#04

 鳴いて甘えてくる猫はみんなに可愛がってもらえるけど、そういうことがうまく出来ない猫は、いつまで経っても可愛がってもらえない。

 嘘の愛嬌を振りまいてまで他人に好かれようとは思わないけど、不特定多数ではなく、特定の誰かから愛情を受けるのは難しいものだな。

 どうすれば迷惑をかけずに好かれるものか。


 自分が混ざると場の雰囲気が悪くなってしまうのを恐れて、いつからか人を避けて生きるようになった。自分さえいなければみんな楽しそうだから、これで良かったんだと言い聞かせて、いつの間にかそれに馴れて、1人でいれば安心出来た。誰にも触れなければ、誰も傷つけないから。

 自分といると、この人は不快な思いをするかもしれない。その思いは拭えない。



 2人でいる時の嶋野はよく、俺の髪の毛に手をつっこんで頭をわしわしと撫でてくる。少し前の俺ならば、誰かに触れられることを、誰かが自分の領域に立ち入ることを強く拒んだのに。髪の毛と耳の付け根と、首を這う指を、頬に触れる手のひらの体温を、心地よく受け入れている。だけど、こんな自分は自分じゃないと思う部分もまだ残っていて。澄んでいるように見えるけど底の方には澱が溜まっていて、何かの拍子にすぐ濁ってしまう。

 嶋野はたまに俺のことを「近所の猫に似てるんだよね」などと言う。

「うちの近所の駐車場にさ、毛のふわふわした白い猫がいつも寝転がってるのを会社に行く時見かけるんだけど。あの猫触ったらこんな感じかなーって」

「猫を撫でろよ、猫を」

「うーん……撫でて! って仰向けになってアピールしてるからさ。人に好かれようとする努力は悪いことではないと思うんだけどねえ。自分がかわいくて愛されて当然って顔をしてるのは、あまり好きになれないねえ」

 それって同族嫌悪じゃねえのと言うと、かもね、と笑ってまた俺の頭を撫でてくる。

 たしかに人に好かれるための努力なんかしたことないけどさ。


 人に好かれたことがないから、好かれた時にどうしたらいいのかわからない。人を好きになったことがないから、また同じように。具体案が浮かばないし、そういうことで悩んでもがいている自分は醜いなと思う。人を疑うようなことを考えるのは悪いことだとわかっているけれど。

 だけどやっぱり、自分なんかは人に好かれる価値がないと思っているし、好きだと言われても疑ってしまうのだ。



 今日の夕飯は、牡蠣とほうれん草の炒め物と湯豆腐と、きのこの炊き込み御飯。台所の床に座って冷蔵庫にもたれかかって、料理をする嶋野を見上げてたら。ふいにもさもさと頭を撫でてきた。

「撫でて欲しいのかと思った」

「いや、別に」

 俺がぶっきらぼうに返しても、嶋野はにやにやと笑ってばかりだ。

「牡蠣って弁当向きじゃなかったね」

「いーよ、冷凍のおかずなくなったらコンビニ行くから」

「料理は習うより慣れろだからさ、浅川もやってみれば結構何とかなるかもな」

「しっかりとしたビジョンと目標のないまま漫然と作業しても、同じことの繰り返しで向上しないと思うけど」

「やっぱりおまえは料理出来るようにならなくていいよ」

「さっき習うより慣れろとか言ってたじゃん」

「いい、できなくていー」

 俺が作ってやるから、とは言わないんだな。なんでそんな言葉期待したんだろう。らしくもない。あしらわれると、呆れられたのかなと感じてしまう。自分だってしてることなのに。こういうことを繰り返すうちに本当に呆れられて見放されるのだろうか、などと思ったり。


 後片付けをしながらふと、子供の頃のことを思い出した。

フルーチェやジュースをゼラチンで固めただけのゼリーを、姉や妹と一緒に作った記憶がある。それを料理と呼ぶに値するかどうかは別として、実家を出る前に作ったことのある食事といえばそれくらいなものだ。姉や妹は台所に立って何か料理をしていたかもしれないが、その辺の記憶が非常に曖昧で、作ってもらったものはバレンタインのチョコくらいしか思い出せない。

 家庭科で習ったことくらいならぼんやりと再現出来るのだが、それ以上は出来ない。今の時代はレシピなんぞネットに溢れているのだけれど、なかなか腰が上がらない。たまにやってみても自分の料理に才能を感じられない。なんというか、テスト前にそれなりに努力して勉強するけれど、どうにも好きになれない教科のようなものだ。そんなんだから料理をしなくても生きていけるからと、どんどんと遠ざかってしまった。

