鏡の向こう側の君へ

やたこうじ

鏡の向こう側の君へ

 今日、独り暮らしの割には少し多い荷物と、それに比べ少ない僕の思い出は、新しい引っ越し先に向かってトラックと一緒に運ばれていく。

 トラックの後ろ姿が近所にあるコンビニの向こう側の交差点を右折してリアウインカーが見えなくなるまで、僕はずっとその後を見守った。

 あの中にはあの鏡と、もう会えなくなった千春のことを思い出しながら最後の荷物をまとめるために部屋に戻る。


 ◇◇◇

 彼女と、千春と知り合ったのは桜の散り終わる、咲き方がどうとか、花見がどうとかと、うるさくニュースで言わなくなった頃。

 僕が通う大学の友人が持ってきた、ちょっと気の進まない合コンからがすべての始まりだった。そんな僕たちの出会い方を知らなかった人たちは「え、そうなの?」と意外そうに驚いていだものだった。


 僕たちのファーストコンタクトは、よくある居酒屋の長テーブルから。お互いの席は対角線の端と端、コンタクトという意味からも、初めましてというにも一番遠い距離から始まった。

 友人同士、初めて知り合った男女が周りがわいわいと盛り上がって行く中、僕たち2人は席を移動することもできず、その距離はずっと保たれたままその時間の大半を過ごしていた。


 それでその時は本当にそのまま終わってしまったのだ。


 僕は何とか話の輪に入ろうとするたびに見える、千春が誰かと笑っている横顔を僕は時折気になって見ていたくらいで、終わった後でも、なんとなく話してみたかったな、という程度でしかなかった。


 何週間か後の夏が始まる前の気持ちのいい風の吹く日に、あの時と同じメンバーで遊園地に行く事になる。

 次があるとは思っていなかった僕は集合場所に着いてみるまで、あの同じメンバーでそんな場所に向かうとは知らずにいた。

 友人曰く、一回会うだけじゃつまらないから、だそうだ。彼か、同じ幹事をした子を狙っている、などと後で聞いて、いつもはそんなにマメに動くやつじゃないのに、と納得したものだった。


 そして僕は彼女が、千春が他の女性達の少し後ろに立っているのを見て、何故か少し嬉しかったのを覚えている。

 その気持ちはアトラクションの席で、ランチのテーブルで、パレードの立ち見で、膨らんでいく。僕は自分の目が自然と彼女を追うがままに任せて、それとなく彼女との距離を確かめながら、少しずつ近づき、遠慮がちに少しずつ、話しかけていった。


 そして帰りの電車は向かいあって正面に座った。近いはずなのに、その間には色々な乗客がいる。目線も合わせられないほど人が邪魔をして近くて遠く感じる距離。

 電車に揺られる乗客の体の隙間から、彼女の横顔が、友達と話す笑顔が見え隠れする時にはもう、僕は彼女を好きになり始めていることに気づいてしまっていた。

 電車を降りるとき、僕は慌てて立ち上がり横に並ぶと、少しだけ彼女の袖を引っ張り、連絡先を交換して欲しいんだけど、と照れながら話しかける。少しびっくりしている千春の顔を相手に、僕は緊張しているのがバレないように必死に隠していた。


 それからは僕たち2人は、お互いにその距離をゆっくりだけど縮めていく。


 映画で。

 観終わった時に横を向くと、目を真っ赤にしながら泣くことを止められない千春を見て、僕は慌てながらも笑ってその顔を眺めた。


 七夕祭りで。

 風に揺られる色とりどりの短冊、七夕飾りを見つめて、千春は何度もつまづく。

 僕はそんな彼女をからかいながら、不自然にならないように手を繋ぎ支えようとして、盛大に転んで膝に怪我をしてしまう。


 そして花火大会で。

 急遽大雨で中止になってしまい、僕たちは残念な気持ちをお互いにぶつけながら、2人の最寄り駅が交差する駅までの、ふた駅分を話しながら歩く。


 僕のこと、君のこと。


 気がつけばお互い自然に手を握りあっていて、もう一度、じゃあ改めて、なんて言いながら僕は君への気持ちを伝えた。千春は少し戸惑いながら、僕の気持ちを受け入れてくれた。


 そして秋になり、僕の部屋にもよく遊びに来てくれるようになった頃。彼女は僕の部屋が殺風景すぎると言って、鏡を2枚買って来てくれた。

 玄関の姿見は貴方の身だしなみの為に、部屋の手鏡は私の為にと。「少しお揃い」と照れながら僕に言う君。


 そして僕はそれから毎日、姿見に向かって結んだネクタイを確認するようになった。千春の笑顔を思い出して、照れながら小さな声で「行ってきます」と外に出る。また夜になれば暗い部屋の明かりを点けて、部屋の手鏡の向こう側にいそうな千春を思い出し、朝と同じように小さな声で「ただいま」と言う毎日を繰り返す。


