第4話

 住み慣れ始めたアパートに帰って来ると、今日一日の疲れがどっとやって来た。

 夕飯は何を食べようか迷って、そういえば手持ち金額は以前そのままだったことを思い出した。仕方がなかったので乙立花さんから貰った茹で卵に塩をかけて二つほど食べた。

 それだけでお腹がいっぱいになってしまったので、まだ陽は昇っていたけれども、寝てしまうことにした。押し入れから布団を取り出して潜り込む。

 体操座りのまま押し入れの中で一夜を明けてしまったために、背骨が痛んだけれど湿布は持っていない。一日経てば痛みも治まるだろうと踏んで私は無視を決めた。

 一、二、三。夕陽がとろけて天井に影を作り、瞼の中に夜が来た。


  ・

  ・


 とん、とん、と戸を叩く音が聞こえた。周囲に配慮された控えめなノックだ。

 しかし感覚的にはもう夜も更けた頃で変だと思った。酔っぱらったサラリーマンが部屋を間違った訳じゃなさそうだ。テレビの受信料の集金ならそもお門違いだ。私の家にテレビはないのだから。

 いろいろな可能性を考えて、私には関係がなさそうだと思い、このまま寝てしまおうと考えた。

「青島」

 意識が沈みかけたその時、私は聞き慣れた声に布団から起き上がった。寝惚けた頭で声が聞こえた戸を眺めていると、「青島いないのか?」と戸がまた数度叩かれる。

 ふらふらしながら戸の前に立ち、「玉置くんですか」と尋ねる。

「ああ」

 私は訝しんだ。彼が夫人の元へ帰ったのはつい何時間か前のことだ。ともあれ戸の向こうにいる相手が酔っ払いじゃないことが分かり、私は鍵を開けて戸を開いた。

「やあ」と、玉置くんは手を挙げた。

「どうも……、というかこんな時間にどうしたんですか」

「青島と別れただろう? あの後、しばらくして思い出したんだよ」

「思い出したって」

「俺が何者か、さ。それできみには世話になったし、連絡をする約束もしていたからな」

「はあ」

「青島、すこし歩かないか」

「どうしてですか」

 首を捻って見せると玉置くんは肩を竦めた。

「神秘的な男の記憶が戻ったんだ。ロマンティックに決めたいじゃないか」

「その要素は別のところで使って頂いた方がいいと思うんですけど……、ちょっと待ってて下さい」

「ああ」

 私はパーカーを一枚羽織り、スニーカーを履いて外に出た。鍵を閉めてポケットに収める。

「で、どこまで行くんですか?」

 玉置くんはにやりと笑う。

「海だ、青島」


  ・

  ・


 玉置くんの誘いに乗り、海沿いまで歩いて来た。深夜のせいか、周囲に人気はなく、また道路を走る車もほとんどいなかった。この時間帯に外に出た試しがなくて、いつもが分からない。

