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受付から診察室へと続く廊下へと進み、その奥、右側にある階段で三階まであがっていく。古びたこの病院にはエレベーターなどというものは存在せず、否応無しに階段を強いられる。普段の運動不足のせいで、三階の院長室についた頃には少し息が上がっていた。
永井ですと木製のドアをノックすると、即座にどうぞと低い声が返って来る。永井は静かにドアを開ける。
「ご無沙汰しています」
「そう? 数ヶ月前にも見た顔やなぁって思ったけど」
院長は笑うでも嫌味っぽく言うわけでもなくそう言って、目で永井に着席を促した。それに従うように永井はさして広くない院長室の真ん中にどんと構えているソファに腰を下ろす。
白髪まじりだが、髭は綺麗に剃り落とされていて、精悍な印象の強い院長。彼は質素な机の向こう側で、年期の入った革張りの椅子にもたれ掛かっている。机の上はきちんと整理整頓されていて、壁に張り付くかのような大きな本棚もあいうえお順に整頓されている。院長の几帳面さが出ているこの部屋に永井はもう何度も来ているのに、こうもきちっとした部屋はどうにも落ち着かない。
「これ、つまらないものですが」
「毎度毎度ありがとう」
「いえ、いつもこちらが無理を言って会って頂いているので」
「まあ、せやな」
永井が腰掛けるソファの前にあるガラステーブルに、持ってきた手土産を置く。
「それで」
白衣のポケットから煙草を出し、院長は永井に目をやることなく続ける。
「なんや、今回は重要なことが云々言うてたけど」
かち、というライターの音。肺から煙が押し出される音。それからひと呼吸おいて永井は口を開いた。
「先月、青森で児童虐待と強制わいせつ、傷害殺人事件がありましたよね。その殺人犯が死体で発見されたことをご存知ですか? 青森ログハウス誘拐殺人事件です」
先月中旬、その事件が発覚し、世間に露見した。それは近年稀に見る凄惨な事件だった。八歳と十七歳の少女が惨殺、しかも強姦されたのちに生きたままなぶり殺されていた。八歳の子は体をばらされた後、冷蔵庫に押し込まれていた。十七歳の子は外部と内部から痛めつけられた状態のまま、事件現場である山中のログハウスに放置されていた。どちらの死体もかなり腐敗が進んだ状態で発見されたが、そのふたつの遺体が発見される前、青森県内のとあるアパートで男の変死体が見つかった。随分と連絡の取れない息子を心配した男の両親が、その男の部屋を訪ね、男が腐乱死体となっていることに気がついたという。発見当時、鍵とチェーン、両方の施錠がされており、室内に争った形跡などはなかった。だが、あまりにも無残な死体に警察は事件性を考えるしかなく、殺人事件として捜査に乗り出した。でも死体の状態からしてひどい出血があったはずの室内には死体が横たわっていた絨毯の上以外に血痕はなく、それにくわえて証拠というものが一切残っていなかった。その男がどこかで誰かに殺されたであろうことはわかっているのに、その重要なところがなにひとつわからない状態。捜査の過程で男の私物を調べているときに、男のパソコンから少女たちが強姦される動画を見つけ出した警察は、男を少女誘拐と監禁、強姦の罪での捜査も始めた。そうして哀れな少女たちは発見され、男は誘拐、監禁、傷害、強姦、殺人の罪で容疑者死亡のまま送検された。
「世間があんだけ騒いでたら、知らん人の方が少ないやろね」
ふう、と紫煙を吐き出しながら、院長は興味なさげに「それで?」と永井を睨む。
「あの事件を追って、僕も青森に行っていたんです。そのとき」
永井は初老の女性に取材を受けてもらっていた。少女たちを惨たらしく殺したあと、自分も何者かに惨たらしく殺された男の近くに住んでいる女性だった。
女性の話によると、容疑者の男は引きこもりがちで、あまり近所で見かけることはなかったという。たまにスーパーなどで見かけたが、声を聞いたことは一度もなく、身なりもだらしなかった。ありがちな受け答えが続く中、女性がぽつりと呟いた。「あれは何かいけないことをしていた」と。意味深な女性の呟きに、永井は食い下がったが女性は、詳しいことはわからない、の一点張りで、嘘をついているようにも見えなかった。この女性に取材を受けてもらっているときはまだ、男が容疑者になる前、つまり少女たちの遺体が見つかる前だった。それから数日して少女たちの遺体が見つかったとき、永井はあの初老の女性を探してもう一度取材を試みた。
「その女性は”あの男にはオトリガミ様が憑いていた”と言っていました。悪いことをした人間に憑き、殺してしまう神様らしいです。オトリガミによって絶命した死体はそのほとんどが変死体で、そういう類の死体を受け入れている病院があること――」
「その初老の女性って、もしかして江端って苗字か?」
永井の言葉を遮り、院長が低く唸るような声で言う。
「江端花子ってばあさんやろ。個人情報がうんたらとかええから、教えて。もしその初老のばばあが江端やったら俺の姉や」
苛立ったように机を指先で叩きながら、院長は永井を睨めつける。しかし永井は取材を受けてくれた女性に名前を聞いていない。そのことを伝えると、院長は机の引き出しから何かを取り出し、永井の座るソファと対のソファに腰を下ろした。
「こいつちゃうか」
院長が引き出しから取り出したものを永井に見せる。それは随分と古い写真だった。写真の淵が白い枠で囲まれていて、今ではほとんど見かけることのない平成初期くらいの写真。その古い写真の中に、院長ともうひとり女性が写っている。院長にしてもそうだが、随分と若い。でもすぐにわかった。優しげな垂れ目が特徴的な女性。記憶の中のあの女性と、写真の中の女性が一致する。
「あ、この人ですね」
「あのばばあ」
院長の眉間に深い皺が寄せられる。どうやら青森で出会ったあの女性は、本当に院長の姉のようだ。
「世間って狭いですね。びっくりしました。あの女性がまさか院長のお姉さんなんて」
永井の言葉を聞いているのか聞いていないのか、院長は白髪まじりの頭を乱暴に掻きむしり、大きなため息をついた。
「で?」
「あ、えっと……」
突然話を戻され、永井は一瞬狼狽してしまった。
「オトリガミによって出た変死体を受け入れる病院が大阪にあると聞きました」
それがおそらくこの古江病院。決定的な証拠はないが、実際、永井が目をつける変死体のほとんどは最終的には何故かこの病院に持ち込まれている。
「……ばばあ」
永井に聞こえるか聞こえないくらいの声で、院長は愚痴る。そしていよいよ嫌になってきたのか、彼はソファの背もたれに全体重を預け、だらしなく足を広げて天井を仰いだ。
「偶然とはいえ、知ってもたならしゃあない。話長なるから吉沢に茶でも持ってこさせよか」
そう言って頭を起こした院長は、少し困ったような笑みを浮かべていた。
オトリガミ 八六 七 @nana-68
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