 また季節は過ぎ、雪の予報も外れ、雨が冷たいクリスマスイブの日。

 僕達は駅前で待ち合わせをして、以前に見つけた雑貨店で部屋に飾る写真立てを買った。

 いつかの夏にたまたま撮っていた2人並んだ写真を飾るために。

 そしてこれもまたいつものように、いつの日かの2人の思い出と重なるように前と同じふた駅分を歩く。この時間は僕達の関係が始まった時間と距離。そして本当に前と同じように「またね」と到着した駅で別れる。


 それが僕たちの最後の会話だった。

 僕たちの関係を終わらせたのは、千春の最寄り駅の前にある飲食店のガス爆発。


 次に会った時の千春の顔は、まるで寝ているかのように穏やかだが、もう目を覚ますことはない事だけは、その顔にある小さな痛々しい傷で知らされた。

 遺品の中には、きっと別れたあとにももう一度見直したのか、カバンの中で包装紙から出された写真立てと、細かく割れているガラスの向こう側で笑っている僕達の顔を見つける。


 僕はそれを棺に入れて、空に送ることにした。


 そしてもう一度季節が巡り、いつの日かと同じように桜が散る季節が過ぎるとき、僕は彼女がお気に入りだった玄関の姿見を、少しでも側に感じていたいという理由で部屋に飾ることにした。


 まだ、僕は彼女のことを、次の休みにまたあの駅で待ち合わせをする気持ちと変わらないくらい、そのまま残していた。


 そうやって過ごす毎日の、ほんのちょっとした夕食後のひととき。


 ふと、姿見の鏡の向こう側に、寂しそうに背中を向けて座っている千春がいた。

 その時から、僕を映すはずの姿見は僕ではなく、いつか見た千春の部屋と、うつむいたままの彼女を映し始めることになる。


 千春は、テレビに映るお笑いの番組なんてまるで気にしていないように、ずっと僕達の写真立ての前で座っていた。

 僕はそんな彼女に声をかけたり、鏡をコツコツと叩いたりしてみたけど、一向に振り向いてはくれない。それは近くにいって後ろから抱きしめたくなるほど、今にも倒れそうなほどの細い背中だった。


 かなり痩せてる。

 元気付けたい。


 でも、目の間にいるのに絶対に手が届かない遠い、とてもよく見える遠い距離。


 それからもその鏡は、まるで窓ガラス1枚向こう側の情景を映すように、彼女の生活を見せ続ける。

 僕は毎日帰ってきては、すぐに鏡を覗き千春がいることを確認すると、その距離が少しでも近くなるように、同じテレビ番組を観て、同じ食事を選び、同じ日に出かけた。

 そして時々寂しそうに僕達の写真を見続けて背中が丸くなる千春の背中を見守る。

 僕も一緒に彼女の背中越しに2人が並ぶ写真を見ながら、ここにいる、振り向いて、と囁き続けていた。


 しばらく経ち、またいつかと同じ気持ちのいい風の吹く日に、千春は僕の家にあるものと同じ手鏡を持ち出してきた。僕も急いで手にして、同時に見えるように、目が合いますようにと覗き込んだ。

 こうしてやっと、僕にとっては半年越しの、千春にとっては2年ぶりの再会となる。

 ぎこちない笑顔で鏡ごしに手を振る僕に、千春は目を大きく開いたかと思うと、そのまま気を失って倒れてしまった。

 ガラス一枚向こうの何もできない僕は、しばらく姿見から心配そうに覗くことしかできない。ほどなくして千春は気が付き、もう一度手鏡を覗く。


 ーーー僕はもう一度、今度は泣きながらぎこちない笑顔で手を振った。


 この不思議な出来事を、思いがけず彼女はすんなりと受け入れてくれた。鏡の向こう側の千春の世界では、僕が交通事故でいなくなったらしい事が後の説明で分かった。


 なにかのままに使われていたノートに筆談しながら泣き笑う千春を見て、つられて僕もまた泣いた。そしてそれから、彼女はどこかにしまっていたらしい僕のものと同じ姿見を、同じような場所に立てかけてくれた。