 歩道を歩き続けると潮風が吹いて来た。海が近い。

「この辺でいいか」という呟きに歩を止める。

 さああ、と海が引いては、満ちるを繰り返す音が辺りに流れている。

 玉置くんは潮風を背に受けながらにこりと微笑む。

「さて、青島。八時間と少しぶりだな」

「そう経っていませんよ」

「大丈夫だ、もう少しで永遠の別れになる」

 独特な言い回しに違和感を覚えながらも、昼間に夫人のところで核心を持てなかった部分を聞いてみる。

「結局のところ、玉置くんは夫人の探し人だったんですか?」

「ああ、それは間違いない。俺は彼女が探していた青年だった」

「……、だった?」

 自分のことの筈なのに、他人事だ。

「青島、きみの疑問はもっともだ。俺が何者か、どうして記憶喪失になったのか。きみが知りたいのは、この二つだろう?」

「そう、ですけど……」

 今、私の目の前にいる玉置くんは玉置くんなのか。いいや、違うか。記憶を取り戻したのなら彼はもう”玉置”くんではない。誰かだ。

「宜しい。では、きみにも分かるよう噛み砕いて説明させて貰おう。端的に言えば、俺はきみの兄さん――環くんが信仰していた神さまとやらと似て、非なる存在だ」

「え?」

「意外か?」

 足に力が入らずに、一歩また一歩と後ろに足が後退する。

「意外とか、そういう問題じゃないですよ。玉置くんはその、つまり……」

「俺は人間じゃない、ということだ」

 唖然とする。

「そんな、エイリアンみたいに人の皮を被っているとでもいうんですか?」

「いいや、これはきみと同じようになっている。ただそうだな……、きみと話している玉置はラジコンなんだよ」

「ラジコン?」

「分かりやすく言えば、だ。リモコンを持つ本体はまた別のところ、きみが想像もしないような場所にいる」

「……っ、何で人の形なんか」

「その方がやり易いからさ」

「やり易い?」

「対話しやすいとも言うべきかな。今、きみとこうして話すことは容易いが、本体ではまともに対話が出来ない」

 私は混乱する頭で考えに考えた問いを投げた。

「玉置くんは、怪物なんですか」

 彼は意表を突かれたというように目を見開いたかと思うと、背中をくの字に折り曲げ、手を叩いた。

「きみは、やっぱり面白い奴だ。青島」

「じゃあ」と期待を持ったのもつかの間だ。

「ああ、きみの推理は正しい。きみがいうところの怪物にも十分俺は当てはまるだろうよ」

 言葉を失った。

「しかし怪物、怪物か。はは、きみは俺を見たら卒倒するだろうな。きみたちが想像する怪物にふさわしい見目だから」

「……、でも環兄さんが信仰している神さまと似てるってことは、玉置くんも神さまじゃないんですか」

「かしずかなくてはいけない相手、という意味では同じだな。例え化け物のような見た目であっても」

 ますます訳が分からなくなった。けれど最大の謎はそこじゃない。どうして怪物のような彼がここにいるのか、だ。恐る恐る玉置くんを見ると、彼は目だけで笑った。

「さあ、青島。考えて貰いたい。これまでを踏まえて、きみは俺がどうして記憶喪失になったと思う?」

「それは」

 何かしら脳にダメージがあったり、精神に傷を負ったから……、じゃない。そうじゃない。

 それは人間の場合にのみ起こり得ることなんじゃないだろうか。見た目は人間であっても、自らを怪物だと宣言する彼にも同じようなことが起こり得るんだろうか。……いいや、きっとそれはあり得ない気がする。

