after coffee
小林小鳩
#01
猫を飼ったことなどないので実際のところはわからないが、
物の本などで見聞きする知識から想像するに、俺は猫を飼っているようだ。
嶋野はふらっと気が向いた時に俺の部屋にやって来ては、夕食を作ってごろごろとDVDを観て、漫画読んで、たまに泊まって。それでまたふらっと帰る。
この部屋落ち着くんだよねだの、いつの間にか足が向いてるんだよねだの言っては、特に用もなく俺の部屋で好き勝手に過ごしてはいなくなる。
俺としては、材料費は嶋野持ちで夕食を作ってくれるのは大変ありがたいのだが、なんでこんなことになったのかさっぱりわからない。
猫は人じゃなくて家によりつくと、本にはそう書いてあった。
俺と嶋野は家でも会社でも、あまりしゃべることはない。
所謂コミュニケーション能力の差というものがあって、嶋野はいつも同僚たちと楽しそうにしゃべりながら、時には鼻唄なぞも歌いながら、だらっと仕事をしている。俺は昔からそういう騒がしい集団は好まず、必要最低限のコミュニケーションだけを取り、与えられた仕事を1人で黙々とこなしていくのが理想の姿だ。子供の頃からこつこつと何かの作業に没頭するのが好きだったので、嶋野のような奴らと関わりを持つことはあまりなかった。むしろ苦手で、積極的に避けているはずなのに。
現代社会はネットもあるしコンビニもあるし、1人でつましい暮らしをするには充分な環境だ。メールも電話も好きじゃない。他人と一緒に行動すると、なんだか疲れる。好きじゃないことに神経をすり減らす必要はない。孤独が精神を育てると、なにかの本にも書いてあった。
俺は1人で静かに過ごしたいんだ。
俺が去年この事業所に転勤してきた時、2年先輩の嶋野が俺の教育係だった。
今までとは全く違う課に配属されて、まだ仕事に不慣れだった為、どうしてもわからないことがあった。他人に訊いたりするのは苦手だが、仕事上のことだから仕方あるまい。自分の勝手な判断で進めてミスをするよりは、変なプライドを捨てた方が良いじゃないか。仕方なく近くの席の嶋野に頼ることにした。
「……先輩、ちょっと教えていただきたいことがあるんですが」
「それならマニュアル見れば?」
そりゃそうですよね。
席に戻ると嶋野からメールが届いてる。開けてみると、オンラインマニュアルの該当ページのURLだけがぽつんと書かれていた。適当な指導にもほどがあるだろう。親切なんだか、そうじゃないんだか。
それからはわからないことを社内メールで送ると、必要事項だけの素っ気ないメールが返ってくるようになった。変な社交辞令や気遣いは必要のないメールのやり取りだけが積もっていった。お互いの線を越えない温度のないやり取りが、人間関係が苦手な俺にはむしろ有り難かった。
思えばそれで、嶋野への苦手意識が少しなくなったのかもしれない。
それから1ヶ月も過ぎた頃、嶋野から2人で食事に行かないかと誘われた。あんなに割り切った関係だと思ったのに、突然ボーダーラインを飛び越えてきた。
人とメシ食いにいくの、苦手なんだけどな。でもまだ赴任してきたばかりだし。今回だけ我慢しよう。
今思えば、それが全ての元凶だったような気がする。
「浅川ってあんま人と呑み行ったりしないでしょ? つか、そんなに酒呑まないでしょ? 歓迎会の時、あんま呑んでなかったし」
「はあ、そうですね……」
「2人でメシ食うのもアレだけど、大勢でわいわいやるのはもっと苦手なんじゃないかと思ってさ」
ふーん、結構人のこと見てんだな……。
俺もあんまり呑みに行くの好きじゃない、と嶋野は続けた。
「だって飲み屋じゃがっつり食べられないし。俺、食事は旨いものを腹一杯食べたいんだ。でないと食べた気がしない」
「そういうことですか……」
嶋野がここのは旨いよ、という広島風のお好み焼き屋はたしかに旨かった。カウンター席があるなら、また1人で来ようかな。
「浅川って寮じゃないの?」
「寮は空きがなくて、桜川にアパート借りてるんです。一応手当が出てるんで、なんとか」
「うそ、俺ん家と超近いじゃん。うち北口。どんなもんか見ていい?」
「……あの、俺、会社とプライベート分けたい派なんですよ……」
「今時の若者っぽい発言だね!」
