精神の回路・前編


あれは、暑い夏の日だった。

 彼女は僕の手を握り「温かい」と呟いた。

 外に出れば軽く眩暈がする程の暑い夏の日であったのに「温かい」とは。

 

◆      ◆


 四月。

 教室をぐるりと見渡した後、教卓の上に開いた名簿に視線を落とす。指先を滑らせ、一人の名前の所で止める。そしてもう一度、視線を上げる。


 新しく担当となった二十数人の生徒の中に一際目立つ生徒が窓側の席に着いていた。明るい色合いの髪を時折手で梳き、ゆっくりと瞬きをしながら前方を見詰める。


 あの娘か、僕は心中で呟いた。


 学校一の美少女と呼ばれる生徒。

 父親がアメリカ出身のハーフらしい、という話を何処かで耳にした事はあったが、然して興味も湧かず本人を認識した事は今迄無かった。


 名前を一人ずつ読み上げながら顔を確認する。

 また一から覚え直しか、と思うと少し憂鬱な気分になるがそれは今だけというのは分かっている。程度の差はあれ、毎年同じ事の繰り返しなのだ。


「それでは授業を始めます」


 特別話す事の無い僕は、自分の名前を告げただけで生徒達に背を向ける。

チョークを握り黒板と対峙すると、何故かあの女子生徒がホルマリン漬けの標本になった映像がぼんやりと浮かび、消えた。




 生徒達が夏服になった頃には名前と顔が一致し、指名するのに困らなくなっていた。いつの年も変わらず、前の席の生徒から順に指名するのだから反復練習と同じで当然覚えてくる。日付だとか何かの数字をなぞったり、思い付いたままに指名する事自体は否定しないが意味は理解出来無かった。その思いは学生時代からずっと続いている。


 今の所、飛び抜けて出来る生徒がいなければ、指導に困る生徒もいなかった。このまま季節は巡り、このクラスとも別れるものだと思っていた。


「先生」


 放課後の生物室。僕の目の前に彼女がいた。

 顧問を務める生物部の活動は丁度休みで他に生徒はいなかった。


 次の言葉を待つ僕と彼女の間に、バタバタと廊下から足音が割って入る。誰か来たのではないかと僕はドキリとした。しかしここの前を通っただけの様で、そのまま足音は遠ざかっていった。


「先生、私と付き合って」


 何の前置きも無くそう言われ、僕を見上げる彼女の顔を見た。恐れなど何も無い様な雰囲気を漂わせていた。まさに、無邪気な少女という言葉が似合う。

 色の白い端正な顔立ちに、無駄の無いスラリとした手足、言われてみれば確かに美しい生徒だった。僕が見る限りでは授業態度は問題無いし、テストの成績もクラス上位だった。


 何故、君の様な娘が僕なんかを選ぶのだろうか?

相手ならもっといるだろうに。


「いいよ」


 数度の瞬きの後、答えた。彼女は驚いた表情をして色々と確認する様に捲し立てていたが、全ての問いに頷いた。僕はその言葉に重要性は感じていなかった。


 授業の担当は今年だけ。授業が終わってしまえばこの「付き合う」という行為も憑き物が取れる様に終わる、そう思ったのだ。きっと彼女の一時的な衝動、もしくはただの気紛れに違いない。

 それ以上に、断るとしてもフォローの術を僕は持ち合わせていなかった。実のところ、自然消滅など消極的な期待を選択したに過ぎなかった。若い頃の似た記憶が脳裏を掠めていく。


 この事に気付かないであろう彼女は、僕から視線を外すと少し照れながら微笑んだ。そして一歩僕に近付くと、右手を両手で包む様に握った。

 僕ははっとした。忙しない蝉の声が止んだかと思えた。


「温かい」


 彼女は小さな声で言った。その声は嬉しそうな響きを含んでいた。




 夏休みが終わり、うだる様な暑さも幾分和らいできた。


 彼女から何処かへ遊びに誘われる事は一度も無かった。僕も声を掛けなかった。お互いに連絡先を知らないというのもあるが、もし知っていたとしても連絡を取り合ったかはあやしい。


生物準備室で仕事をしながら、カーテンの隙間から見える校門へと続く道をぼんやりと眺め、仲間と楽しそうに歩く彼女の姿を思い出していた。

 二人で、三人で、四人で。女子同士で腕を組みじゃれ合ったり、神妙な表情で話をしたり、男子生徒が彼女の鞄を持ち、寄り添っていたりするのが目に入った。


 この窓から彼女の姿が見える度、やはりこのぐらいの距離が適切ではないか、と思った。しかしそう思うと、心の奥の方で僅かに何かがざわつくのもまた事実だった。


あの夏の日以来、彼女に指一本触れていない。


 放課後、僕は授業の準備をしたり、テストの採点をしている間、その後ろで彼女は宿題をしたり、本を読んだりしていた。手元に必ず生物の教科書とノートを置いて。ここにいる事を弁解する為に置いているのだろうけども、部活動の無い日に僕の元へ来る人など滅多にいなかった。


 彼女は僕の手元を覗き込んだり、この先の授業内容やテストの事それらについて聞いてくる事は無かった。時々、他の教師について聞いてくる事があったが僕自身、彼等に興味が無い所為で答えられる事柄はほとんど無かった。彼女は怒るでもなく「そっか」と言うだけで、それ以上は聞いてこなかった。


連絡先もそうだが、付き合い始めたからといって個人的な情報だとか行動だとか詮索し合う事は無かった。

 必要ではなかった。少なくとも僕は要らなかった。彼女との関係はそういった種類のものじゃない。だから、それはそれで良かった。


 僕には何の面白味も無い。他の生物達を観察していた方が余程興味深いに違いない。そんな風に考える僕を余所に彼女は週に一度、放課後一時間程度の時間を過ごしにこの生物準備室へ現れた。


 生物部の部員を捉まえて部長宛の伝言を頼み終え生物準備室へ向かう途中、頭の上の方から声が聞こえて階段を見上げると、踊り場に男子生徒と彼女の姿が見えた。男子生徒は僕の生徒ではなかった。

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