 だとしても、疑問は残る。どうして怪物が記憶喪失を起こしたのか、だ。

 玉置くんは諸手を挙げて、「説明はしてもいい。だが、覚悟もして貰わなくてはいけない」と前置いた。

「いったい何の?」

「知る覚悟だ」

 玉置くんは、怪物とうそぶく彼は、試すように嗤う。私は怪物の笑みを見返しながら、「知りたい」と返した。

「宜しい、では教えよう。俺が記憶を失った理由は単純だ。もうすぐ終末がやって来る。俺はそれを味わいに来た。いわばバカンスさ」

「しゅうまつ……?」

「そうとも。青島、きみには朗報だ。この世界は間もなく終末を迎えるよ」

「ま、待って。待って下さい、玉置くんがいうしゅうまつって」

「読んで字のごとく、終わりのことだよ青島」

「そんな、だってどこにも」

「兆候はなかった? いいや、あったよ」

「どこに!?」

 自分のものではないような荒げた声が喉から出る。

「前々からさ。あらゆるところで終末を迎えるべく儀式が行われていた。が、あえて例を挙げるなら……、そうだな。神依島の崩落もそうだ」

「神依島って、あの?」

「正確に言えばあれは儀式じゃあないんだが、まあ終わりの合図の一つだよ。その気があるかは別としてね。抗ってくれても構わないが、あまりお勧めは出来ないな」

「……、止めてはくれないんですか」

 玉置くんはきょとんとした顔を私に向ける。

「きみは殺さないでくれ、と頼む家畜の声を聞くのか?」

 訳が分からない。違う。分かるけれど、分かりたくないことが矢のように降って来る。

「……っ、あなたたちは私たちを食べて生きる訳じゃないでしょう」

「ははっ、それもそうだな。結局は今の俺と同じだよ。バカンスだ、バカンスを楽しみたいんだよ。青島、きみだってリラックスしているところを邪魔されたら怒るだろう? それと同じことだ。とは言っても、俺は楽しみ方が多少違う」

「どういう……?」

「俺はきみらと同じ席で突然、終わりを突き付けられたきみたちが覚える絶望を同じように感じたかった。そのためには俺が持つ記憶は不要だったから一時的にブラックボックス化したんだ。終末のその瞬間までそれは開かない。正しい方法で開けられなければ」

「正しい方法?」

「青島は不可思議に思わなかったのか? どうして人を探させておきながら、顔写真の一枚もないのかと」

「それは思いましたけど……、写真はないし、描いた絵も真っ白だったって」

「なんだ、絵のことは知っていたのか。それなら話は早い。その絵は実は真っ白じゃなかった、といったらどうだ?」

「……、どういう意味ですか」

「その絵には、俺が描かれている。俺ではない俺が。だが、常人の目にはけして何も見えない。絵描きはいい腕を持っていたからこそ正確無比に俺を描いてしまったんだよ。正気ではいられない。だから狂って絵を描いた。ふつうの人間が見ればそこには何もないが、俺のようなやつが見れば俺を見れる。利用しない手はないじゃないか」

「つまり……、玉置くんはその絵を、自分を見て記憶を取り戻したということですか」

「その通りだ、青島。合格点をやろう。なにちょうどあの女のところにも飽きていた頃だったんだ。それに記憶喪失だぞ。こうもあっさりと記憶が取り戻せるとは思わないじゃないか」

「それは警察を過小評価しすぎじゃないんですか」

「いいや、この評価は間違っていない。なにせ俺は自分のこと以外なら分かるんだ。おまけに顔もいい。わざわざ記憶を取り戻す手助けなんてしてやろうと思わないやつの方が多いんじゃないか?」

 私は答えない。そうすると玉置くんは困ったように両肩を竦めておどける。

「きみと出会ったことが俺にとっての不幸だった、青島」

「……っ」

「今回のことで俺が予想しえなかったことといえば、きみとその能力だ。狂いなく正確に探し物を探し当ててしまう。その能力は厄介極まりない。でもきみには世話になったしな」

 玉置くんは空いていた距離を詰め、私の前に立った。

「なにか褒美をやってもいい。何が欲しい、青島? 俺はそれなりに出来るぞ」

 なんて魅惑的な問いかけなのか。けれど、それとは対照的にどうして私の心はこうも冷え冷えとしているのか。

「……、なにも欲しくはありません。昔に戻ったところで、私が環兄さんを死に追いやったことは変わらないから」

「そうか? じゃあ俺直々にきみに合う罰を与えるとしよう」

 そっ、と玉置くんのてのひらが私の額に触れる。瞬間、頭が真っ白になる。「あれ」と声を出したのもつかの間。がががが、と凄まじい勢いで何かが入って来る。何かの正体は分からない。ただ一瞬で入っては頭に定着をし、姿を消す。言葉にすればそれだけのことが立っていることをさせず、地面に倒れ込むほどの痛みを与えた。

「あ、あ――っ!」

 どんな痛みとも比べられない。もはや痛みという領域にいるのかも分からない。言いようがない苦しみを味わった。止めて。助けて。嫌だ。泣きごとを繰り返した気がする。なんでもする。なんでも、とも。