 嶋野みたいに出来るようになりたいわけじゃないのだけれど、目の前に出来る奴がいるとやはり多少は気にしてしまう。


「浅川、布団買うの?」

「なんで?」

「ブラウザに検索履歴が残ってる。なに、俺専用布団?」

 調べものをしたいからパソコン貸してくれと言うから貸したのだが、やっぱり断れば良かった。履歴を全消去しておかなかった俺も悪いんだけど。

「……まあ、うちの客用布団も古くなったなって……思っただけだから。専用布団は欲しかったら自分で買ってくれ」

「どうせならセミダブルベッド買おうよ。2人でごろごろ出来るよ」

「馬鹿言うな。大体置く場所ないだろ」

「猫背矯正クッション! なんだおまえ、そんなものが欲しいのか! ていうか猫背気にしてたのか!」

「今すぐパソコンを消せ」

「そんな怒るなって」

 どうでもいいことですぐ不機嫌になる自分が本当に嫌になる。こんなことくらいふざけて笑って適当に受け流せばいいんだ。自分でもわかってるけど、出来ないのがもどかしい。


「いやー、うちは作業だけは速いのがいるからー」

 俺の席の横で嶋野が立ち話をしながら、仕事してる俺の頭を肘掛けにしてる。不必要な馬鹿騒ぎに勝手に傷つくほどには、もう幼くもない。まあ、こいつは会社ではこういう奴だってよく知ってるし、俺も自分の立ち位置がわかってるけどさ。なんか、なんだかなー……。そういや嶋野、最近週末は飲み会続きだけど、うち来るのかなー……。

「うわ、浅川ごめんな」

「……はい?」

 嶋野の声に顔を上げると、何故だか周りのみんながくすくすと笑っている。

「もしかして全然気がついてなかったのー?」

「浅川さんさあ、ずーっと頭ぐりぐりやられてんのに無抵抗でぼーっとしてるから、もう可笑しくて」

「……はい?」

 俺の間の抜けた返事にみんな大爆笑している。

「嶋野くんがさっきから浅川くんの頭をこう、ぐりぐりと。髪の毛凄いことになってるわよ」

 そう向かいの席の高坂さんに指摘されて頭を触ると、たしかに髪の毛がぐしゃぐしゃになっていた。穴があったら入りたい……。嶋野を見ると、嶋野もそういう顔をしていた。そうされることにあまりにも馴れすぎていて、気がつかなかった。

「……怒ってる?」

「怒ってませんけど」

 おそるおそる尋ねる嶋野にそう返すと周囲から、浅川さん絶対怒ってるよ、とくすくすと笑い声が聞こえた。

 怒ってない、けど。

 こんなつまらないことを軽く笑って流せない自分の社会性のなさよりも、嶋野に触れられることをあまりに自然に受け入れている自分に動揺している。しかも人前で……。

 会社でも家と同じような関係を築きたいわけじゃない。誰から見ても仲の良い2人に見られたいわけじゃない。むかつくこともいっぱいあるし、でも何もかもを不快に思っているわけじゃないし。自分が何をどうしたいのか、全然わからない。こんなことで悩むのは初めてだからわからない。

 だってこんなことで悩むのは、俺じゃない。


 嶋野からメールが来ていた。

『すまん。いつものくせで会社でもやるとは思わなかった。自分で自分にびっくりした』

 なんて返事をしたらいいのかわからない。わからないので、返信しなかった。


 今までずっと、もつれて絡んだ糸は鋏でぶった切ってしまっていた。ゆっくりゆっくりほどかないといけない糸もあるということを、思い知らされている。


 嶋野からの「今日行っていい?」メールは来なかった。当たり前だ。他人の心を理解するのは苦手だけど、さすがにこれくらいはわかる。単純な気まずさと、俺が怒っているかもっていう恐れと。嶋野だけという訳ではなく、俺が周囲と距離を置きたい気分だって察してくれてる。他人に気を使わせてしまったという後悔がのしかかる。こんな面倒なやつ、見放されても当然だ。

 自分は自分、他人は他人だって思ってるし、誰かになりたいなんて思わないけど。なんでもっと素直で優しい人間になれなかったんだろう。少なくとも、嶋野に対しては。

 今までの俺ならここで無視して関係が疎遠になって、そのまま終わってしまっても何の後悔もなかっただろうけど。嶋野のせいで俺は前と同じ俺じゃなくなってしまったので。もう無視出来ないのだ。


