第三十九話 時は再び

「どうじゃ、お主になら分かるはず。この詩の意味する結末が」


 九郎は本を閉じながらロベルトの目の奥を覗き込むように顔を傾けた。


 ロベルトは口元に手を当てて詩中の単語をうわ言のように何度も呟いていた。


「……終わりの時エンドタイム反母アンチムツター世界樹エグジット精霊塔エントランス聖杯クヴェラス切り札ブルーゼロ……か」


 燭台の火がまた少し暗く揺れて障子に映った二人の影が薄くなった。


 九郎は立ち上がって、部屋の隅の素焼きの壺の中から注ぎ口付きの鉄柄杓ひしゃくで上層に溜まったくすんだ飴色の油をすくい、「やはり廃油では光の色が冴えんのう」とぼやきながら干上がりかけた燭台の油受け皿になみなみと流し込んだ。


「まさか、先程の予言詩は……聖杯の伝説メモリンク・クヴェラス、ですか…」


「そう、テオト語で言うならばな。悪しき血への神の裁きゴッドフレアというやつじゃ」


 聖杯の伝説とはジェタクト聖教などで信じられている伝承である。

ジェタクト聖教は古代ルーラー族の十二賢者を崇拝する世界最大の宗教派閥だ。


 その教義を簡単に説明すると、ルーラー族の罪深き血を継いでいる我々にはいずれ神の裁きが下るからこれ以上罪を重くしてはならない、罪を償わなければならない、そのためには質素誠実な生活を旨とせよ、というものだ。


 彼らの教義によれば聖杯の伝説とはルーラー族滅亡の物語である。



「まさか、レイモンド・カリスのカリスってのは……」


 ロベルトの言葉の端はじりじりと燃える炎の音に吸い込まれた。


 代わりに九郎が口を開いた。


「……お主の推測はわしの考えと同じじゃ。わしは言葉の続きをあえて口にはせぬ」


「いや、しかし、それはあくまで伝説であって真実とは――、それにカリスという名もただの偶然の一致ということも――」


「否定はさせぬぞ、ロベルト・ディアマン……いや、あえてこう呼ばせてもらおう。『金剛石ダイヤモンドのロベルト』よ。お主ら一族は知っておるはずじゃ。古西語バベルで言う聖杯の伝説レジェンド・オブ・カリスとこの世界のふるき真実をな」


 その言葉でロベルトの表情が戸惑いから険しく一変した。


「……いつから気付いていました?」


 鋭い視線が老人の朽ちた顔を捉えた。


 しかし老人はその視線を受け止めず、背を曲げて目の前の空いた湯呑に手を伸ばした。


「昔から気付いておったよ。お主らは普通とは違う考え方を持っておるからの。他の人間とまるで同じに見えても、どこか掛け離れた部分というか違った雰囲気がするのじゃ。わしはそれを嗅ぎ取っただけ」