 滾々と湧く恐怖に体全部が蝕まれ、脳が考えることを放棄し、あと少しで私がぷちり、と潰れようとした。

「青島、起きろ」

 はっとした。目を覚ますと、私は道路に寝転がっていた。冷たい潮風が不気味なほど生温い。額に手をやると、ちくりと痛んだ。

「今のは」

「素養だ、魔術の素養」

「ま、じゅつ?」

「きみたち風に言いかえると、オカルトというんだったか?」

「なんでそんなものを」

「なんで? 愚問だな、青島」

 玉置くんはくるくると回る。いいや、踊っているのか。

「きみはいいやつだ。だが、罰を欲しがっている。いいか、青島。それじゃあ面白くないんだ」

「面白く、って」

「面白くないんだよ、青島。きみが漫然と予定されていた終末を罰のように受け取るのは。だってそれは救済じゃないか。それじゃあだめなんだよ、きみにはね」

 玉置くんの指が私の額を小突いた。

「終末はもうそこまで来ている。どうこうすることは不可能に等しい上に、このことを知っているのはきみと終末の発端となる者たちの信徒くらいだろうな。つまり、ほかの連中はことごとく死ぬ直前になって、自分が死ぬことを理解しなくてはいけない。絶望が目の前にぬ、っと現れるということだ。明日の予定もあっただろう若人も、老い先短い人生の余暇を楽しんでいた老人すらもみな等しく死に絶える。では、きみはどういう選択を取るべきだろうな?」

 懇切丁寧な説明に私は嫌でも分かった。玉置くんは、いいやこの得体の知れない怪物は言っているのだ。

 私自身が死ぬために何もせず終末を受け入れるか、それとも何も知らない他人のために来たる終末を避けるため動くかどうか、と。

「悩んでいるな、青島。とても悩んでいる」

「よくも抜け抜けと……っ!」

「そうかっかするな。仕方がないだろう。きみは図らずも俺を目覚めさせてしまった。だからこそこういう事態になっているんだ」

「私はっ、あなたのおもちゃじゃない!」

「そうだろうとも、なら終末を待てばいい。待って、きみも同じく死ねばいい。きみが非情になれるなら、だが」

「……、どういうことですか」

「俺はなにかおかしなことを聞いたか? だってきみはいいやつだろう。他人を放ってはおけない。かといって、きみ自身は自ら死を選ぶことも出来ない」

「……、そんなことはっ!」

「あるんだよ、青島。きみ、生きてるじゃないか。死んでないじゃないか。終末が来なければ、また生きるんだろう。寿命が来るまで。悲しいことに青島、きみは生者なんだ。いいやつだが、ほかの誰よりも非情に無意識に生きることを選択してしまっている」

 悔しかった。けど何も言い返せなかった。兄さんに謝りたい。そのためならとも口では言えて来た。だけど死を選び取ることはこの十年以上出来ずにいた。

 それこそが結果だ。結果で、私自身が生きたがっている何よりの証拠だった。

「さあ、どうする? 青島」

 潮風がごうと轟き、吹き抜けて行く。

「……、私は」

 ぐるぐると目が回る。舌の根っこがつっかえて上手く言葉が出てこずにいる。どうしよう。どうするべきなんだろう。

 終末を迎える? 環兄さんが許してくれるかもしれない。でも私が行く場所が兄さんと同じ場所であるかは分からない。そこに兄さんがいるのかも分からない。

 終末を迎えないとしても防ぐ方法はおろか、回避する方法も分からない。おまけに私一人だけが逃げられても意味がない。生きている人すべてを助けなくてはいけない。

 無茶だ。そんなの。ヒーローだって匙を投げるに違いない。

 だけど、……だけど、どうすればいいんだろう。

 苦悩する頭に押し殺したような笑い声が届く。顔を上げると、玉置くんがくつくつと笑っている。楽しいんだ、彼は。彼の本体は。人が悩み、足掻くその様が滑稽であれば滑稽であるほどに。

