神犬の兵士

森戸喜七

第1話 神犬

「火ィ足してこんかい。頃合いじゃろが」


 祖父はぶっきらぼうに言った。寛二かんじは聞こえないふりをして無視していたが祖父は見逃さず「寛二!」と一喝。彼は肩をすくめて立ち上がった。


「お前、火鉢焚いとる間はなるたけ御犬様の傍におれよ」

「火の心配?かしこいから大丈夫だよ」

「馬鹿!」


 煙管に突き刺した短い紙巻煙草から灰が落ちた。祖父は足袋に落ちた灰を手で払い、火を消した煙草の吸殻を襤褸ぼろに包んだ。


「御犬様はお前なんぞよりよっぽど賢いわい。火が弱くなって寒い思いをされたら一大事やが」

「ふーん」


 寛二は羽織ったどてらの紐結びなおし、わざわざ雪靴履いて外に出た。三月になったというのに、雪かきしたばかりの庭には新たな雪が数センチ積り、吐く溜息が白く身体に纏った。

 はるか先の畦道を国防色が歩いていた。ゆっくりと進むカーキ軍服の中に軍帽の赤帯だけがやけに目立った。


「駒沢ンの兄ちゃん、帰ってきたんだ」


 ぽつり呟き、大して親しくもない彼にはもう目もくれなかった。

 祖父曰く「御犬様」の離れは、庭の隅の小さな土蔵にあった。豪農でも土地持ちでもない寛二の家に土蔵があるのは、ひとえに御犬様のためであった。土蔵の隙間から暖かな空気が漏れている。戸に手を掛けるとかじかんだ指が溶かされた。


「無礼であろう、毛繕いしている最中、女子おなごの部屋に入るなぞ」


 凛とした声、寛二の頭を反響した。黙って戸を開けると白銀が目に眩しく、暖気が黄色く長毛に纏っていた。


「シロコ、火はどう?」


 シロコと呼ばれ、白銀の塊が顔を上げた。は毛を丁寧に舐めていた舌をしまい、うん、と結んだ口許をゆったり開いた。


「苦しゅうないぞ、でも、もうちと火を足してくれ」

「犬のくせに。寒がり」

「わらわはただの犬ではない、神に仕えし神犬であるぞ。何度も言っておろう、少しはヒトが混じっておるのじゃ」

「はいはい」


 寛二はべえと舌を出して、火箸で静かに割れる炭を突いた。


 昭和十一年、陸軍青年将校の叛乱から一週間が過ぎようとしていた。十四歳になる池部いけべ寛二は、神犬と自称する馬の如く巨軀を持つ柴犬型山岳犬シロコを隣に、火鉢に手をかざした。

 寛二の祖父が少年の頃は、山岳犬というのは大層珍しい存在であったらしい。だから地域によっては神格化され、飢饉においても一匹も食せられなかったといわれる。寛二の村も「神犬」信仰を持つ地域で、祖父の言うように御犬様と大切にされていた。ただの小作農であった池部家にシロコがいるのは、明治維新の直後不意に池部家に現れ居ついたのだという。犬としては凄まじい長寿だった。その後、近代日本で山岳犬の調査が進み、一定数が山々で生活していると判明した。都会では愛玩動物として可愛がられる山岳犬もいる。

 シロコとは寛二が勝手につけた名前で、本当は戒名みたく長々とした名前がある。寛二はシロコの本名を詳らかにしない。彼がシロコと話せるようになったのはいつだったか。木登りして遊ぶ寛二は足を滑らして落ち、シロコの背に着地した。


わらしよ、無理するでない」


 老人のような物言いだが、若く溌剌とした声だった。いくらカミサマとはいえ犬と話せるなんておかしく、他の誰にもこのことは話していない。一番シロコを崇め奉る祖父にさえ。


「誰か通ったようだが」


 シロコは首をくいと伸ばし目を閉じた。首をかいてくれという合図だった。寛二はどてらの紐を解いて脱ぎ、面倒くさそうにシロコににじり寄った。柔らかな毛の中に手を入れると少しくすぐったく、心地よい。


「駒沢ンとこの兄ちゃんだよ。帰ってきたらしい」

「確か兵隊に行っておったな」

「兵隊じゃないよ、伍長。下士志願して満洲に行ってたんだ」

「あんな寒いとこまで、御国のためにご苦労なことよ」

「行ったことあるの?」

「わらわの三番目の夫かの、北の果て、支那服を着た人々に見送られてこの国に渡ったと言っておった。その夫から聞いたのじゃ」

「変なの、犬が海渡ってくるなんて」

「寛二も兵隊に行くのであろう」

「言ったじゃないか、幼年学校がダメだったからおとなしく中学行けって。貧乏でも中学行かせられるだけでもありがたく思えって」

「そうだったかの」

「シロコ、おばあちゃんだから物忘れ多いんだ」

「なにを!この姿じゃ審美眼のないお前にはわからぬかも知れぬが、見てみい、ほれ!」


 シロコの身体が光り輝いた。手から毛の感触が消え、幻惑された視界が戻ると冷たく細い柔肌の手触り、もう一つの秘密だった。


「こんなにもわらわは若いのじゃ。恐れ入ったか」

「し、知ってるよ・・・」


 得意げな笑み、少女が現れた。白色が基調の浴衣のような着物、本式の着付けという視点からは怪しかったが、美しく大きな瞳、通った鼻筋、薄く紅差す頬、桃色の唇を燃えるような赤い舌で舐め、寛二の顔に寄せた。べったり身体を密着させ長い脚で寛二の膝に乗っかる。彼は慌てて透き通る長い銀髪を手で弾き離れた。

 彼女は紅潮する寛二の頬を見逃さなかった。


「年頃よのう、寛二も。初めてこの姿を見た時のお前、覚えておるぞ。裏返る声で『おねえちゃん、だあれ?』」

「わ、わかったよ!」


 寛二より少しだけ年長、十七、八くらいの美しい様相。女体としてのシロコを見たのは随分前なのだが、全くその姿は変わっていない。

 

「言ったであろう、わらわは神の使いであると。神に仕えし者は歳なぞとらぬのじゃ」


 膝を崩し、指差して笑った。

 

「遅かったな」


 戻ると、祖父がラジオの電源を入れていた。祖父と同じく神犬崇拝の地主がくれた物で、シロコへ対面する面会券のような物。太った地主は時折来てはシロコに何やらいい加減な祝辞を献上していたが、彼女曰く、退屈であるということ。

 

「火を足してきたよ」


 寛二の言葉には耳を傾けず、座ってラジオを見上げていた。祖父は煙管に煙草を詰めマッチを擦った。


「御犬様も、ご奉公か」


 ラジオでは、ニュースアナウンサーが山岳犬による部隊の発足を報せていた。聞き流した寛二は寝っ転がり、漂う夕飯の香りに目を細めた。

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