おまえも2歳しか違わないだろうが。人のテリトリーにずかずか土足で踏み込みやがって。
夜は1人で静かに過ごして、ゆっくり寝ていたいんだ、俺は。
家に来る、というのはどうせ社交辞令だと思ってた。学生時代も今度遊ぼうよと言われて本当に遊んだ試しなど滅多になかったから、その手のノリだと思ってた。
お邪魔しますと陽気な調子で図々しく上がり込んで、本棚って人柄出るよな、と本棚を眺めて、
「この漫画懐かしいな。中学ん時読んでた」などと人の漫画を勝手に読んでくつろぎ始めた。
どうしよう。いつどのタイミングで、もう帰ってくれと切り出せば良いんだ。
何をどうしたらいいのかわからず、嶋野が読み終わった巻を拾って読む。読むスピードが俺より遅いから、すぐに追いついてしまって更に間が持たない。何冊か読んだところで、もう遅いからと帰り支度を始めてくれて、正直ほっとした。
誰かと2人きりで外で食事をして、家に遊びにきて。そういうことがあまりに久しぶりだったので身体も頭も追いつかなくて疲れてしまった。
まあ、たまにはこういう経験もしておかないと。社会性を補う為に。
帰り際に嶋野はにやりと笑いながら言った。
「また来ていい?」
今度こそ、社交辞令だろう。
『今日家行っていい? 漫画の続き読みたい』
それから何日か経った頃、そんなメールが嶋野から送られてきた。
『それはちょっと』
『なんで? 用があんの?』
『プライベートを分けたいんですよ』
『漫画の続き読みたい』
『じゃあ持ってきます。何巻ですか』
『巻数まではちょっとわからん。つか、会社で受け渡しするよりも俺が浅川の家に取りにいった方が早くない? 明らかに早いよ?』
おい、なんだこれ。
その晩、宣言通りに嶋野はやって来た。会社を出る前も出た後も何の言葉もメールも交わさなかったから、油断してた。駅前の弁当屋で買った夕飯を食べて、風呂から出てくつろいでるところにチャイムが鳴った。この時間差攻撃は、一緒に帰るところを会社の誰かに見られたくなかったのだろうか、などとひねくれた想像を巡らせてしまう。
「お茶飲みます? コーヒーか紅茶か」
「おお、ありがと。どっちでもいいよ、おかまいなくー」
「じゃあコーヒーで」
「濃いめミルク多めで砂糖なしな」
なんかこう、いちいち一言余計というかなんというか。誰に対してもこうなのか、俺だけにこう横柄なのか。
「コーヒーミルクないから、牛乳でいいですか」
「いいよ。俺カフェオレ大好き」
コーヒーを淹れて部屋に戻ると、嶋野はこの間みたいにごろんと座椅子に転がって漫画の続きを読んでいる。
持って帰るんじゃなくて、ここで読むのか……。漫画喫茶として利用されているような……。
「インスタントじゃなくて、ちゃんとドリップで淹れてんの?」
「まあ、こだわりっつーか……手間でもその方がおいしいじゃないですか」
「そだね。その方がうまいな」
何の言葉も交わさず、ただただ漫画を読んで、カフェオレを飲んで。同じ部屋にいるだけ。それだけの時間がすぎていく。
「じゃあ、そろそろ俺帰るわ」
なんなんだ、一体。
人と関わることに慣れてないからか、なんだか物凄く疲れる。
人に気を遣うことに慣れてないからか、なんだか。
台風がやってきて、俺の頭の中をめちゃくちゃにかき回して去っていって。そんで何もなかったように空は晴れていい天気なのに、残骸で溢れ返ってる。そんな気分。
自分のデスクでコンビニで買ったパンを食べながら作業をしていると、嶋野と同僚たちが、ぎゃあぎゃあと騒ぎながら昼休憩から戻ってきた。腕を組んだり頭をはたいたり。相変わらずだな。
なんだよおまえら、仲良くしやがって。俺も入れろよ。そう他の同僚が笑って言う。いい大人がはしゃいで何やってんだか。
これは俺には関係ないことなのだ。群れるのも騒ぐのも、嶋野が誰と仲良くしようと。俺には一切関係ないことなのだ。
俺は1人で充分だと、ずっとそう思って生きている。1人じゃ出来ないことがあるなら、出来るように努力すればいい。努力しても駄目だったら、その時は潔く諦める。誰かと無理して交わるよりは、その努力の方がずっと楽だ。
その信念は揺るがない自信がある。
次の週末、また家に行ってもいいかというメールが来た。
『俺の家が近所だから来るんですか』
少し考えあぐねてから、そう返信した。