 玉置くんは私の視線に気が付き、「答えは出たか」と尋ねる。

「……っ、出る訳がないでしょう」

「そうだろうな、きみはそうだろうとも。ならば、時間が必要だ。だが青島、時はそう待ってはくれないぞ。分かっているとは思うけれどな」

 彼は踵を返そうとし、「ああ」と思い出したように私を見て、歌劇のように手を伸ばした。

 何だろうと思っていると、彼の指先から植物の芽が生えた。「えっ」と、驚く声を飲む間にもそれは成長を続け、やがて見たこともない雪解けのような白を称えた花を咲かせた。

「環くんに」

「兄さんに?」

 私はそろそろと花を受け取った。持っているという感覚がほとんどないほど軽い。渡された花をまじまじ観察していると、茎や葉、花弁のいたるところに切れ込みが入る。ぎょっとする私を他所に、切れ込みは瞼を開くように目玉を晒した。

 肩が跳ね、うっかり花を落としそうになる。それを玉置くんが私の手ごと掴み、強く握らせた。その手もまた花と同じように数多の切れ込みが入り、目がぎょろぎょろと動いていた。いや、それだけじゃない。手が形を失いつつあった。どろり、とスライムのように溶け、その中に埋もれるように目玉がある。

 無数の目に、私は玉置兄さんの物言わぬ目を重ねてしまった。

 瞬間、喉が絶叫を奏でようとした。が、それは他ならぬ怪物の手によって塞がれた。

「落ち着け、というのは難しい注文か。なら聞け、青島。いいことを教えてやる。思い出したからこそきみに教えてやれることだ」

 ふう、ふう、と熱っぽい息が溢れる。

「環くんが首を吊って死んだのは、きみの読み通り儀式が失敗したことに一因する。彼は想定しなかったのだろう。目の前に現れる神の仇敵が見目麗しい、いいや人の目で見て心で持って受け入れられる存在だと思っていた。それは大間違いだ。俺たちを見る覚悟があるものは、心を壊す覚悟を持ってして、それでもなお発言をしたいやつだけだ。こちらが聞くとも限らないがな。ともかく環くんは読み違えた。故に、心を壊した。しかし体をいいように使われる前に自ら死を選んだところを見るに、賢いとも言えるか」

 玉置くんはそう零し、私の口を塞いでいたてのひらで今度は両目を塞いだ。静かな暗闇が支配するその狭い空間に一つだけ目が現れた。

「っぁ、……!」

「恐れよ、しかして括目せよ。そして思い出せ、きみが最初に出会った俺が如何にあったかを。見返りはきみの命の中で出来ることだ。俺はきみの一挙一動に注目している。些細な選択にも運命は付きまとい、やがて大局へと導く。忘れるな、青島。きみはいいやつだ。故に、それを贈った」

 目は閉じられ、そっと手が離れて行く。潮風が無遠慮に顔を嬲った。

「その贈り物の中からは俺に関する記載をすべて消している。俺は限りないが、玉置はもういなくなる。そうそう探し出せるとは思っていないが、きみの能力を信頼してのことだ」