「ああ、そういえば九郎殿の一番弟子は……」


 ロベルトはそこで初めてしばらく会っていない兄弟の顔を思い出した。


「まあ、あやつは相当の変わり者じゃからな。お主らから見ても掛け離れ過ぎじゃろ。それはそうと姫様は元気かのう? もう五十年も会うておらぬが」


「姫ですか。あのお方はいつまで経っても変わりませんよ。九郎殿が会った時に元気そうだと感じたのなら今もそのまま変わりないでしょう」


「ふふ、お主もなかなか言うのう」


 ロベルトが返すのと同時に九郎は笑いながら湯呑を持って立ちあがった。



「…彼には真実を知らせないのですか」


「そういうことではない」


 九郎は座っているロベルトの横を通り過ぎ、背中で言った。


「答えは自分で見つけ出さねばならん。他人から無理矢理与えられたものなど本当の真実とは言えぬ」


 その言葉にロベルトは一息ついて、懐から煙草入れを取り出した。それを見ていた九郎は片づけの作業を止めて振り返り、珍しそうに尋ねた。


「お主の一族でも煙草を吸うのか」


「いや、喫煙の習慣はありませんよ。こんなものを吸うのは俺だけでしょうね。他の連中は鼻が狂うと言って吸いませんよ」


「お主は大丈夫なのか」


「ええ、俺は口の中に煙を貯めているだけで喉や鼻腔には通していませんからね」


「なんじゃ、それでは吸っている意味がないではないか」


 呆れた顔で九郎が言った。


 マッチを探して体のあちこちを触ったが昼間どこかで落としたらしい。


 仕方なく手を伸ばして燭台の火を拝借した。そしていつものように煙草をふかしながら話を元に戻した。


「つまりは時が再び流れ始めた……と」


「そう、かの女も闇から目覚める。いや、もう目覚めているかも知れん。とにかくもはや誰にも止められぬ」


「急いだ方が良いということですね」


「いや、急いてはならぬ。急いたところで運命は変えられぬ。大切なのは焦らず流れに身を任せることじゃよ」


「では、俺が今すべきことは何です」


 ロベルトは聞いた。


 彼にはするべきことは分かっていたがその質問は九郎に確認をさせる為のものだった。


「与えられた任務を果たすことじゃな。おぬしの初めの任務はセント・クレドを回収すること。しかしセント・クレドがレイを所持者として選んだ今、回収対象はレイじゃ」


「あのペンダントはセント・クレドの魔剣の実体を封じ込めていた入れ物に過ぎぬ。すでに剣の実体はペンダントから抜け出してレイの支配下にある。もはや魔剣単体での回収は不可能じゃ。レイごとミクチュアに連れ帰るのが最良じゃし、名無しの立てた計画も最初からそれが狙いじゃろう」


 考え通りの返答にロベルトはしばらく黙った。そして両手をついて体を九郎の方に向き直おしてから、ゆっくりと見上げた。


「それでいいのですか」


「何がじゃ」


 九郎はその意味が痛いほど分かっていたが表情には出さずに聞き返した。


「あなたは十年間も彼を育ててきたのでしょう。それを簡単に手放せるのですか」


「まさか」


 彼の顔は笑っていたがその声は心の変化を隠せないでいた。


「簡単に手放せる訳がない。わしはレイの正体に気付いた後も彼にその運命を負わそうとは思わなかった。いや、むしろわしは彼の運命を阻もうとした。出来れば彼を重過ぎる十字架から開放してやりたかった」


「わしはレイの前では極力、剣を持たないようにして稽古さえ彼に見せたことはなかった。そして彼に外の世界のことを教えようとしなかった。


「しかし、レイは自分から剣術を教えてくれとせがむようになり、わしが彼を世界から隔離したが故に一層外に対して憧れを持つようになってしまった……」


 その声は疲労感で潰されそうだった。


 ロベルトの目の前に立っているのは、力なくうなだれる枯れ木のように哀れな老人だった。


 その姿からかつての大剣豪という言葉は一切感じられず、ロベルトは九郎がこんなにも小さく見えたのは初めてだった。


「そしてわしがニコラから預かったその時から隠し続けてきたあのペンダントを、レイがわしの部屋で見つけてしまった時、わしはもう諦めることにした」


「わしがいくらレイをかばおうとしても、あの子はそれに逆らって自ら運命に向かって突き進んで来る。いくら運命を妨害しようとしても、それがかえってレイを吸い寄せる。わしは運命から逃れられぬことを悟ったのじゃ」


「わしは開き直った。レイが運命から逃れられぬのなら、その重みに押し潰されぬ力を持たねばならぬ。それからわしは徹底的にレイを鍛えた。最初の感じたとおりレイの才能はずば抜けておった。おそらくわしが教えた者の中で一番の才能じゃろう。何せ、壱の型を二年足らずでものにしよったのじゃから恐ろしささえ感じたわ」


「そして今のレイは相当の腕じゃ。まだ皆伝とまでは行かぬがセント・クレドを使えばわしとて敵わぬかもしれん。なにせあの古代兵器は連盟がその存在を隠し続けて来た禁忌の剣なのじゃからな」


 九郎は言葉を止め、障子を開けた。


 まだ薄ら寒い夜風が彼らの顔を撫でる。燭台の炎が大きく揺らいだ。それは今にも消えてしまいそうなほど儚い。


「――しかし、わしはそれでも安心は出来ぬ。そこでロベルトよ。お主がレイを連れて行くのに一つだけ条件を付けてもよいか」

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56テールズ ~聖杯の伝説~ 曽我部 穂岐 @Belzeea

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