『そういうわけじゃないよ』
何分か間を置いてから、もう一通。
『たぶん、近所じゃなくても行きたいと思う』
よくわからない。他人の真意を理解するための思慮深さとか、人付き合いの経験値とか、俺にそういうものがかけてるから、わからないのだろうか。
会社から帰ると、玄関の前でスーパーの袋を抱えた嶋野が待っていた。なんか嫌な予感が。
「おまえの夕飯、カップラーメンなの? うわー」
俺の手にあったコンビニの袋を覗いてそう言った。
「俺の食生活はほっといて下さい……」
「こないだの漫画のお礼にさ、夕食作るよ」
「はあ? これから作る気ですか? うちの台所で?」
「いいじゃん、今日金曜だし。とにかく座ってTVでも観てて。それか風呂にでも入ってきなよ」
誰かと食事をするのはあまり好きでなくて、いつも居心地悪い。1人でなら好きなものを好きなペースで食べれる。
見慣れたいつもの1DK6畳間の、いつものローテーブルに用意される、2人分の食器。いつもと同じTVが点いてるのに。なんでかな、なんか変だ。非日常の違和感じゃなくて、もっと違うものが、のどの奥のもっと下の方に詰まってる。
嶋野はほうれん草が入ったカルボナーラと温野菜のサラダを作ってくれた。この部屋で食べたものの中では、一番ちゃんとした料理のような気がする。
「今日は準備不足で簡単なものしか作れなかったけど」
「いえ、充分です。料理出来るとか本当、すげえなって思いますし。カルボナーラって家で手作り出来るもんなんですね……」
「出来るよー。俺、学生の時バイトで厨房やってたからさ。結構色々作れるよ。浅川は料理しないの?」
「ああ……俺はそういうのは、全然」
「人と一緒に御飯食べるとうまいよね」
あの台風が頭の中にまたやってくる。ざわざわと耳の奥に音を立てる。他の誰かが自分の心に入ってきて、駆り立てる。自分だけで充分なのに。自分のことだけでいっぱいで、他人を頭の中に住まわせる余裕なんてないのに。
「DVDいっぱいあるねー。全部洋画?」
「邦画も少し……」
ふうん、としばらくDVDの棚を眺めてから。
「歓迎会の時さ、豊田たちが『浅川は何考えてるかわかんない』って言ってたじゃん」
「ああ……そんなこともありましたね」
「それで浅川さ、『特に何も考えてないし、わざわざ語るべきものが何もない』って答えてみんなひいてたけどさ。俺の観たことない映画や本をいっぱい知ってるし、好きなものいっぱいあるじゃん。すごいな」
そんな風に言われたのは初めてだった。何考えてるかわからないと言われる度に、その言葉を返していた。超能力者じゃあるまいし、他人の頭の中なんてわかるわけないし、そう簡単に理解されたくない。
そうやって人を避けてきたのに。
「あ、ブレードランナーのDVDがある! よし、観よう」
出てってくれ。今すぐに出てけ。
のどの奥まで来てるのに、声にならないのはなんでなんだろう。胸の奥をつんとつままれたような気持ちになって、ぼんやりと映画を一緒に眺めてた。
歩いて帰れるから、と真夜中に嶋野は帰っていった。
朝になって冷蔵庫を開けると、嶋野が作ったのであろう、野菜とベーコンの炒め物が入ってた。レンジで温め直して、パンを焼いて。1人分の1人で朝食を食べる。
なんだ、いつものことじゃないか。なのになんで変な感じがするんだろうか。
のどに詰まりそうなそれを、カフェオレで流し込む。
ああ、そうだ。今日は帰りにもう少し良いコーヒーを買ってこよう。
そんなことを何度も繰り返して。
気がついたら、部屋着のスウェットとか下着とか歯磨きセットとか。ナワバリを示すアイテムが部屋に置かれている。冷蔵庫の食料の補充もいつの間にかされている。食費は月末締めで折半。何となく出来たルール。すっかり不可侵領域に入り込まれているのだが、怒る気力がない。
まあ、いいか。
今日も嶋野はふらっとやってきて、夕食を作って勝手に俺のDVDを観て大笑いしてる。2人分の食事とDVD。食後には週末にだけ飲む、ちょっと高いコーヒー。
勝手気ままに出入りする猫が、俺の部屋にはいる。
でも、餌付けされてんのはどっちなんだろう。
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