「……、冗談だとは言ってくれないんですね」

「喜劇を望むならそういう風に締めくくろう」

 玉置くんの言葉に顔を上げると、彼は両手を大きく広げ、お辞儀をした。その後ろ背には輝く銀河がある。きらきらと輝き、不可思議な音色が零れる銀河だ。

 玉置くんはおかしな背景に片足を入れながら、片手で電話のハンドサインを作ってうっそりと微笑む。

「終末が終わったら呼んでくれ、ドライブにでも連れて行くから」

 じゃあ、よい終末を。

 そう言い残して、玉置くんは銀河に消えた。


  ・

  ・


 朝、目が覚めると私は墓場の中にいた。

 一瞬だけ幽霊になったのかな、と思った。が、「ああお嬢さん、起きましたか」と作務衣姿のお坊さんが顔を覗き込んだので、そうじゃないと分かった。

 がっかりしたというのは嘘じゃない。ただそうでなくて良かったとも思った。

「おはようございます……」

 ぼんやりした頭で挨拶を返すと、「はい、おはようございます」とお坊さんも頭を下げ、「そちらの仏様の縁者さんですか」という。

 私がもたれ掛かっていた墓の名前を見ると、青島家之墓と刻印されていた。

 ああ、そうだ。あの奇天烈な夜から逃げたくて、私は環兄さんが埋葬された寺の墓地までやって来たのだった。どうやって入ったんだっけ。無我夢中だったから、そこら辺の記憶をあんまり覚えていない。

「あの、勝手に入ってすみません」

「そうですね、二回目はしないで貰えると助かりますよ」

 お坊さんは優しく説いて、持っていた桶と柄杓を差し出した。

「仏様にどうぞ。寺の方の掃除をしていますので、帰る時にお返し下さい」

「……、ありがとうございます」

 お坊さんが去って行った後で、私は改めて兄さんが眠る墓を見た。

 朝日の光を受け、暮石の表面が艶やかに輝いている。お坊さんから渡された桶の水を柄杓で掬い、墓の上にかける。何回かけていいかが分からず、三回で止めた。

 しとどに濡れた墓には、何も手向けられていなかった。他の墓には小さな果物や花もあるし、線香も置いてある。それに何より綺麗に掃除されている。けど兄さんの墓はすこし汚れていた。

 申し訳なくなって、着ていたパーカーを脱いで墓の汚れを拭く。ごしごしと拭くとすこし汚れが取れたような気がする。ついでに墓の周りに生えた雑草も抜いた。

 少しばかり見栄えが良くなったところで、私は初めて環兄さんの墓に手を合わせた。

「ごめんね、環兄さん。ずっと来れなくて。兄さんは馬鹿だなって思うかもしれないけど、ずっと怒られると思っていたの。一生口を聞いて貰えないくらいかんかんに。馬鹿だよね。その通りになっちゃった」

 はは、と笑って、目から溢れる涙を拭う。

「私は馬鹿のままだよ。馬鹿のまま、訳の分からないものまで貰っちゃった。すごいんだよ、もうすぐ世界が終わっちゃうんだって。想像もつかない。どういう風に終わるのかな。隕石が降って来る、は古いか。苦しいかな、怖いかな。……、今から言っててもしょうがないか。……。兄さん、私ね性懲りもなく人の探し物してるんだよ。お父さんもお母さんもあれから赤の他人になって、お父さんはもう知らない人みたい。貧乏なんだよ、私。びっくりするくらい。アルバイトも出来なかった。だから犬みたいに、探し物して褒めて貰うんだ。それでおとといだったっけ……、人を探して欲しいって言われてちゃんと見つけられたの。変だったけど悪い人じゃなかった。いい人だと思ったよ、でも私の勘はあんまり当たらないからまた馬鹿を見た。世界を救うか、それとも知らない振りしてるか選べって。ただの貧乏学生だよ、私。そんなの、そんなのさ選べる訳がない」

 泣きごとを言っても墓は――、兄さんは答えない。当然だ、ここは生者の国だから。

 虚しさを味わいながら、私の頭は正しく玉置くんの話を理解し始めている。

 終末は来る。抗うのは勧めないと言った言葉はおそらく冗談じゃないだろう。けれど玉置くんは、いやあの得体の知れない化け物は人が終末がやって来たことで踊り狂う様のさらにその上を、と求めている。

 いやな予感しかしない。というよりは、さらに上質なものを求めているのは彼の性分によるものだろう。なら、結局のところ足掻いたところで最後に待ち構えているものは用意されたものをはるかに超える絶望だ。

