだ。

「で、どう思った?」

 反対に欠伸をするアルフレートへ振り返り、若い学者は尋ねる。

「いかにも怪しい家庭教師を調べるのが最優先だな。単なる使用人が、何で雇い人の娘なんかにあんなとんでもな話を暴露するんだ。普通なら告げ口の危険性を考える。そうならない自信があるってことはフィーネと恋仲なんじゃないか?」

「君は日に日にヒュム臭くなる」

 エルマーは苦笑いだがアルフレートの意見を否定はしなかった。それをいいことにアルフレートは自らの考えを続けた。

「保守派からの刺客がヤンカー家に入り込み、まず娘を落とす。味方に引き込んだ後は情報を引き出すんでもいい。デタラメな情報を向こうに流すんでもいい。いざとなったら人質にしてもいい。とにかくこのきな臭い家庭教師を調べれば、裏があるはずだ。その流れで悪魔憑きの話も嘘なのがわかるだろう」

 そう言葉を口にする途中からすでに、頭の中でアルフレートは自らの考えを一部否定し始めていた。

「嘘だと思ってる?」

 エルマーにずばり突かれ、アルフレートは即答出来なかった。

「……絶対とは言い切れない」

 カーテンを締めた後、子エルフの言葉の続きを黙って待つエルマーに、アルフレートは古老達から聞いた悪魔という存在について話すことにした。






「この世界を作り上げたのが六大神を始めとする神々だとしたら、それを破壊する存在が邪神や悪魔といったものだという」

 アルフレートは話しながら先程無理をして飲んだコーヒーを洗い流すように紅茶を口に含んだ。本場のものに比べたら『二流品』だと言われたアルケイディアの紅茶だが、十分香り高かった。

「……実はそれは悪魔の生態の一面でしかない。実際はもっと複雑で、そんな単純の存在ではないんだ。奴らは生き物の負の感情を食う」

「悪魔と対面した時の恐怖、だとか混乱、狼狽みたいな?」

「そう、単に生き物の血肉を貪る奴らもいるが、それも食べられる瞬間の痛みや絶望も一緒に喰う。それを目にした周りの恐怖の感情も共に味わうわけだ。糧を得た悪魔は力を付ける。そして生き物の側、例えば人間界に入り込んで餌を食らう瞬間を待っていたりするんだ。それゆえにエルフは」

 アルフレートはそこで思わず口を止めてしまった。個人的な思いが渦巻くのを誤魔化すようにお茶を再び口にし、また話し出す。

「それゆえにエルフは感情の起伏を良しとしない。ヒュム達よりはるかに力のある我々が、悪魔に飲まれたらどういうことになるか想像はつくだろう?」

「ふむ」

 エルマーは短く答え、身を預けてた窓の棧から離れる。そしてアルフレートの前のソファに身を沈めた。

「僕も有名な神話やおとぎ話やら、一般常識範囲でなら悪魔の話は知っていたが、それらはわかりやすい悪の存在でしかない。君から聞くとやっぱり面白いな」

 言葉とは裏腹に少々眠くなってきたらしい。エルマーは数度、目を瞬かせた。そして眉間を揉む仕草をしてから眠気を飛ばすように背もたれから起き上がる。

「『悪魔に飲まれたら』って言ったね。飲まれたら、と。それが例の子爵様に起きてることじゃないか、って?」

「可能性はあるってことだ。あんただって悪魔憑きなんて実際目にしたことはないんだろう? 悪魔ってのはそうそう遭遇するような存在じゃない。大抵は異界で眠ってるか、人里離れた山奥で獣でも餌にしてる。ただ、好みによっては都会に入り込んでひたすら人間の感情を貪ってるタイプもいるだろうな」

 アルフレートの言葉に頷きながらエルマーはカーテンの隙間を見る。家の前の公園越しに見える街の明かりが彼のメガネに映った。

「嫉妬や悲観、憎悪や憤怒なんかの感情はこの街より溢れている場所はないだろうね。もちろん逆も然りさ。歓喜、享楽、愛に溢れていると思わない? そんな顔するなよ」

 エルマーはアルフレートの冷めた目にそう言うと欠伸をした。

「二、三日暇になりそうなんだ……。家庭教師の名前は何て言ったっけ? そうそうドリノ・カヴールね。彼を相手に君と探偵ごっこでもしようじゃないか」

「探偵役はどっちだ?」

「子供の探偵なんているもんか。君は助手役を務めてくれないと」

「まあいい、探偵は推理以外はからきしの、生活力のない変人と相場で決まってるんだ」

 子エルフの生意気な返事に、エルマーはブラシを入れたのはいつのことなのか覚えていない頭をかいた。






 『妖魔の森』、またしてもこの本の内容が頭に入らず、アルフレートはあきらめて頭上の蝋燭の火を吹き消し、枕に頭を沈めた。

『ずいぶん人間くさい仕草するのね』

 クスクスという笑い声に空を睨む。天井を漂い、瞳孔の無い目でこちらを笑う白一色の半裸の女は、この家ではアルフレートにしか見えない。眠りを誘い夢を見させ、それを食う精霊である。食われたところで害はないのだが、この妖精に夢や感情をそのまま読まれることになる。

『ずっと 考えてるわね。そんなに気にしないで。あなたは何も間違ってないわ』

「気にしてない、うるさい、どっか行け」

 子供らしい台詞で悪態つくと、アルフレートは薄手の毛布を被り寝返りを打つ。夢の精霊はそれでも嬉しそうにアルフレートの耳元で囁いた。

『エルフは感情を捨てるべきだなんて、そんなの間違ってる。この豊かな街に来たあなたは正しいわ。見てご覧なさい、この色とりどりの世界を。アリュシオール、それを確認するために幸せな夢を見させてあげる』