 携帯の新規メール作成画面は空欄のままで、どんどんと夜が更けていく。夕飯食べなきゃ、と思うのだけど。携帯握って部屋のベッドに寝転んだまま時間は過ぎていく。面倒だからカップラーメンでいいや、と思うのだけど、お湯を沸かす為に起き上がる気力もない。

 気持ちがどうでもよくなってると、食べるものもどうでもよくなるなー……。

 何か返信しなくては、と焦るのだけど。何の言葉も出てこない。そんな訳ないのに。今頭の中は嶋野に対する感情で埋め尽くされているのに。言葉をいくら重ねても、そこには自分の気持ちが入っていないような気がしてしまう。

 本当の気持ちは言葉なんかじゃ表せなくて、でも他に代わりがないから言葉を使うしかなくて。でも、どんな言葉を選んでも、これじゃないと思える。みんな知ってる簡単なことが、自分には出来ない。でもここで諦めてぶった切ってしまっては、今までの自分と同じになってしまう。

 ……ああ、言葉だけじゃないのか。言葉で言えないから、相手に触れて感じたり、自分の作った物を与えたりするのか。

 ……スーパー、まだやってるな。


『明日うち来る?』

 寝る前にメールを送ると、深夜なのにすぐ返ってきた。

『行く。なに食べたい?』

『手ぶらで来て』

『ピザでもとるの』

『そんなとこ』


 次の晩、玄関に入ってすぐに嶋野は、もしかしてカレー? と言い当てた。鍋の中を見せると、俺が料理をしたのが信じられないといった様子で大笑いした。

「浅川が作ってくれたの、これ」

「……林間学校で作ったことあったし、作り方も箱に書いてあったし」

「うん」

「……カレーは一晩寝かせた方がいいっていうから昨日の晩作った。そうするとグルタミン酸が増えるっていうから」

「うん」

「……たまねぎを、飴色になるまでいためた方がいいっていうから、そうした」

「うん」

「……リンゴも擦って入れた」

「うん、すげーうれしい。早く食べよう」

 えらいえらい、と頭をぽんぽんと撫でてきた。やっぱり触れられるのは嫌いじゃないな。嶋野だからかな。

 ぱくぱくとカレーを口に運ぶ嶋野の顔を上目で覗く度、そんなに心配しなくても本当に美味しいよ、と苦笑いされた。

「やっぱり俺が作るカレーと違うなー。カレーって作る人によって全然違うの面白いよね。おまえのカレーってじゃがいも入ってないのな」

「ジャガイモを入れると、どうも摂取する炭水化物が多すぎるような気がして。インド人だって入れてないし。あと重くて持って帰るのが面倒だった」

「……おお。浅川のそういうとこ、俺嫌いじゃないぞ」

 余ったカレーは冷凍してまた後で食べようとタッパーに詰めた。嶋野が作った料理と一緒に自分の作った料理が冷凍庫にあるのは不思議な気分だ。

 デザートにコーヒーゼリーも作った。箱に書いてある分量の目安がいまいち掴めず、思ったより大量に出来てしまった上に、ゼリー型がなかったからお椀で作ったので、一人分が結構な量になった。それをまた嶋野は、いかにも料理初心者らしくて可愛げがあると言った。

