ココロノカイロ・後編


唐突だった。慌てて辺りを見回す。大半の子達は部活へ行くか、下校していて誰もいなかった。足音も聞こえない。とりあえずアタシは胸を撫で下ろした。


「ごめん」


一呼吸おいて答えた。笑顔だった彼の表情が見るからに曇る。

確かに彼とは一年から同じクラスだけど、特別仲が良いわけじゃないし、あんまりしゃべったこともない。アタシの意識の中に彼はいなかった。それじゃ気持ちに応えられない。


「どうして? 俺じゃだめかな」


「ごめん。言えない、ごめんね」


そう、応えられない理由があるの。アタシは思わずテスト用紙を握り締め、階段を駆け上がった。走りながらこんな時になぜか、思い出したくない過去が一気に甦ってくる。


告白されて良いと思った男とは手当たり次第付き合った。そして振った。誰と付き合ってみても心の隅の方に言葉にできない違和感があった。みんな楽しくて優しかったけど、いつもどこか満たされずにいた。でも何が足りないのかアタシには分からなかった。


いつの日かその違和感の正体に気付いた時、恐怖に似た感情の波に襲われた。そして満たされることのなかった心の僅かな隙間は、ぽっかりと穴を空けたままアタシの中に残ってしまった。


誰もアタシのことを好きじゃなかった。誰もがアタシのことを好きな自分が好きだった。


それは付き合った男達だけじゃなくて、男も女も関係なくアタシに関わろうとする人がそうだった。もちろん全員がそうじゃなかったけど。

勉強をサポートしてくれたり、一緒に近くの駅まで帰ったり。でも、腕を組まなくても歩けるし、鞄だって自分で持てる。


両親だって例外じゃない。アタシに対する愛情はいつも過剰だ。

顔を合わせれば大袈裟にハグをしてくるパパ。やること全てを決めてしまうママ。イベントごとがあるとなったら、アタシは完全に着せ替え人形だった。

口を挟もうとすればすぐに止められた。笑顔が醜く歪んで見えた。幸せそうな二人の前で同じように嬉しそうな表情をするのが苦しくてたまらなかった。


干渉の連続。


アタシはアンタ達の所有物じゃない。

でも、誰にも言えなかった。


鞄を掴み、急いで昇降口に向かう。センセに見つからないように。




窓を見ると雪が降っていた。部屋は狭いからか、エアコンがよく効いていて暖かかった。

ノートパソコンのキーボードを叩く音と、時々廊下から誰かの声が聞こえるだけ。

ここにいることの言い訳用に生物の教科書とノートを手元に置いてみているけど、アタシがいる間、センセのところに来る人はいなかった。

それもあってか、アタシ達のことは全くウワサにならなかった。


あの階段での告白以来、教室にいるのが少し気まずくなっていた。その反動か、この生物準備室の居心地がいっそう良くなっていた。


文庫本を閉じてセンセの背中を眺める。こうやって眺められるのもあと少しと思うと切なくなる。思わず自分の手を強く握る。


アタシは言えずにいた。ここで三年生を迎えられないことを。


ここへ来始めた頃は教室で話題になった他の先生のことを聞いてみたりしたけど、だんだんアタシ達は話をしなくなった。話をするのが何だかもったいなく思えてきたから。


ゆっくりと流れる時間。じんわり暖まるこの部屋。淡いオレンジ色の液体に満たされるみたいだった。


ただ静かにそこにいる。

ただ優しく見守っている。

そんな存在がアタシは欲しかった。


近過ぎないこの距離感。そう思ったら少しだけ泣きそうになった。

腕時計を見るともうすぐ十七時になりそうだった。


「センセ、そろそろ帰るね」


文庫本を鞄にしまって、コートを羽織る。ベージュのダッフルコート。アタシのお気に入り。


「もうそんな時間か。雪も降っているし、気を付けて帰れよ」


センセは仕事の手を止めて振り返った。アタシはその顔をじっと見つめる。いつもすぐに帰っちゃうから不思議そうな表情をしている。変わらず小さいけどキレイな瞳。


「どうした?」


「センセ、手を出して」


センセは首を傾げながらも右手を出してくれた。アタシはその手を握る。あの時と同じように。


「ひやっ! 冷たい」


思わず叫び声が出てしまう。


「そうかな」


「ほら」


アタシはセンセの手をコートのポケットに突っ込んだ。


「あっ……何だ、妙に温かいな」


センセはあったかさの正体が分からないみたいで、ずっと首を傾げてる。


「これ、これ」


ポケットからクマの顔の形のポーチを取り出す。頭に沿って付いてるチャックを開けてセンセに見せる。中身はポケットカイロだ。


「ぬいぐるみかと思ったらカイロ入れか、それ」


「そうそう」


アタシは笑ってしまった。


「はい、センセにあげる」


「いや、君が冷えてしまうだろう」


「アタシは大丈夫。ここに来る前に開けたから、もう少し持つと思う」


「そうか、ありがとう」


センセはカイロを受け取った。感触を確かめるみたいに手を握ったり開いたりしている。


「じゃあね、センセ」


アタシはセンセに手を振りながら部屋を出た。センセはまだカイロを握っていた。

ピタリとドアを閉めて、寄りかかる。


アタシのカイロはセンセだから。ホント、心のカイロみたい。


そう思ったら、ちょっと可笑しくなった。




新生活を始めた土地には、この季節に見かけるはずの桜の木はどこにもなかった。分かっているけど寂しい気がする。


結局、センセに言えないままアメリカへ来てしまった。


終業式の日、誰よりも早く教室を出て職員室にセンセの姿を確認してからあの部屋へ急いで向かった。鍵が掛かってたらどうしようって思ったけど、掛かってなかった。

ノートパソコンの上に手紙をおいて、それをさよならの代わりにした。

ありがとう、一言だけ。気持ちを上手く言葉にできなくて、これが精一杯だった。思い出してまた泣いてしまう。


お互いの内側に触れることで何かが壊れてしまうんじゃないかってどこか独りで怯えていた気がする。ここでの大切な時間が気まずくなるのが嫌だった。

アタシはセンセが教える生徒の一人。そこまでの関係じゃなかったからと言っても、それはただの甘えだと思う。

言わなくてもきっと分かってくれる。それはない。伝えるべき時はちゃんと伝えないと。センセにしてしまったことを正直後悔してる。


でも、もう遅い。アタシはこれから先、同じことを繰り返さないと決めるだけだった。


携帯電話に収まる画像を見つめる。みんなで肩を組み、満面の笑みが画面いっぱいに表示されている。

国際色豊かな子達の中心にアタシがいる。新しい仲間、日本にいた時みたいに誰もアタシを珍しがらない。当たり前のようにアタシがここに存在している。


不安もあるけど、開放感の方が強かった。うっとうしかった髪もバッサリ切った。

パパもママもいない。しばらくはおじいちゃんとおばあちゃんと三人で暮らすことにした。そして、高校を卒業したらここも出る。勉強をして、場所を選ばず懸命に踊り続ける。そう決めた。


大丈夫。あの隙間は埋まり、小さくなった。きっとこのままなくなる。


友達に向けて画像を送信する。確かあの子は生物部だったはず。


センセに届くといいな。




ずっと覚えてる。あの大切な時間のことを。

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