 彼はそれを極上の肴として丸ごと平らげるのだろう。

 悪趣味だ。ひどく。瞼を伏せ、じゃあ私は何をするのかと問う。

 何も浮かばない。何も、何も。当然だ。今まで私はいろんなことを放棄して生きて来た。死ぬことも出来ず、かといってまっとうに生きることもせず、ぼんやりと生きて来た。だから大事な時に良い考えも浮かばない。

 いつも通り他人に答えを委ねる案もある。どちらに転んでも恨みっこなし。どうせ私は受け入れる。そう、私は。

「……、また来るね。環兄さん」

 パーカーのポケットに突っ込んでいた花を墓前に供える。何十年と生者でもあり、死者でもあるように振る舞わせてきた環兄さんの幻が完全に死者になった瞬間だった。



  ・

  ・


 結局のところ、玉置くんを見つけた報酬金はご破算になるのかな。

 アパートへ帰る途中に私はふとそのことを考えていた。お腹が空いていたからだ。駄目元で准教授に聞いてみようと思い、汚れたパーカーは腰に巻いて大学に足を運んだ。

 着いた時に、そういえば午前中に一コマ講義があったことも思い出したけれどもう遅かった。やむなしとD研へ向かい、部屋に入ると昨日と同じ席に八卷先輩が座っていた。

 扉を開けた音に反応して、先輩は顔をこちらに向け、「よぉ」と言う。

 先輩の目を見て、「こんにちは」と挨拶を返す。きょとんとした先輩に、「ナホミ准教授って、来てますか」と尋ねる。「あ、ああ。そっち」と先輩は隣の部屋を指差す。

 ありがとうございますとお礼を言って、隣の部屋の前に立ち、ノックする。

「青島です、ナホミ准教授はいらっしゃいますか」

 数秒遅れ、妙にすっきりした顔立ちの准教授その人が扉から顔を覗かせる。

「ああ、きみか。件の話だろう? 入りなさい」

「失礼します」

 教授と准教授が使っている部屋は物が散乱していて、落ち着かない。

「ええと……、ああ、これだこれだ」

 准教授は手帳の間から封筒を一枚取り、私に手渡した。封を開くと中身は小切手だった。桁は……、ゼロがいっぱいで瞬時にいくらと数え切れない。

「これは?」

「報酬金だよ」

「え……、でも額が大きすぎます」

「私に言われてもな。今朝がた、夫人の弁護人と名乗る人がこれともう一枚封筒を持って来たんだ。無事に探し人を見つけて貰えたほんの気持ちだから一切の遠慮は要らないと」

「けど、……」

 准教授は使い古した椅子に腰かけ、「貰っておきなさい。夫人はもう何も言えないだろうから」と含みのあることを言った。

「どういう意味ですか?」

「ついに気が触れてしまったらしくてね、入院をするそうだ」

 突然だ。たしかに昨日、玉置くんを連れて行った際もまともじゃなかったが、それにしては突飛すぎる。

「青島くん、そう沈まなくていい。彼女たちの場合、入院するといってもリゾートホテルのような病院で、この金額も夫人の総資産のほんの一角だ。痛くもないんだよ」

「そういうものですか」

「往々にしてそういうものだよ、金持ちというやつは。ああ、それから……弁護人がきみ宛に伝言を預かっていると」

「伝言、ですか」

「そう、なんと言っていたか……。猫っぽい名前で……、たま、……タマ」

「玉置ですか?」

「ああ、そうそう。きみの名前もミケ、と言っただろう。縁だなあと思っていたんだ」

 やっぱり猫みたいだと思われていたのか、と心の底で思いながら先を促す。

「La vie est belle」

 日本語じゃなかった。私は慌てて、何語ですかと返す。

「仏蘭西語だろう、意味はなんだったかな……。ま、きみも学生だから自分で調べなさい」

 准教授はメモ紙に『La vie est belle.』と記すと、「それでは」と部屋から追い出した。

 貰ったメモ紙と睨み合いをしていると、「青島」と声がかかる。八巻先輩が荷物を片付けているところだった。

「昼飯、食べに行くか? 今なら奢ってやるぞ」

「あ、私お金が入ったのでふつうに食べられます」

「大事な金だろ、取っとけ取っとけ」

 良い断り方が浮かばずに考えている間に、先輩は片付けを終えて廊下に出ようとしていた。お勘定の時に……、あれ小切手でどうやって現金に換えれば、いやそもそもこの桁はすぐに換えられるものなのか。

