ココロノカイロ/精神(こころ)の回路

@kanamezaki

ココロノカイロ・前編


そう、あれは暑い夏の日。

彼の手を握ったら「あったかい」と、思った。

あんな暑い夏の日だったのに「あったかい」なんて。


◆      ◆


四月。

物理と生物の二択で生物を選択したアタシは、お腹が空き始めた四限目、生物室にいた。

理系なら物理だろう、と言う子もいたけど、正直あんまり得意じゃなかった。それに、この二つを比べると生物の方が興味があった。


二年生になって初めての生物の授業。アタシの席は窓側。外はよく晴れていた。

何となく手持ち無沙汰でだいぶ伸びてしまった髪を触る。新学期が始まる前に美容院へ行けなかったのが何となく悔しい。ほぼ毎日通っているダンススタジオの自主練習に気を取られ過ぎた。

アタシに自分を表現して発散できる場所はスタジオしかなかった。


板書する音が静かな教室に響く。センセの名前。何処にでもいそうな名前だった。汚れはないけれど背中のシワが目立つ白衣に、シンプルな青いネクタイ、掛けている太い黒縁眼鏡のレンズは結構厚そうだった。

歳は若そうだけど、どこまでも特徴のない地味なセンセ。じっと観察していたら目が合った気がするけど、気のせいにしておく。


はいはい、学校一の美少女とウワサのアタシがここにいますよ。


なんて。美少女って言ったって、肌が一トーン白いとか地毛の色が金色寄りの茶色とか、見た目がほんのちょっと日本人と違うだけなのに。パパの方のおばあちゃんがヨーロッパの人で、多分その遺伝が強く出ただけの話だ。アタシには大袈裟としか思えなかった。


センセは教卓に広げた名簿を見ながら一人ずつ名前を読み上げ、クラスの子達の顔を確認していた。時々混じる気のない返事に反応することはなかった。

でも、見た目の割に聞き取りやすい声をしてるのはちょっと意外だった。


「それでは授業を始めます」


自分の名前を言っただけ、何の余談もしないでセンセは授業を始めた。

初授業なんだからもっと何か話せばいいのに。

それにしてもアタシ、何でこんなにセンセのこと見てるんだろう?




長袖のブラウスじゃ暑くなってきた頃、センセは名簿を見なくてもクラスの子達の名前を呼べるようになっていた。前の席から順番に当てるんだからそりゃ覚えるだろうけど。当てられる側としては事前準備ができるから助かる。不意打ちされるよりかはマシだ。とは言っても、その不意打ちもある程度は予測できるんだけど。


授業は相変わらず教科書に沿った生物の話だけで、余分なことは一言もしゃべらなかった。黒板の文字も見にくいことはないけど、特別見やすい訳でもなくホント普通。絵や図を描いても必要最低限の線のみってカンジだった。少しぐらい脱線した方が授業は面白いのに。こんなことなら物理を取った方が良かったかな、なんて思う。ユーモアのある先生みたいで、授業を受けてる子達は何だか楽しそうだった。


中間テストの採点ができたから、と教壇に立つとセンセは言った。

教卓の上に乗ったテスト用紙の束。一人ずつ名前を呼び、無言のまま返していく。他の先生だったら何か一言ぐらいあるのに。「よくできてるな」とか「もうちょっと頑張れよ」とか。けど、みんなの表情を見ていれば出来栄えは一目瞭然だった。


自分のテスト用紙をざっくり見返す。アタシはまあまあできてると思う。平均点を下回ったことは一度もなかった。

こっちが頼まなくてもその教科が得意な子がノートを見せてくれたり、教えてくれたり、ヤマをはったりしてくれるから一人で悶々と悩まずに済んでいた。もちろんありがたいんだけど、何だかなとは思う。

本当に好意でしてくれてるのかなって。疑うみたいだけど何か違うカンジがアタシの中をいつもざわつかせていた。


アタシと仲が良い自分が欲しいだけなんじゃないか。


それは多分、アタシの自意識過剰な部分がそう思わせているんだろうけど。モヤモヤとしたものがアタシの中に少しずつ降り積もるように溜まり続けていた。


淡々としたテスト返却は今回だけかと思ったら、期末テストも同じテンションだった。センセはこういうスタイルの人なんだ、と納得するしかなかった。

生徒に無関心。アタシにも全く興味を示さない。かと言ってアタシも、センセはその辺にいる男達と何も変わりがなかった。


なかったはずなんだけど、その無関心さになぜか惹かれた。

無関心じゃない。ただ他人に干渉しないだけなんだ、きっと。


授業中、誰かが内容について質問をするとセンセは丁寧に説明をして、最後に必ず理解できたか確認をした。もし分からなかったら言葉を変えてもう一度説明。質問をした子が分かるまで顔色一つ変えないできちんと説明を続けた。

