ぶおーとした世界

木島別弥(旧:へげぞぞ)

第1話

 サチコは恵まれた子供だった。家は広い庭のある大きな邸宅で、遊びきれないくらいの玩具があった。毎日美味しい食事が用意されていたし、何不自由ない生活をしていた。だが、サチコは自分が贅沢な暮らしをしていると思ったことはなかった。なぜなら、サチコの友達もみんな同じような生活をしていたからだ。

 サチコには何の不満もなかった。欲しいものはすべて手に入った。朝、目覚めると母親がココアをもってきた。お菓子をつまみながらココアを飲むと、ごそごそと起きだして服を着替える。それから一階にある食堂へ行き、両親と一緒に朝食をとる。

「サチコ、どうだ。何か欲しいものはあるか」

 のんびりと父親がサチコに話しかけてきた。

「ないよ。欲しいものはもう全部持ってるから」

 サチコはそう答える。これは本当のことだった。本当にサチコは欲しいものを全部持っていたのだ。

「そうか、そうか。毎日楽しいか」

「うん。ちょっと時間が足りないくらい。一日がもう少し長くなるといいな」

「そうか、そうか。うん、よし。そのうち何とかしてあげよう」

 父親は楽しそうにそう言う。我が子が幸せに育っているのがたまらなく嬉しいのだ。母親も隣で笑っている。そして、我が子がもっと幸せになるようにサチコの無理な願いを何とかしてあげようとするのだった。

 サチコの父親はでっぷり太った禿げた中年男だ。見てくれはちょっと悪い。母親もそんなに美人とはいえないが、サチコはそんなことはまるで気にしていなかった。

 食べ終わる頃に友達が遊びに来て、それから好きなだけ遊ぶ。やりたいことは何でもできた。サチコの家にはありとあらゆる遊び道具がそろっていたのだ。サチコはまだ子供で、遊ぶことだけが日課だったのだ。たぶん、この先も一生ずっと遊びつづけているのだろう。そうするのが当然と思っていた。昼間に父親が何をしているのかしらなかったが、遊ぶ以外にすることがあることをサチコは知らなかった。

 サチコは自分たちが金持ちだとは思ったことはなかった。なんせ、お金というものを見たことがないのだ。お金などと関わることはなかった。それに、サチコは自分たちとは異質な人間を見たことがなかった。非常に狭い世界しか知らないのだ。自分の知っていることがすべてで、それ以外には何もないと思っていた。

 その日は草原で丸型バギーの競争をしていた。この草原には茂みが所々あり、競争をするのに最適な天然のコースを形作っていた。所詮は子供たちの遊びだから明確なルールなどなかったのだが、サチコたちは必死に勝ち負けを競った。サチコたちの実力は接近しているのでいつも激しい勝負になる。それでもたいていはサチコが勝った。何でもサチコがいちばんなのだ。時々惜しくも負けることがあるので、それが悔しくて次の勝負にますます真剣になれた。

 サチコが八連勝した時だった。サチコには少し思うところがあった。この世界の謎を解く方法が分かった気がしたのだ。

「ちょっとカツシ、あんたねえ」

 サチコはバギーから下りて友達のカツシを呼び止めた。

「何、どうかした」

 カツシはバギーに乗ったままサチコに近づいてきた。カツシはサチコと同じ年のなかなか格好いい男の子だ。

「カツシは最終コーナーの立ち上がりが悪すぎるのよ。アクセル全開で踏んでる? あそこは全開で回しても流れたりしないのよ」

 カツシは少し困った顔をした。

「そりゃあ、サチコちゃんほどうまくはいかないよ」

「うーん、ダメ。カツシはいない方がいい。カツシはいない方が楽しいのよ。カツシはいない方が楽しい」

 サチコは草原に向かって大声を出した。カツシはひどくショックを受けた顔をしていた。

 次の日、カツシは消えていなくなっていた。


 次の日はサチコたちは大きなワニの上で昼寝をしていた。このワニは大人しいワニで、人に良くなついていた。このワニの上で昼寝をするのが最高に気持ちいいのだ。ワニはぷかぷかと水面を漂って、川のあっちこっちへ移動した。時々小鳥が飛んできてワニの鼻先に止まる。川の上には、これまた昼寝に最適の暖かいそよ風が吹いていた。

