#02

 飼ってるわけじゃないけれど、ふらっと餌だけ食べにやってくる猫。

 気まぐれに来たい時だけやって来るその猫を待ちわびるのは不毛だと思いながら、少しばかりの期待をかけてしまう。

 猫がいるあたたかさを知ってしまうと駄目だな。

 猫は家に寄り付くというけれど、人に寄り付く場合もあるんだろうか。



「浅川、今日は残業なし?」

「そうですね、しなくて済みそうです」

 会社ではなるべく敬語で「嶋野さん」ってさん付けで呼ぶようにしてる。一応先輩だから。そうじゃない時は、2人だけの時は、呼び捨てでため口だけど。

 経費削減のため、なるべく残業をするなという上からのお達しで、定時退社が最近多い。そのおかげで嶋野がうちに夕食を作りにくる回数も増えた。

 いいことなのか、わるいことなのか。

 電車に乗ってると携帯にメールが来た。

『今日行くから、DVD借りてきて。こないだ見たドラマの続き』

 はいはい。


「いいか、好きな時に好きなもんが食えるのは、1人暮らしの醍醐味だ!」

 今日も我が家の台所で嶋野は2人分の夕食を作る。今日のメニューは酢豚と冷や奴。

「大学ん時、バイトでずっと厨房やってたからさ、こういうの好きなんだよね」

「自分ちでやれよ、自分ちで」

「でも実家ってさあ、自分の思うように出来ないじゃん? 特に母親は俺は男だから何も出来ないと思ってるし、何もさせないし」

「……母親は自分のテリトリーが奪われるのが嫌なんじゃないの。特に台所なんて」

「もしかして、俺が勝手に台所使うの、本当は嫌なん?」

「ん? 別にそうは思ってないよ、俺は。面倒なことは出来るヤツがやればいい主義だから」

「あー、浅川ってそうだよね。仕事にもそういうとこ出てる」

 作るのは嶋野だけど、後片付けするのは俺の担当。食後は2人でベッドや床でごろごろしながらDVDを観るのが、いつものパターン。

 翌日が休みの時は泊まることも多いけど、嶋野の自宅までは徒歩15分の距離なので、平日はいつも帰る。たぶんこれくらいの距離がちょうどいい。適度に1人の時間を保てないと、俺は頭がおかしくなる気がする。


 どこにいっても「みんなとなかよく」は出来なかったし、誰かといてもいつもどこか寂しいような感じがして、1人でいると安心出来た。一緒に帰ったり昼食を食べたりする友達はいたけど、休みの日に遊びにいくことはなかった。1人で映画を観にいったり、あてもなく自転車でふらふらしてるのが好きだった。そうしていると、だんだん自分の中が透き通って研ぎすまされていくような気がした。

 1人でいるとつまらなくない? って訊かれることは何度もあった。それは単に隙間を自分で埋められるか他人に埋めてもらうかの差だろう。俺は自分で埋められる。他人の手を煩わせることなく。

 その考えに、もう1つ選択肢が加わった。

 他人を構うことで自分の隙間を埋めるやつもいるということだ。



 会社では、仕事上の用件以外で嶋野としゃべることはない。誰が見てもお互い違う世界の住人で、交わることなんてないと思うだろう。俺の家と会社は、全然別の国の話。どっちが正しい現実なのかは判断しかねるが。


「浅川さんって最近いつもお弁当ですけど、ご自分で作られるんですか?」

 自分のデスクで弁当を食べてると、女子社員のグループが話しかけてきた。

「あ、うん……まあ、弁当って言っても余り物とか冷凍食品とか、適当に詰めただけだけど……」

「でもマメですねー、すごーい」

「やろうって思ってもなかなか出来ないよねー」

 女子社員たちはきゃあきゃあと笑いながら、自分達のデスクへ戻っていった。

 社交辞令、社交辞令。どうせ彼女が作ったんですか? なんて思わねえんだろ。ひじき御飯とチーズ入りのハンバーグは嶋野が作って冷凍しておいてくれたものだけどな。ピーマンと人参のごま油炒めも昨日の晩に嶋野が作って冷蔵庫に入れておいてくれたものだけど。俺の弁当、必ず嶋野製のおかずが入っているような気がするな……。今日は特に嶋野率が高いような……。よくよく考えたら1日の内の半分近くは嶋野の手料理を食べている計算……。

 嶋野の周りにはいつも誰かがいて、今日も同僚たちと外へ食事に出ている。俺は子供の頃からあまり友達とかいなくて、休み時間も本読んで過ごしていたようなタイプで、今だって1人でパソコンいじりながら弁当食べてる。それを苦だとは思わないけど、それを見下されてんだろうなって自意識過剰と自己嫌悪ならそれなりにある。


 携帯の方にメール。

『ごめん、今日は呑み行くから夕飯作りにいけない。1人で食べてて』

『別に来てくれとか言ってないから』

『!!!』

『そういうの、鬱陶しいから』


 定時で上がりラーメンを食べ、帰りにコンビニで食パンとアイスを買って帰る。嶋野にはスーパーの方が安いんだからコンビニで食パン買うのやめろって言われたけど。東京のスーパーが終電時刻まで営業しているおかげで、そんな説教もされるし、嶋野はうちに夕食を作りにくる。

