第2話 軍旗の影に
突如始まった日華事変と、首都南京陥落は二・二六事件より一年後だった。戦争は終わらず泥沼化、仏領インドシナ進駐は今年の昭和十六年に、同盟国を除く欧米諸国との関係は悪化し続けていた。村からも祝出征の幟旗は続々と出て行き、入れ違えに白木の箱に収まる遺骨が帰還した。
池部家では、成長した寛二が中学卒業後街に勤め始めたということ以外変わりはない。シロコの姿も相変わらずだった。彼女の人間としての姿はやはり17、8歳くらいで、成人を迎えた寛二からしたら、かつて姉のようだった印象は変わり小娘に思えるようになった。
仕事からの帰り道、夕方だった。俯きがちの寛二は畦道を追ってくる軍靴に気づかなかった。
「池部さん家の寛二君かね」
図太いのによく通った声、五月に受けた兵隊検査の会場にいた下士官を思い出し、不動の姿勢をとった。振り向くと数年前服制改正された軍服の折襟に新式の階級章、長方形赤ベタの地に金線一本、その上に置かれた銀五芒星三つが茜の夕陽に光った。戦地にいたのか焼けた顔で白目と歯がやたらと目立つ。声の主は寛二に近づき腰の官給軍刀が揺れた。
「駒沢、の、お兄さんですか」
「久しぶりだな。元気にしていたか」
最後に彼を見たのは五年前の冬、伍長の肩章を付けていたのを思い出し、寛二は頭を下げた。
「曹長に進級なさったんですね。おめでとうございます」
「いやいや。君は弟の弘明と同級だが、兵隊検査はどうだったかね」
「甲種合格です」
「そうか、おめでとう。弘明は第一乙種だ。背が低かったからな。しかし入営することには違いはない。どこの部隊かね」
「防空隊です」
「防空兵か。飛行機の時代だものな」
駒沢曹長は歩兵であるからか、高射砲を扱う防空兵と聞いてそれ以上のことは聞かなかった。その態度には幾分蔑んだ態度があった。
現役志願で叩き上げの泣く子も黙る八年兵、曹長といえば兵隊のカミサマ。その上歩兵とあらば、背に負う連隊旗の誇りは
「君は家に帰るところか」
「はい。仕事帰りです」
「ならちょうどよかった。一緒に行こう」
「どこへ?」
「決まってるじゃないか、君の家だ」
事情を飲み込めずにいる寛二は先を急ぐ駒沢の後に続き自宅の門をくぐった。庭にシロコが出ていて祖父の当てる櫛に目を細めている。
「やあ、見るのは久しぶりです。立派なものですな。ご無沙汰しております、
「ああ、駒沢さんとこの。弟君がご出征なさるそうで、おめでとうございます」
「いえいえ、第一乙種です。甲種の寛二君とは比べものになりません」
寛二は少しムッとした。同窓生が、体格差というどうにもならず付けられた区分で貶められているからではなく、甲種という烙印を押され人の嫌がる軍隊に召されていくのに、それがさもとてもいいことのように言われたからだった。もっとも時代が時代、表向きには名誉なこととされるし、自身でそう思っている者も少なくない。しかし長引く戦争のさなかでいつ終わるとも知れぬ戦闘に駆り出され、それも防空兵であるから、空襲下でも留まって応戦せねばならぬ。
「いやあ、うちの寛二はどうも愚鈍な方で。甲種であるのもおこがましく・・・」
「駒沢さん、要件はなんですか?」
駒沢は苛立ち抑える寛二の声に、そうだった、と手を打った。彼はやおらシロコの周りをぐるぐる眺め見て、首元の豊かな毛に触れると自信ありげに頷いた。シロコは流し目で駒沢の軍帽を注視する。
「このシロコのことでお話があります」
「シロコのことで?」
「ええ。実は自分、今は軍馬補充部に属しているんです」
「軍馬?はて、家に馬はいないが」
「駒沢さん・・・曹長殿は歩兵ではありませんか」
寛二が入営を控える自身を意識して、駒沢のことを階級で呼んだ。彼はその呼ばれ方に遠慮するように手を振ると、些か冷めた声色で次の言葉を発した。
「軍馬補充部は大型犬補充の任も担っています。それに、大型軍犬は騎兵と歩兵の間で管轄が曖昧だ。一昔の戦車と同じようにですね。今のところ補充は歩兵に任じられている。どうでしょう池部さん、シロコを軍務に就かせては」
シロコの耳がぴんと立った。誰しも長い無言に陥る中で、彼女は変わらぬ表情のまま風に耳をそばだてていた。
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