『……次に偉そうな口を利いたら、その頭を捻り潰してやる』

 子エルフの精霊語と体から溢れる気配に、夢の精霊はぴたりと笑いを引っ込める。そして身を引くと扉を擦り抜けすばやく部屋から出ていった。極上の餌なのは間違いないが、危険極まりないこの部屋の主より、隣の部屋ですでに眠りの中である少女の甘い夢をいただく方がましと悟ったのであろう。

 暫くの静寂の後、部屋には小さな寝息だけが響いた。






 翌日はここアルカドの夏では珍しく風が冷えていた。湿り気はそのままに冷え込む空気を受け、路上の二人は身震いする。夏の初めに仕舞い込んでいたジャケットを引っ張ってきて着込むエルマーは、石畳の上から青空を仰いだ。

「気味が悪いな。こんなに晴れてるっていうのにこの気温だ。まだ火竜の月だぜ? 天変地異の前触れかと思っちゃうよね」

「別に。1年365日もあるんだ。こんな日もあるだろう。それより早くあの警備の男に話をつけてくれ」

 アルフレートは不機嫌そうに鉄の門を指さした。ヤンカー邸は流石というべきか、シュパン邸よりも遥かに大きく、装飾も派手である。そして大型の馬車も悠々と通すであろう大きさの門の前には警備兵が立っているのだった。赤に黒い線の入った制服には簡単な護符がかかっており、短めのソードを腰に携えている。目線は真っ直ぐ前を見つめたままだが、エルマー達を警戒している空気を隠さない。

「ちょっと待ってくれ。今どういう『設定』でいくか考えてたんだ」

 エルマーのその思案は必要がなくなる。門の向こうから麗しの令嬢フィーネ・ヤンカーがやって来たのだ。

「まあ」

 驚いた声を上げるフィーネは出かけようとしたところだったのか、花飾りをつけたボンネットを被り、小さなハンドバッグを手に下げていた。白い肌に空色のドレスがよく似合っている。アルフレートはアレクシアがよく「私は地黒だから」と濃い色のドレスばかり身につける理由がわかった気がした。

 フィーネは早足で門に行くと警備兵の男に囁く。男は硬い表情のまま頷き一つ、門を開けていった。

「こんなにすぐのお越しとは思いませんでしたわ」

 頬をやや上気させて言う少女にエルマーは縁に埃付きのハットを持ち上げながら挨拶する。

「出掛けに申し訳ない。今日は学校がお休みだと思ったので、連絡無しの失礼も承知で参った次第で」

「とんでもない、歓迎するに決まってるじゃありませんの」

 通りに背を向け、屋敷へと歩き出すフィーネは言葉に嘘は無いようで、興奮しているのか歩みが早かった。

「……父の書斎を案内するようなことは出来ませんけど、家族は紹介できますわ。ちょうど父以外は在宅ですの。弟は年の頃は同じくらいだと思いますけど、ちょっと話が合うとは思えませんわね」

 そう言ってアルフレートに微笑んだ。アルフレートも微笑み返す。それを見て、エルマーが囁いてきた。

「前から思ってたんだが、君は女性に対しての方が対応がうまいね。どこで習ったんだか」

「その方が全てにおいて円滑に回るのを知っているからさ」

「……それは否定できないね」

 小声で話す男たちを気にかけず、フィーネは屋敷の扉までくると扉前の使用人と思われる黒服の男にエルマー達を紹介した。

「私の学友のアレクシアのお兄様よ。エルマー・シュパン様。それにそのお友達のアルフレート・ロイエンタール様。エルフだけど街で暮らしているんですって」

 老齢の執事はさすがに面食らったのかアルフレートに目を丸くする。が、すぐに恭しく一礼した。

「ヤンカー邸の家令を務めておりますディンケルと申します」

 動きにそつがない家令は、立派な体格に負けない上等な仕立てのフロックコートに白タイ、磨かれた革靴に身を包んでいた。シュパン家のコンラートが気の毒になるほどの格差である。

「今日は寒いからサンルームに行くわ。お茶を持ってこさせてちょうだい」

 そう言うとフィーネはすぐに「こちらへ」と歩き出す。それに合わせるようにディンケルが屋敷の扉を開け放った。

「おおっと、これは……」

 エルマーが呟き、アルフレートは顔をしかめる。広いホールの奥に現れたのは大きな肖像画だったのである。怒りの表情にも見える顔は、画家がモデルの男の威厳を最大限描ききった結果なのであろう。屋敷の規模の割に簡素な装飾でまとめられたインテリアがさらに絵を目立たせている。その威圧感から見る者を不快にすらさせる絵を、客人がまずはじめに目にするこの位置に飾るところに、この屋敷の主の性格が表れているようだった。

「どうぞ、こちらへ」

 自ら案内役を務めるフィーネの言葉に振り向いたアルフレートは、ホールを西側に抜ける狭い通路の前、小男がこちらを覗いているのに気がついた。顔はひどく汚れているし、その上にたにたと歯を剥き出しにして笑っている。ひどく曲がった背中、みすぼらしく汚れたズタ袋のような衣服といい件の肖像画の になる存在のようだ。しわくちゃの顔からして老人にも見えるし、小さな体から子供にも見える。使用人棟に続くのであろうその通路は地下へ下がる形になっており薄暗い。その暗闇からこちらを見る目はぬらぬらと光って見えた。

 エルマーもまた醜男の方を見たのは暗闇からの視線に気づいたからではない。アルフレートの目線に気づいたのである。男の姿を捉えたエルマーが呟く。

「煙突掃除夫が迷い込んだのか、はたまた……」

「あの」

 フィーネの戸惑う声と視線に、二人は慌てて案内された先へと歩き出した。

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