「置いてくぞー」

「ああ……、待って、待って下さい」

 ずんずんと廊下を進む先輩の後を私はメモを睨みながらちまちまと付いて行く。

「そういえば青島、玉置のやつは?」

「へ?」

「いや、だから玉置だよ。玉置。お前ら二人ともバイキングに連れて行くって言ったし、と思って聞いたんだけど」

「あ、……ええとバカンスに……、行っちゃったみたいです」

「はぁ!? バカンスぅ! どこに」

「なんか、いい島に?」

「嘘くせぇ……。てか、お前歩きながらなに見てるんだよ」

 先輩はひょい、と准教授が書き留めてくれたメモを覗き込み、「あのイケメン野郎、フランスを堪能してやがる」と怒った。

「八卷先輩、これ分かるんですか?」

「似合わないってか」

「いえ、そうは」

「冗談だ、焦んな。……で、意味だろ。玉置を頭に想像しろ」

「はい?」

「想像したら、こうだ。『人生は楽しい!』、ってワイン片手にほざいてるんだよ」

「……、人生は楽しい」

「くそ、あいつ今度会ったらシメてやる」

「あの、先輩」 

「今度は何だ」

 螺旋階段のせいか、声が反響して不機嫌に聞こえる。

「もし明日がなくなったら嫌ですよね?」

「はぁ? なんで急に明日がなくなるんだよ」

「神さまが決めたから……?」

「かーっ、青島。お前、人様の時間をもしもゲームに使うならもうちょい設定詰めとけ!」

「すみません」

「反省しろ、馬鹿。で、神さまが決めたから明日が終わりますって? 理不尽だな」

「ですよね」

「でもな、どうせ相手は知らんぷりっつうか。実際神さんなんているのか分からねえんだから、いやだいやだ言いながら受け入れるしかないんじゃねぇの」

「いいんですか、それで?」

「……、やけに食い下がるな」

「だってやりたいこととか、約束していたことも出来なくなるんですよ」

「それは困るけどな」

「だから……」

 八卷先輩の視線が刺さる。

「なんですか」

「青島は何になりたいんだよ」

「え?」

「お前は何か出来るの、ばばーんと解決出来るような何か」

「出来る、……かもしれないし、出来ないかもしれないです」

「ふーん」

 先輩は明後日の方を向いた。

「お前の好きにすればいいんじゃね。玉置の言葉を使う訳じゃねえけど、お前自身の人生なんだからどう使おうとお前の自由だよ。他人の世話なんて後だ、後。余裕が出来た時にじゃあ、ついでにくらいでいいんだよ」

「けど……、終わっちゃうんですよ」

「だーかーら、お前は別に神さまでもなんでもないだろうが。気張る必要なし、以上証明終了!」

 すたすたと階段を降りて行く先輩の背中を眺めていると、ぴたと先輩は足を止めた。

「青島」

「はい?」

「もしもがもしもじゃなくなるんだったら、その時は教えろよ」

「なにか予定が?」

 八卷先輩は私を指さす。

「告白しに行く」

「ああ……、それはビッグイベントですね」

 私がそう言うと、先輩は苦虫でも噛んだみたいな顔をした。

「どうかしました?」

「なんでもねーよ、行くぞ」

「はい」

 階段を一段降りる。先輩は折り返しで姿が見えなくなる。

 玉置くんが残した言葉を口にする。人生は楽しい。なら、私は――。

「約束守って貰いますよ、玉置くん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シュガー・エンド・バカンス ロセ @rose_kawata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