 しかし、この日のサチコは気分が違っていた。サチコが父親に昼寝は雨の方が気持ちいいと頼んだために、あいにくの天気だった。

 しとしとと雨が降っている。

「たまには雨っていうのも気持ちいいね」

 とキョウヘイがいった。

「目を開けると水が入るよ」

 とリエがいった。

 ぶおーとカバが鳴いた。

 いつの間にかサチコはうとうと眠っていた。雨がやみ、雲が裂け、太陽が顔を出した。うーんと伸びをすると本当に気持ちが良かった。

「きゃあああ」

 目覚めたばかりのサチコはキョウヘイの顔を見て悲鳴を上げた。

「何? どうしたの。何かあったの、サチコちゃん」

「キョウヘイが殺人鬼になって襲ってくる夢を見たのよ。こっち見ないで。怖いじゃない。あんた、二度とわたしに姿を見せないで」

 突然そんなことを言われてキョウヘイは戸惑ったようだった。たかが夢で文句を言われては納得できない。

「サチコちゃん、夢ぐらいで大騒ぎしちゃって子供みたいだよ」

 と、まだ七歳のリエちゃんが口をはさんだ。

「ごめん、気持ちが悪くて。今日はわたし、もう家に帰る。体調が悪いから」

「サチコちゃん、ごめん。僕が悪いなら、僕が家に帰るよ」

「そうじゃなくて。わたし、変な夢見て体調が悪くなったの。じゃあね」

 こうして、サチコは唐突に家に帰った。


 家に帰って病気だというと、母親はとても心配した。食欲がないといって夕食を断ると、母親はさらに心配して特別製の夜食を運んできてくれた。これがまたいい匂いのする粥で、食べないともったいないぐらい美味しそうな食事だった。

 サチコはもちろん食べたくて仕方がなかったのだけれど、それを断った。母親はあれこれ甘い言葉を弄してサチコに食べさせようとするのだけれど、サチコは頑として食べなかった。

 小一時間もめていると、ついに父親も心配してやってきた。

「どうしたんだ、サチコ。こんなに美味しそうなのにいらないのか」

「うん。食欲がわかなくって」

「嘘を言うんじゃないよ。体はどこも悪くない。元気そうじゃないか」

 サチコは気だるそうな顔をつくってみせた。

「それがねえ、今日ワニの川で昼寝してたら、キョウヘイの気持ち悪い顔の夢を見ちゃって、それがすごい気持ちの悪い夢でね。目が覚めたら、すぐそばに気持ち悪いキョウヘイの顔があって、それでもっと気持ち悪くなっちゃって。わたし、キョウヘイがいない方が楽しいと思うのよね」

 父親はいつもどおりの優しい顔で、サチコの顔を撫でながら言った。

「そうか。まあ、それは夢だからね。一晩ぐっすり眠ればすっかりよくなるから。気にすることはない。今日はきっといい夢を見れるよ」

「何も心配することはないのよ」

 母親も言った。

「明日になったら、キョウヘイ君に謝るんだぞ。今日はもう寝なさい。おやすみ」

 二人はサチコが眠るのを待ってから、静かに部屋を出て行った。


 次の日、サチコが朝食を食べ終わると、いつも通り友達が遊びに来た。サチコが玄関を開けると、そこにはいつも通りキョウヘイがいた。

 あれ、いるじゃない。ちょっと押しが弱かったかな。とサチコは計画の失敗を思った。

 くらっとサチコがよろけた。うぷっと吐き気のある真似をした。

「大丈夫、サチコちゃん」

 リエが心配した。

「ごめん、今日も調子が悪いみたいなの。みんなだけで遊んできて」

 そう言って、サチコは家に引きこもった。

 遊びに出ない我が子を見て、父親が怪訝な顔で尋ねた。

「どうしたんだい、サチコ。何で遊びにいかないんだね」

「今日も気分が悪い」

「父さんはサチコが元気なことは知っているぞ。どうしてなんだ。本当の理由を教えてくれ」

 サチコは面倒くさそうな様子で答えた。

「だからね、キョウヘイの顔を見ると吐き気がするのよ。昨日もいったじゃない」

 父親はおおいに驚いた様子だった。

「友達のことをそんなふうに言ってはいけないよ、サチコ」

「でも、生理的にどうしてもダメなのよ。

「そうなのか。ふうむ、ともかく今日一日じっくり休みなさい」

「うん、そうする」

 父親の許可が出ると、サチコはバタバタと自分の部屋に走っていった。

「あ、それとね、リエちゃんもダメなの。リエちゃんがいても気分がのってこないの」

 サチコが最後にひとこと付け加えた。


 次の日も幸せでいい天気だった。のどかですがすがしく気持ちがいい。いつも通りの朝の食卓だ。

「わたしの部屋、模様替えしたいんだけど」

「ほう、いいね、サチコ」

 父親はおおいに喜んだようだった。この父親はサチコが新しいことを始めようとするのが大好きなのだ。

「それで、サチコ。いったい部屋をどんな風にするつもりなんだい」

「玩具も家具も全部捨てちゃうの。壁は真っ白に塗って、模様を全部なくすの」

 父親の顔が歪むのがサチコにも分かった。

「そりゃまたどうしてだい。父さんは今の方がいいと思うけどなあ」

 父親は本当に悩んだ顔をした。いったいこの子は何を考えているんだろう。ちらっと母親の方を見たが、母親にだって分かるはずがない。

「単純が一番よ。わたし、最近この言葉に凝っているの。余分なものはいらないって気づいたの」

 食事を終えたサチコはガタッと立ち上がると、たったかと自分の部屋へ戻っていった。


 徐々に父親を誘導して、サチコは必要なものを次々と消していった。毎日毎日何かが消えてなくなっていった。屋敷の中も外も、サチコの言うところの「単純が一番」に向かって突き進んでいた。もう少しでこの世界は何もない真っ白な世界になるところだった。

