精神の回路・後編
僕は咄嗟に壁に身を隠し、聞く訳でもないのに思わず耳を傾けた。
「俺と付き合ってくれないか」
「ごめん」
「どうして? 俺じゃ駄目かな」
「ごめん。言えない、ごめんね」
彼女は逃げる様に階段を駆け上がっていってしまった。上靴の軽い足音が遠ざかってゆく。
陽の光で明るく照らされる踊り場に男子生徒はポツリと取り残された。彼女の行先を微動だにせず、ずっと見詰めている。僕はあたかも今通りかかったかの様に階段の前を過ぎ、その先にある生物準備室に入った。
ピタリとドアを閉めて一息つく。
あの男子生徒の告白を断ったのは僕が原因なのだろうか?
それにしてもタイミングが悪かった。
視線を左側に向けると、戸棚の中には試薬の入った容器や実験器具の予備などの備品が並び、その一番隅にホルマリン漬けの標本が収められている。脊椎、無脊椎、魚類。大半は学校の物だが、幾つかは僕の私物だ。
戸に嵌ったガラス越しに標本を見詰める。私物を一つ取り出し、瓶の表面を撫でる。僕はこの標本を眺めるのが好きだった。変化しない事への安心感。
かつての生命はその活動を止め、ホルムアルデヒドの水溶液の中で死後変化も止めていた。
「これは硬い」
随分と浸漬時間が経ち、硬くなり収縮もしている。
彼女の手の感触を思い出す。小さく柔らかな手。
他人の手とはこういうものだったか。その気付きで脳に新しい回路が出来た様だった。いや、眠った回路が再び活動を始めたのかもしれない。
僕は記憶を辿る。
他人の温もり。一番近い筈の両親の記憶さえ乏しい。あるのは野良猫を抱いた時の柔らかな温かさ。
その猫は電柱の陰で小さく鳴いていた。頼りない腕で抱きかかえても嫌がらない、少し弱っていた。僕はその猫を家に連れて帰りたかったが「ごめんな」と、薄汚れた身体を何度も撫でてやり元の場所に戻し、振り返らず走った。僕の家で飼うのは無理だったのだ。
僕は徐に首筋を掻いた。
幼い頃から生き物が好きだった。人付き合いというものがあまり得意ではなく、意識は自然と人間以外の生き物へ向いていった。暇さえあれば生き物を探しに出掛けた。彼等には僕の言葉は伝わらない。だがその分、それぞれの反応を返してくれるのが嬉しかった。
しかし、両親は何かと理由を付けて生き物の飼育を許してくれなかった。満たされないそ気持ちを紛らわす様に図書室で借りた図鑑を眺めていたら、次第とその容姿や生態の面白さにのめり込んでいった。
僕と両親の繋がりは常に一方向だったと思う。僕の言葉はあらゆる角度から遮られ、伝わる事はとても少なかった。大学へ進学し、生き物が好きなのを活かしながら安定した職、教師になる事については何も言わなかった。それなりに満足だったのだろう。
今思えば、安易な選択だったと思う。もっと選択肢があったんじゃないか、と。しかし、両親を納得させられるのはこれしか無いと思ってしまったのだ。
僕はあなた達の所有物じゃない。
でも、言えずにいた。
あの頃、僕はそんな気持ちに支配されていた。
トントントン。
不意にドアをノックする音が聞こえ、我に返った。
「先生、いますか?」
聞き覚えのある声だった。生物部の男子生徒だろう。
「いるよ、どうぞ」
「失礼します」
男子生徒は軽く頭を下げて入室する。僕は標本を戸棚に戻した。
「ちょっと今日の授業の内容で教えてもらいたい事があるんですけど」
「いいよ」
そう答え、あの時「いいよ」と答えた自分と重なる衝撃に少しだけ身体が震えた。眼鏡を中指で押し上げ、気付かれない様に一度深呼吸をする。
踊り場で彼女があの男子生徒を振った原因はきっと僕じゃない。これは直感だ。
「あの、ここなんですけど」
男子生徒は僕の机の上にノートを開く。丁寧にまとめられたページは淡い喜びを覚えさせてくれた。初めてだった。
そう、僕は一介の教師なのだ。
僕と彼女は、教師と生徒である。それは分かっている。
分かっているつもりだ。
週にたった一度、ほんの一時間。僅かな時間の積み重なりが、僕の中の何かをゆっくりと変えていった。
恋ではない。きっと愛でもない。
僕達は同じものを求めているのかもしれない。干渉の無い、非常に単純な安らぎを。
窓の外は雪がちらついていた。
彼女は相変わらず週に一度、生物準備室へやって来た。
この静かな部屋の中では僕達の間にぼんやりと、しかし奥底では明確な線引きが申し合わせたかの様に存在していた。
遠慮とか気遣いとかそんなものだと思う。それだからか、未だにお互い何処かよそよそしい。しかし、それも悪くはなかった。
それに彼女の様子を見ていると、何か事情を抱えている、そんな気がしてならなかった。落ち着いた素振りを見せながらも、何処かそわそわしている。それは日を追うごとに強くなっていた。そんな姿を間近で見ながらも僕は、本当にあるかどうか分からない事情について何も聞けずにいた。いずれにせよ、ただこうして見守るのみだった。
ふと彼女を見ると、少しして視線に気付いたのか僕の方を向き、何も言わずはにかむ様に笑った。それは僕も同じだった。授業中に見る視線とは違う温度と柔らかさ。それが、この室温とは別の温かさに繋がっているのだと思う。
