第3話 出征

 晩になって、シロコは娘の姿で茶を啜る。駒沢が土産に置いていった羊羹を一切れ口にして幸せそうに頬を綻ばせた。寛二は翳りの有る顔色で彼女を見ながら、大層不思議そうに呟いた。


「こんな小娘をねえ。軍隊にだなんてねえ」

「ほれほれ、その小娘に羊羹をみな食べられてしまうぞよ。寛二もあがるといいぞよ」

「いいぞよってほとんど食っちまったじゃねえか」


 寛二は残された切れ端をシロコの魔の手が伸びる直前口に放り込んだ。彼女は残りもくれることを期待していたのか、桃色の唇を尖らせた。

 ますます可愛らしい小娘。いくら山岳犬の姿として軍に求められているとしても、戦地に不釣り合いなことこの上ない。


「どうするんだ、もし品評会で合格したらシロコは軍隊に行くのか」

「行くのかも何も、天子様の御用命とあらば征かねばなるまい」

「大袈裟な。陛下の赤子は人間だけで十分だ」


 シロコは嘲るように笑った。陛下という部分で笑ったようだった。


「人間だけとは滑稽なことよのう。わらわは神武の代から仕えているというのに」

「馬鹿抜かせ。シロコがそんな昔から生きててたまるかよ」

「ほう、なんでじゃ?」

「だって、その」


 彼女には何もかもお見通しだった。にやりと含みのある笑みで寛二に顔寄せて、彼にとっては前述のとおり小娘でしかない、それも掛け値無しの若い美少女であることには変わりなく、つい照れてしまう。


「わらわがあまりにも若々しく可憐であるからだろう、そうであろう?この面構えではとても何千年も生きているとは思えまい。もっとも、女子《おなご》に縁のない寛二には言うても仕方あるまいが」


 ぺろ、と小さな舌を出して馬鹿にしてくる。可愛らしくも色気ある滴りを湛える舌に「ああこの姿で街に出れさえすればさぞかし軟派ナンパの的だろうになあ」と、その想像上の軟派にもやってのけれないことをしてみせた。


「いててて!ひょっと、わらわのひたにふれるれない!」


 つまんで伸びる舌は長い。寛二は長い舌に素直な感心を口にした。


「長えなシロコのベロ。犬だねやっぱり」

「もう!近頃のそなたは調子に乗りすぎであるぞ!わらわはなんといっても・・・」

「神の使いというんだろ?天女か天使か知らんが、使いの小娘がこうされちゃ神サンも形無しだな」

「ばかにするでない!わらわが本気出せば、そなたなぞぺちゃんこのくちゃくちゃに」

「本気出してよ、俺が兵隊にいかんでも済む手はねえかよ」

「そんなに嫌か?召されるということは」


 大層不思議といった風でシロコは首を傾げた。「こいつバカか」と多少の侮蔑込めて大きく澄んだ瞳を見返した。


「行きゃ死ぬかもしれないんだよ、白木の箱ばっか見るじゃねえか」

「勇ましい名誉の戦死ではないか」

「勇ましかろうが名誉だろうが嫌だね俺は」

「そう言ってられる時勢でもあるまいに」

「そうさ、何言っても無駄だ」

「ならわらわが守ってやろうか」


 シロコはしなやかな指を伸ばすと胸のあたりから顎までなぞり、クイと寛二の顔を上げた。「銃砲火の中、こんなヤワな骨ではひとたまりもないであろう」ニヤリと微笑む唇は妖艶を持って舌で舐められた。寛二は照れ隠しにそっぽ向く。


「そうは言っても俺防空兵だよ。高射砲は自動車部隊だから犬どころか馬もいねえぞ」

「転科を願い出ればよかろうぞ」

「初年兵にそんなことできるか」

「ともかく品評会には出るぞよ。寛二の入営より前であろう、お主がわらわに乗るのじゃ」

「ハア?俺形式ばった乗馬なんてできねえよ」

「乗馬ではない、乗、じょう・・・」

「乗『わらわ』か?」

「う、うるさい!とにかく駒沢の兄が置いていった冊子をわらわに見せるのじゃ。どのような動きをするのか書いてあるのじゃろ。その通りにわらわは立派に動いて見せようぞ」

「まあお前が軍隊に取られても前線には行かんのだろうし、連隊長の犬にでもなったらいいんでない。そんな真っ白な身体で野戦には向かん」

「北満にでも行けばよかろう」

「そんなに前線に行きたいのかよ」


 シロコを嘲った寛二も、結局は彼女と一緒に品評会の検査項目を勉強するところとなる。それでも正式な操法を学んだことのない寛二は素人同然のままであったから、他の犬に乗ればすぐにでも振り落とされてしまっただろう。

 しかし結果は、入営の朝に撮った写真が物語っている。


「どんな見出しになるんです?」


 新聞記者は壮行会にもやってきた。品評会でも取材を行った彼は得意げな顔してカメラをいじっていた。


「そうですね、『陛下の赤子、愛犬と共に出征』これじゃ平凡かな」

「いえ結構です。しかし入営する部隊が違うものですから、どうも以降の格好がつかんですな」

「シロコがご自分の目から離れると心配ですか?」

「そんなことはありません。シロコは私がいなくても立派に任務を遂行するでしょう」

「今の言葉、記事に書かせてもらいますよ」


 ニヤニヤと敬礼の真似をする記者が離れてようやく周囲から人がいなくなる。作り笑いを止めた寛二は溜息を吐いた。


「シロコ、まさか本当に部隊長犬になるとはな。後方にいる高級将校の犬なら白でも問題ないわけだ」


 シロコも凛々しい佇まいから腰を落とし、欠伸をしながら首をかき始める。


「何度も言ったであろう。北支北満の部隊なら前線に出るって」

「前線も何も、北国だって雪解けの短い春はあるんだよ。それに支那事変が大東亜戦争になっちまって、戦争は南方じゃないか」

「勝っておるんだから問題なかろう。負け戦で部隊長犬と一目でわかるわらわを狙撃する度胸のある奴もおるまい」

「負けてんだから指揮官殺して大逆転狙うんだろうが」

「戦争は理屈じゃないぞよ」

「知った風な口をきく」


 互いに減らず口を叩くのは終わらない。シロコがムッと鼻に皺を寄せると寛二の左腕に噛みついた。


「いてえ!」

「目上のわらわをバカにした罰じゃ!甘噛みで済ませたこと感謝するがよいぞ」

「何が甘噛みだドデケェ口しやがってこの!」


 指を丸めてシロコの鼻を弾いた。これには彼女もたまらず目に涙が滲む。


「わっ鼻を弾いた!神様の鼻打った!」

「こうなりゃガキと同じだな」

「えいビンタしてやる!神の御手ありがたく受けるがよいぞ!」

「うわのしかかるな!おめえ重いんだから!」


 言葉でなくてギャーギャー喊声を以て喧嘩しているのが幸いだった。誰も二人が会話していることに気づかなかった。


「やあ、戯れる姿も絵になる。これも新聞に載せますよ」


 ニヤリと記者がカメラを構えた。二人はわざとらしい笑顔を慌てて作るとフレームに収まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神犬の兵士 森戸喜七 @omega230

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