 嶋野に観たいから借りてこいって言われて借りてきた映画のDVDは明日が返却期限で、仕方がないから1人で観る。これ、観たことあるな。高校生の時に1人で映画館に行って観たやつだ。

 コーヒーにバニラアイスを浮かべてフロートにして飲む。嶋野がいたら、あいつこういうの喜んでやりたがるのにな。コーヒーの豆を新規開拓してみようか。それとも前々から気になってた水出しコーヒーのポットを買おうか。

夜って長いな。こんなに長かったけな。


 誰かがそばにいる感覚を知ってる1人と知らない1人では、全然違うのだ。俺は今までそんなことも気付かなかった。みんな当たり前に知ってることだろうに。そのことに少し気落ちする。



「あれ、なんで社食いるの!」

 社員食堂で昼食を食べていると、嶋野たちが入ってきて、俺に気付いた嶋野がずかずかと近づいてきた。

「なんでって……寝坊して弁当作り損ねた。あとコンビニ行くの面倒だったから」

「えー、なにハンバーグなんて食べてんだよー」

「今日の日替わり定食がたまたまハンバーグだからであって、俺が積極的に望んでハンバーグを選んだわけじゃない」

 そう返すと、なんだか蔑むような目で俺のことを見ている。

「……もしかして今日、ハンバーグのつもりだった?」

 嶋野は黙ってごくんと頷いた。

 なんか、わざとじゃないとはいえ……悪いことしたな……。


 昼休みが終わってデスクに戻ってきた嶋野は、ちょっと不機嫌そうだ。

「先程は失礼致しました」

「……まあ、あれくらいのミスは誰でもあるから。代替案はあるから気にするな」

「はあ、お手数かけます」

 わざとやったわけではないのに、変な罪悪感が残ってしまった。

 嶋野が毎朝うちで弁当作って渡してくれるわけじゃないんだから、こういう偶然は今後も起こるだろうに。


 どんな言葉をかけるべきか、どんなメールを送るべきか。即座に対応出来ない、そういう技量のない自分がつくづく嫌になる。嫌だからって逃げ回ってきたツケを支払う時が今なのか。


『からあげ、ちくわの入ったきんぴら、ささみとしそのフライ』

『なにこれ』

『弁当用の作り置きおかずのリクエスト』

『春巻き好き?』

『好き』

『俺特製の春巻きの具、ハムとコーンとたまねぎとチーズ』

『うまそうだね。楽しみにしてる』

 横目でちらと隣の席の嶋野を見やると、こちらを見てにやりとした。

 なんか、なんつーか……悔しい。でも、まあ。機嫌も直ったようだし。


 その日の夕飯は、ピーマンの肉詰めだった。

「こうすればハンバーグ感も薄まるだろ。このハンバーグ部分、半分豆腐なんだよ。豆腐ハンバーグも冷凍用に作り置きしてあるから」

 ああ、だめだ。こういうとこ、嶋野には絶対適わない。俺なら多分、ずっと拗ねてたままだった。どうやったら嶋野みたいに振る舞えるんだろう。他人をうらやんだって仕方がないのに。

「……早起きするよう頑張る」

「なに、その夏休みの目標みたいなの」

 ちゃんと毎朝弁当が作れるように、早起き出来るようになろう。ローテーブルを挟んで向かい合って座る嶋野の顔を見て、そう思った。

「こないだのDVD、もう返しちゃった?」

「ある。もっかい借りてきた」

 食後に水出しコーヒーを淹れて、2人でだらんと寝転がって映画を観る。横目でちらと嶋野を見ると目が合って、逸らすと、ちょっと笑って頭を撫でてきた。

「……なにすんだ」

「撫でて欲しいのかと思った」

「そんな訳ないだろう」

 頭の上の手を払いのけても、にこにこ笑ってる。適わないなあ。

「氷で薄まってないアイスコーヒーってうまいね」

「アイスがあるからフロートも出来るけど」

「いいね。それやりたい」

 1人じゃない夜は短いなあ。


 頭の中と、胃の中を着々と占有されていく。それでもまあ、いいかと思えてしまうのはなんでなんだろうな。他の誰かじゃなくて、嶋野だからなんだろうか。

 人と人との距離を測るのは、プラスチックの固い定規じゃなくて、ふにゃりと伸び縮みするメジャーなんだろうか。

 胸の内に何かがじわりと溶け込んできて、だんだんと変わっていくのを知っている。濁っているのか、澄んでいくのか、まだよくわからないけれど。

 確実に何かが変わっていることだけはわかる。


 呑み会が入ったというメールをもらい、1人分の食事の用意をする。

 冷凍しておいた御飯とおかずをレンジで温めて、インスタントのみそ汁を作って、お茶を入れて。食べようとしたら、嶋野からまたメール。

『俺がいないとどうせインスタントばっか食べてんだろ』


 1人でいたってこうして、嶋野が作った料理を食べている。誰かが自分の為に時間と感情を費やして作ったものが、冷凍庫に詰まっている。

 いつでもそれを味わえるように。

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