そして何気なく瞳を見たら、小さいけれどとてもキレイな瞳をしていた。


「センセ」


ある日の放課後、生物室にアタシはセンセと二人きりでいた。生物部の活動が休みなのは、ここの前を何度か通って知っていた。そして、いつも生物準備室で仕事をしてるのも知ってる。


「アタシと付き合って」


センセに言ったら、少し考えて「いいよ」とあっさり答えた。

アタシは断られると思ってたから「いいよ」の意味がすぐに分からなかった。「いいよ」ってOKとも取れるし、NOとも取れる。動揺してしまって言葉のニュアンスが上手く聞き取れなかった。


「いいよって、OKってこと?」


「うん」


確認で聞くとセンセは頷いた。


「アタシ、センセの生徒だよ」


「うん」


「近くにいて一緒に過ごしたりするんだよ。信頼し合うとか、気持ちを共有するとか」


「うん」


こんな簡単に決めちゃうなんてきっとセンセ、「付き合う」の意味分かってないんだ。

でも、それぐらいがちょうど良かった。一度深呼吸をしてそう思い直す。

アタシはセンセの右手を包み込むように両手で握った。やっぱり男の人、大きな手をしてる。


「あったかい」


蝉の声が聞こえる。外はきっとものすごく暑い。なのに、センセの体温は不思議と心地良かった。




夏休みはあっという間に過ぎ、終わっていった。


センセとは一度も逢わなかった。と言うより、逢えなかった。

アタシは夏休みの間、日本にいなかった。パパの実家があるアメリカへ一人、行ってしまったから。センセと付き合う前に行くことはもう決まっていたし、センセを理由にやめる選択肢もなかった。

逢うつもりもなかったから別にいい。そもそも、お互いの連絡先を知らないっていうのもあるけど、センセからも何もなかったし。そこはやっぱり先生と生徒なんだ。


「あっ」


返却された数学の中間テストを何気なく眺めていたら採点ミスを見つけた。間違ってるのに正解になってる。この五点のマイナスは平均点を割らないとしても痛い。なんて、今頃気付いても遅いんだけども。むしろ簡単に分かる間違いをしてるアタシもアタシだ。

放課後、アタシは担当の先生のところへ向かった。


「お前は正直者だな」


椅子をギシギシ鳴らしながら担当の先生はそう言って笑うと、目の前にあるペン立てから抜いた赤でさっと減点した。アタシの中でガッカリ感が増す。


「点数の記録はそのままにしておいてやるよ」


「えっ、何で?」


「元は俺の間違いだしな。自分で気付けただけでも上出来じゃないか。次は頑張れよ」


テスト用紙を突き返される。何も言い返せないアタシは、渋々テスト用紙を受け取って職員室を出た。あんなことをされるなんてアタシがズルしたみたいで気分が悪い。


職員室は校舎の二階の端っこ。真っ直ぐ延びる白い廊下、反対側の端っこに生物室がある。


センセだったら、どうするかな?


そんなことを考えたところで無駄な気はする。正しい点数に記録を書き直すだろうし、そもそもミスらないだろうから。それに、こうやって比べること自体意味がない。センセは、センセだし。


教室へ戻るには少し遠回りになるけど、生物準備室の前を通って行こう。

通るだけ、寄らない。今日はこのままスタジオへ行かなくちゃならない。

寄るのは生物部の活動がない水曜日。その曜日だけスタジオの先生の都合で、レッスンの開始時間が一時間遅い。その時間を利用して、アタシは週に一度だけセンセと過ごしている。


他の先生のことを聞いてみたり、宿題をしたり、本を読んだり。それはアタシにとって、誰にも干渉されない大切な時間だった。だから、センセの個人的なことは何も聞かなかった。センセも言わなかったし聞かなかった。別に不便なことなんてなかった。


部屋の手前まで来ると誰かに声を掛けられた。

声が聞こえた方、階段を見上げる。踊り場で同じクラスの男子がアタシに手招きをしていた。アタシは首を傾げながら階段を昇った。


「なぁ、俺と付き合ってくれないか?」

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