「こういう可愛げのあるとこ普段から見せればいいのになー」

「別に……その必要性は感じてない」

 ははっと笑って、俺になら見せてもいいんだ? とにやにや笑う。

「あー、でもおまえってさ、俺には隣の席だからやらないけど、会社で人に話しかける時にさあ……」

 嶋野はそこまで言いかけて、まあいいや、と止めた。

「……なに? 会社で、なに?」

 大したことじゃないから気にすんな、と。

「凄く好きなものって他人には秘密にしておきたいもんじゃん?」

 そんなものなのだろうか。

 真っ黒なゼリーの上に生クリームをかけて、スプーンで潰して混ぜる。苦さと甘さが混ざって溶け合って、ゆっくりとお互いの色に染まっていく。


 誰かの為に何かをしたいと思う。だけどそのやり方が、はっきりと何をしたらいいのか、なにもわからなくて。それでもわからないなりに手探りで。

 誰かのことを想って何かをしたいと思うのは、自分の心をスプーンですくって食べさせるようなものなんだな。

 1つの心を2つのスプーンで分け合うような、そんな関係を俺も誰かと築けるだろうか。


 そうだこれ、と嶋野は紙袋の中から薄いボール紙で出来た箱を2つ取り出した。開けるとそれぞれ中には色違いのマグカップが入っている。

「この部屋、俺専用のカップないからさ。いつまでも来客用のカップ使うのもなんか……つかさ、俺もう客じゃないだろ」

「ないね。お客様って態度じゃない。もう1こは?」

「……空気読めよ。黄緑と水色、どっちがいい?」

「……黄緑、かな」

「あと、布団も注文したから。その内届くから」

「俺、時々お前のことを殴りたくなる時あるよ……」

 部屋の中に嶋野のものが増えていく。まるでここは俺の場所だとナワバリをはるかのように。たぶん嶋野がいない時でも、マグカップを見れば嶋野のことを感じられるだろう。

 新しい感情が、自分の中にどんどん増えていく。新しい色が胸の内を染めて、その内全てが変わっていくのかもしれない。

 でもそれはきっと悪いことじゃなくて、なんだかわくわくするようなことだ。



 会社では仕事以外の必要のない会話は特にしないし、休憩時間も別々に過ごしてる。俺の右隣の席にいるこの男との関係は、会社では何も変わらないけど。見えないところで確実に何かが変わっているのは凄く不思議だ。俺が気付いてなかっただけで、至る所でこういう変化があるんだろうな。

「高坂さん、コピー機のトナー出したいんで物品倉庫の鍵ください」

 向かい側の高坂さんの席まで行って、そう話しかけると、俺の顔を見て一瞬きょとんとして。コピー用紙とか色々出したいから私も行く、と椅子から立ち上がった。

「浅川くんって、仕事中に人に話しかける時、いつもしゃがむよねえ? あれ、びっくりするよー」

 物品倉庫でコピー用紙の束やらホチキスの針の箱やらを俺の腕に積みながら、高坂さんが笑って言った。

「……立って話すと上から目線で失礼かなと思いまして」

 前にいた事業所でもそれを人に指摘されたことがあった。人の机の横にしゃがんで話しかける、学生時代にそうしてた癖が抜けなくて、つい無意識にやってしまう。

よかった、もっと何か失礼なことしたのかと思った。

「なんか人のこと見上げて話すのが、うちで昔飼ってた猫が餌くれーって鳴くのに似てたから、おかしくって。いつも無愛想なのに」

 もしかして、こないだ嶋野が言いかけてたのってこれのことか。

 そうか、猫か……。自分が猫みたいなくせにな。どっちもどっちなのかもな。

「前に飲み会で浅川くんの話になった時があってね。嶋野くんが『あれはあれで懐いてくると結構いいやつなんで、大目に見てやって』って言ってたんだよね」

「大目に見ていただけてますか」

「見てるわよー。はじめは嶋野くんが面倒見いいから一方的に構ってるだけだと思ってたんだけど、ふたり結構仲いいよね」

「はあ、そうっすね……そう見えますか」

「違うの?」

「いえ、そう思っていただけると有り難いです」

 なにそれ、と高坂さんは笑って俺の背中をどんと叩いた。

 なるほど。俺の関知しないところでそういうことを。昔の俺ならそれを余計なことしやがってと思っていたけど、今はそういうんじゃないんだ。

 もっと優しい人間になりたい。自分の為にも、嶋野の為にも。



 俺の部屋に、今日も当たり前のように嶋野がいる。いつものように夕食と食後のコーヒーと、映画。

「はい、半分」

 と半分にわったみかんを差し出された。

「だってこれ5個入りだろ」

 1つのみかんを2人で分ける。1つの気持ちを2人で共有するような、そんな関係でいられるだろうか。俺の知らないところでは、嶋野はもっと俺を蔑ろにしているんだと思ってたんだけどなあ。

 映画を観ながらみかんを食べる嶋野を横目で見てたら、頭をもさもさと撫でられた。

「撫でて欲しいのかと思った」

「大体合ってる」

 嶋野は俺の首元に顔を埋めてふふっと笑った。頬に嶋野の茶色がかった髪が触れて、少しくすぐったい。猫が甘えて抱きついてきてるみたいだ。

 首筋を辿る唇の甘やかな温度に目を伏せて、身を委ねる。


 まるで誰かの優しさを食べて暮らしていけるような、そんな生活をしてみたい。誰かの優しさを食べてばかりじゃ駄目だから、自分から優しく出来るようになりたい。優しくしたい相手を目の前にして、優しさを受け取ってもらえるような自分にならないと。誰かに対して優しくしたいという気持ちを喜びと呼べるようになりたい。


 もつれた糸を指の先でそうっとほどいて、ひっぱりすぎて切らないように少し慎重になりながら、ゆっくりゆっくりたぐり寄せる。その糸の果てを誰かが握っている手応えを感じているから、小さな結び目の1つ2つは気にしないでいよう。

 俺はもう、それが誰かを知っている。

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