 その鏡は僕がいなくなった後に、僕の家族から貰ったらしいが、ひとり映る姿を見るのは辛かった、と後で、これも千春が見せたあの泣き笑いの顔で教えてくれた。


 ガラス1枚向こう側の世界。それは近づけは触れられそうなのに、どの世界のどの場所よりも遠い距離ではあったけど、またぎこちなく新しい2人の生活が始まった。


 朝、一緒に起きてお互いが目に入る位置で朝食を取り、見つめ合い微笑んだ。夜は一緒に同じテレビを観て、ビールを飲む。

 お互いの笑顔が見えれば、笑い声も聞こえそうだった。


 そして僕は提案する。


『こんしゅうまつ、えいが、いっしょにいこう』


 ガラス一枚、とはいえ鏡の向こう側だったから、文字は全部鏡写しのように逆さに映り込んでいる。

 この時の為に用意したスケッチブックに逆さ文字で書いて誘った。


 笑顔で頷く千春。

 2人とも同じタイミングで手鏡を見た。

 そして手鏡にまた映る2人の視線が合って、また笑う。


 ーーーそうだね、一緒に持って行こう。


 週末、同じ映画館に向かい、お互いに2人ぶんの席を取った。真ん中あたりの14のEと、14のF。

 手鏡で映せば、僕の隣に千春がいた。いつの日にも隣にいた、あの日を思い出して。


 僕達はお互いがいなかった時間をやり直すかのように、新しく違う色で思い出のキャンパスを塗りつぶすかのように、2人の生活をもう一度重ね始める。


 七夕祭り。

 そして花火大会。

 この日はあの時と違って雲ひとつない星空夜空で、大きな花火の轟音と歓声が聞こえるのに、僕たちはお互い手鏡の向こう側ばかりを見ていた。


 だけどその日ぐらいを境に、鏡の向こうの千春はなにか思いつめたように、その思いの強さに比例するように元気が無くなっていく。

 冬になり、2度目のクリスマスが近づく頃。千春は真剣な顔で、姿見の前で座って欲しいと僕に促した。彼女もまた、僕と同じように何冊目かのスケッチブックを持っている。

 僕たちの会話の積み重ね、思い出の品だ。


『どうしたの』


 僕もスケッチブックに慣れた手つきで逆さ文字を書き込んで、鏡越しに伝える。


『このままでは、いけないとおもう』


 その疑問に返す千春の力強い字と、目は赤いがまっすぐに僕を見る目は、否定し難いこれからを、きつく絞られるような痛みと、悲しみで満たした。


『ぼくはこのままで、いたい』


 僕は書き殴ったかのような大きな字を書いて、これから始まるだろう辛い時間を止めようと、文字に気持ちを乗せた。


『でも、これからもずっと、わたしたちは、はなせないしふれあえない』


 ほら、というように千春は僕との間の鏡に手を当てた。それを僕はその手をつなぎとめたい一心で手を合わせる。

 なのにすぐに彼女は手を離し、また何かを書き始める。


『このぬくもりはあなたじゃない。わたしのもの』


 すぐにスケッチブックを戻し、急いでまた書く。


『なにもとどいてないの、これからもとどかない』


 千春の顔には、絶対に縮まることのないガラス越しの距離に、強い覚悟を決めているようだった。


『おたがい、べつのせかいで、ちゃんとくらしている』


 またすぐに彼女が、スケッチブックをめくり、書き足す。泣き顔は隠さない。そして少し微笑んで。


『はじめは、わたしがおかしくなったのかと、おもったけど、ちがった』


 スケッチブックには、濡れて滲んだ文字の一部が見える。


『でも、あなたが、いきててよかった。べつのせかいでも、ほんとうに、うれしい』


 またページをめくり、書く。今度は少し長く書いている。


『わたしたちは、ふつうに、おわかれするの。それがあなたのためにも、きっと、わたしのためにも、いちばんのせんたく』


 そう書いた後、急いで書き足した。それは逆さ文字ではなかった。

 まるで本当なら、触れ合う距離から、僕の思いを振り切って走り去るように彼女の指が走る。


『らなよさ』


 千春は泣き顔を隠さず、僕を見つめながらまた少し笑顔を見せて、そのまま姿見を裏返した。僕の姿見は、その瞬間から、ただの鏡に戻ってしまった。


 その後も僕は毎日覗き込んだが、あの"おわかれ"の日から、姿見も手鏡も、悲しそうに見続ける僕の顔以外、なにも映すことはなかった。


 そして。


 僕はあの後また何年かして、千春とは別の魅力をもった女性と知り合う。その彼女はそんな僕をしっかりと受け止めてくれ、再び僕は2人で歩き始めるようになった。


 そして、僕はその彼女とこれからをずっと一緒に暮らす為に、引っ越しの準備をしていた。片付いて行く部屋と、長く気持ちを残していたその場所から、やっと僕は"おわかれ"できようになった。


 最後まで部屋にかけてあった、この姿見。そこには今も、あの日から変わることなく僕と、この部屋だけを映している。

 僕はずっと使わなくなって、クローゼットの棚に置いてあったスケッチブックを1枚切り、丁寧に逆さ文字を書いた。

 しばらく書いてなかったその文字はどこか違和感があってぎこちないものになる。


『しんぱいかけました。ぼくも、やっとしあわせになれそうです。さよなら』


 姿見にその紙を貼ったあと、あの手鏡と一緒にそっと箱に詰めた。


 ◇◇◇

「・・・そう、そうなの・・・よかった・・・本当に」

「おばあちゃん、何がよかったの?」


 部屋の片付けをする女性が優しい声でつぶやき、そしてそのそばにいた小学生くらいの女の子が話しかけてきた。


「ずっと、本当にずっとずっと、とても心配だった事があったの。とても近くにいたけど、とても遠くて、とても大切な人が、昔のおばあちゃんにね・・・あ、これは私と百華とのナイショよ。でもね・・・でも」


 次の言葉は涙で出なかった。


 その日の夜、その女性は大切にしまっていた姿見をもう一度取り出し、縁をなぞりながら愛おしく見つめ直した。

 その膝には、もう何十年も使っていなかった、既に黄ばんでしまったスケッチブック。

 彼女は最後の一枚に何かを書いて切り取り、しっかりと姿見に貼ると、また大切に元に戻した。

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