「お母さんもいらない。余分よ」

「どうしてだい。お母さんはいないといけないだろ」

「いらないの、絶対に。どうしても」

「ダメだ。お母さんはなくせない」

 父親は意固地だった。子供の要求といえども、叶えてあげたいものとそうでないものがある。

「だったら、お父さんがいらない」

 子煩悩なこの父親は、この言葉には心底まいったようだった。いつのまにサチコはこんなに口が悪くなったのだろう。

「サチコ、悲しいことを言わないでくれ。サチコにとってお父さんは必要じゃないのかい」

「うん。お父さんもお母さんもいらない」

「サチコ、お父さんは怒るぞ」

「どうぞ。殺しても死なないわたしには怖いものなしよ」

 サチコはまるで動じない。決して自分が死なないことを理解しているのだ。バギーにぶつかった時も、飛行機から飛び出してみた時も自分をナイフで刺した時だって、決して死にはしなかった。いつでも助かったじゃないか。

「サチコ、何がそんなに気に入らないんだ。嫌なことは全部水に流して、もとのようにしようじゃないか」

「やだ」

「サチコ、サチコだって楽しかっただろ」

「全然。大不満よ。早くお父さんとお母さんが消えてなくなればいいのに」

「サチコ、いい加減にしなさい」

「だったら、わたしを消して。わたしは必要ない。わたしを消してよ」

 サチコは取り乱したように騒ぎだした。どう反応すれば父親があわてだすかを全部知っているのだ。

「サチコ、それはできない」

「何で。カツシくんだって、キョウヘイだって、リエちゃんだって、いなくなったじゃない。わたしだって消えてなくなっちゃえばいいのよ」

「サチコがいなくなってどうするんだ。ここはサチコのための世界じゃないか」

 父親は口を滑らした。サチコはそれをはっきりと聞いていた。それこそがサチコが探していた答えだった。

 サチコの顔がぱっと開いた。

「それよ。それが聞きたかったのよ」

 サチコは勝ち誇った顔をしていた。ついにこの世界の運行法則を見いだしたのだ。

「ある時、思ったの。何でこんなにうまくいくんだろうって。嫌なことや辛いことはひとつもなくて、毎日楽しいことばかりで。家も玩具もリエちゃんもキョウヘイもワニも空の天気だって一日の長さだって、全部が全部わたしの思い通り。全部、わたしに都合のいいように動いてくれる。ここは架空の世界なのよ。嘘ばかりだったのよ。お父さんとお母さんとわたし、それ以外は全部不必要な作り物の世界だったのよ。もう嘘の世界はたくさん! 本当の世界を見せてよ!」

 サチコは本当に、本当に怒っていた。


「くそっ、どうすればいい。ひとまず強制睡眠だ。みんな何もなかったように振る舞えば、夢だったと思うはずだ」

 父親そっくりのデブった男が、四つの電子画面を見比べながら喚いていた。

「やめましょう。ここまで来たら、修正不可能ですよ。あの子の疑問は一生消えない」

「バカな。気づくわけないんだ。赤ん坊の頃からこの世界しか知らないのに」

「やりますね、この子は。いったいどのミスからこのことに気づいたんでしょう」

「甘やかしすぎたんですよ。サチコさんにはそれが不満だったんです」

「僕らが娘さんの仕掛けた罠にはまってしまったせいでもある」

 電脳技師たちは口々に感想を言い合っている。複雑な測定値の変動が二十八の計器に示されている。一日の使用量が平均月給ほどにもなる高性能コンピュータがぶーんと低い音をうならせている。

「うるさい。あの子は幸せになる権利があるんだ。こんなことであきらめてたまるか」

 父親は相変わらず喚きちらしていた。ただただもう喚きちらしていた。こんなことなら、彼の娘の方がよっぽど大人びている。

「サチコさんは強い子供です。感覚器と運動神経をつなげば、一般社会に適応できるかもしれないです。まだ遅くはないですよ。あの子は受けいれる気でいます」

「ふざけるんじゃない。あんな不器用な義手とあんな低精度の義眼と、耳と鼻と歩行装置と機械の内臓と、そんなもので幸せになれるはずないんだ」

 興奮した父親は今まで以上に大きな声で叫んだ。

 彼らの前には、二百万本の配線を埋め込んだ脳みそ、八歳児サチコが横たわっていた。そして今、自分の体を持たない重度障害児が真実を見せてくれと父親をせかしている。


 八年前、ガスの爆発事故が起こり、一人の女性と生まれたばかりの赤ん坊がまきこまれた。女性は即死。しかし、赤ん坊はボロボロになりながらも、脳だけは救助された。

 脳だけ助かってどうするというのか。父親は絶望した。

 見殺しにするのは耐えられなかった。父親は、義体で不自由な生活をするよりはと、赤ん坊を脳だけで生かしつづけることにした。全財産をはたいて、サチコのための仮想世界を作り出したのだ。

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