第5話
傘が嫌いだった。当時の僕にとって、傘は雨をしのぐための道具ではなく、あの男が、"躾”のために使う武器だった。思えば、今まで何度叩かれたんだろう。牛乳の入ったマグカップをこぼした時、靴をきちんと揃えなかった時、背筋を伸ばして正座していなかった時、上手く笑えなかった時、単に男の機嫌が悪い時——。理由は枚挙にいとまがなかった。傘全体で殴られることも、柄の部分で叩かれることも、先端で腹を突かれることもあった。男が素手で殴ったり、蹴ったりすることは、覚えている限り、なかったと思う。なぜだろう。わからない。わかりたくない。
——あれ、山田さん。子どもいたの——?
窓ガラスを叩く雨音を聞きながら、僕は懐中電灯の灯りを頼りに、その家に唯一あった子ども雑誌を読んでいた。文字は読めなかったから、僕は何度も何度もヒーローのスチール写真を眺めていた。
ふと、玄関に気配を感じた僕は懐中電灯を消して押し入れの道具箱の中に隠した。そして、すぐ玄関へ駆け寄って背筋を伸ばして正座した。それが、男が帰宅した時のルールだったからだ。機嫌が良い時は、殴られないし、褒めてくれた。それが嬉しかった。
「ったく、重いな。ほら、着いたって」
その日、玄関を開けたのは違う人間だった。あの男と同じ作業服を着ていながら、男よりも洗練された雰囲気を、子どもながらにも感じた。その男性に肩を抱かれながら、男はしたたかに酔っていたようだった。
「もうちょっと、山田さんってば。ほら、下ろすよ」
どすん、という音がして男の汗と酒の匂いが鼻をついた。と、電気がついた。
「うわっ!」
男性が僕に気づいて、声を上げた。
「あ、え。あれ、山田さん。子どもいたの?」
とっさのことに、僕は泣きそうになった。膝を握る指に力を込める。
「あ〜、子どもですか〜。いますよ〜」と男。
男性は舌打ちしたように思えた。本当はどうだったろう?
「なんだよ。なあ、坊主。山田……お父さん、酔っちゃってな。とりあえず、つれて来たんだけど……」と言いながら、男性は玄関にしゃがみこんで僕と視線を合わせた。
「てっきりひとりものだと思ったんだけどな。あ、俺な。木田っつうんだ。山じゃなくて木。似てるな、はは。ほら、な。名前、似てるな」
木田は何も言わない僕と寝転がっている男の扱いに困ったようで、下手な笑い声をあげた。
「つうか、坊主、一人か。飯食ったか?」
無言。男のゲップ。
「なんだよ、無口なんだな」
「こんなやつに飯なんて大丈夫っすよー、木田さん。自分で作るんですから」
「え、自分で?」
僕はまじまじと木田にみつめられた。そこで彼がどう感じたかはわからなかったが、彼の目は僕から部屋全体へゆっくりと移り、玄関の脇にある台所へ着地した。シンクには男が食べたコンビニ弁当の容器がひたすら積みあがっていた。
「おいおい……」と木田は呟くと、再び僕を見た。
「飯、食ったか」
僕は黙ったまま、動けなかった。
「お前、木田さんが聞いてんだろ!」と男が怒鳴った。反射的に頷く。何も食べてなかったが、頷いた。木田は男をちらっと見ると、笑顔で僕に聞いた。
「そっか。なに食った?」
沈黙。
「おい、お前、なに黙ってんだ」と怒鳴る男を木田は、まあまあといなした。
「腹へってねえか」
沈黙。でも、それが答えになったようだった。木田は、ゆっくり手を伸ばすと僕の左手首を掴んだ。
「ちょっと、見せてみろ」と、木田は僕のTシャツをめくり、男がつけた痣を凝視した。
「ちょちょ、なにしてんだよ!」
飛び起きた男が木田の腕を掴んだ。
「なにしてんだよ、って、そりゃあんただろ」
「関係ねえだろが!」
木田は僕から手を離すと、そのまま、男を殴りつけた。男は、頭を強かに壁へ打った。
「来い。一緒に警察いこう」
何も答えられずにいると、木田は僕の両脇に手を差し入れて抱き上げた。温かくて、大きい手だった。
「痛いか」
僕は首を横に振った。木田が笑顔を見せたのと、ほぼ同時に傘を握る男の姿が見えた――。
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