時間はもうすぐ十七時を指そうとしていた。
「先生、そろそろ帰るね」
文庫本を鞄に仕舞うと、膝掛け代わりにしていたベージュのダッフルコートを羽織った。
「もうそんな時間か。雪も降っているし、気を付けて帰れよ」
僕はパソコンから顔を上げて振り返り、彼女の顔を見る。ボタンを留めてしまうといつもならそのまま退室するのに、僕の目の前に立ったまま微笑み続けていた。
「どうした?」
「先生、手を出して」
僕は首を傾げ、意味が分からないまま右手を差し出した。
「ひやっ! 冷たい」
彼女は僕の手を白い両手で包み込む様に握ると、肩を窄めて悲鳴に似た小さな声を上げた。
「そうかな」
「ほら」
彼女はそのまま自分のコートのポケットに僕の右手を突っ込んだ。
「あっ……何だ、妙に温かいな」
もこもことした感触と共に、指先からじんわりと温かくなってくる。
「これ、これ」
彼女はポケットから何やら取り出した。見れば茶色いクマの顔の形。頭のラインに沿ってチャックが付いていて、彼女は徐に開ける。平らなポーチのようだ。
中から出てきたのは見覚えのある白い四角。
「ぬいぐるみかと思ったらカイロ入れか、それ」
「そうそう」
彼女は笑う。
「はい、先生にあげる」
「いや、君が冷えてしまうだろう」
「私は大丈夫。ここに来る前に開けたから、もう少し持つと思う」
「そうか、ありがとう」
僕はカイロを受け取った。久し振りに触れる不織布独特の少しごわついた手触り。
「じゃあね、先生」
彼女は手を振りながら退室していった。
後ろ姿を見送りながら彼女の手の感触を反芻していた。
今年度最後の授業を終え、赤点補習の対象者が一人も出なかった事に安堵するのも束の間、慌ただしく新年度を迎えた。
三年に進級した筈の彼女の姿はやはり校内の何処にも無かった。彼女は生物準備室からいなくなり、校内からもいなくなった。
彼女の渡米は、手続きに絡むごく僅かな教職員しか知らなかった様だ。
週に一度のささやかなデート。いや、デートと呼べるか正直定かではなかったが、最後となる日もいつもと変わらない様子で文庫本を読み、帰っていった。
彼女がここからいなくなるとは思っていなかった。
そう、僕はすっかり忘れていたのだ、彼女との関係に終わりが来る事を。
彼女がいるあの部屋はいつしか華やかさであったり、穏やかさであったり、そんな明るい色彩に満たされていた。その所為か、彼女がいないと全てがひんやりと静まり、落ち着きとは違う暗さだった。まるで溶かした物質が壜の底で沈殿するかの様だった。いつもと変わらない部屋である筈なのに。
終業式の日、生物準備室に行くと、閉じたノートパソコンの上に桜色の小さな封筒が置いてあった。差出人の名前は無かったが、こんな僕に宛ててくれるのは彼女しかいない。
封を開けるとメッセージカードが一枚。彼女の文字で「先生、ありがとう」と一言書いてあった。彼女の声が聞こえる。何度も何度も繰り返し読むと、僕は丁寧に封筒へ戻し、白衣のポケットに仕舞った。
僕が当初思い描いた自然消滅に近い形で彼女との「付き合い」は終わった。もっと寂しさを含んだ悲しいものだと思っていた。だが、想像とは違う結末を迎えた。結局彼女は何故、僕を選んだのかは分からず仕舞いだったが、彼女の中に答えがあれば良い。全てこれで良いんだ。
「そう言えば、写真きたよ」
「えっ、見せて見せて」
今日の部活動が終わり、生物室の後ろの方で部員の女子生徒達が一人の携帯電話を寄ってたかって覗き込んでいた。誰かの口から出た彼女の名前が耳に入り、僕はその輪に近付いた。
「あの……良かったら、僕にも見せてくれないかな」
携帯電話の持ち主は少し怪訝そうな表情をしながらも差し出してくれた。僕は生物以外の話を部員達とあまりした事が無かった。意外だと思ったに違いない。僕も同感だ。
そこには多くの仲間と楽しげに肩を組むショートカットの少女が写っていた。一瞬誰か分からず声を掛けて失敗だったかと思ったが、よく見ればやはり彼女で間違いなかった。
「良い表情しているね、元気そうだ。ありがとう」
携帯電話を返し、僕は生物室を出た。
四月、初めての授業で見えた壜の中の彼女はさらさらと淡く消え去り、代わりにメッセージカードがそこに収まった。まるで時を閉じ込めるかの様に。
僕はただ、彼女が起こしてくれたあの回路が再び眠りにつかない様、大事に動かし続けるだけだ。
ずっと覚えている。あの大切な時間の事を。
ココロノカイロ/精神(こころ)の回路 @kanamezaki
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或る冬の日/@kanamezaki
★0 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
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