変わる、変わる。
十年もあれば、人間は変わる。
十歳だった少年は二十歳の青年になり、背丈が伸び精悍な顔つきになり髪を伸ばす。
「……なんでお前が髪伸ばしてんだよ」
鬱陶しいから切れよ、と
鐇は大して抵抗もせず笑う。
「友佳さんの真似です」
「気持ち悪ィことすんじゃねえよ馬鹿」
言いつつ、友佳は自らの髪をまとめている紐を取って鐇に押しつけた。
「せめて結べ。見苦しいんだよ」
「……結び方分かんねえっすわ」
困ったように笑う鐇。
顔をしかめる友佳。
「お前本当に何も知らねえんだな。よく今まで生きてこられたな」
「お陰様で」
「変な社交辞令だけ覚えやがって、糞が」
「しゃこうじれいって何ですか?」
「辞書引け馬鹿野郎」
鐇の頭をはたいて、彼の手から紐を奪い取る。
「よく見とけ。後ろで髪の毛まとめて、こうして、ここ交差して引っ張って」
「へえ」
鐇は友佳が髪を結ぶところを、楽しそうに見ている。
友佳は舌打ちをして、また髪をほどき、もう一度紐を投げつけるように渡した。
「それやるから、その髪なんとかしろよ」
「くれるんですか?」
「ただの紐だ。笑うな喜ぶな気持ち悪い」
水浦鐇は十年前、とある事件によって右腕を失い、路頭に迷っているところを友佳の父親が拾ってきた。
ろくに読み書きも出来なかった鐇に字を教え、眠る場所と食べ物を与えて、仕事もさせた。
母親も子供が一人増えたようだと喜んでいたことを、友佳はよく覚えている。
それからしばらく経つと父親は早くに肺病で死に、友佳が店を継ぐことになった。
「今、それ作ってるんすか」
「だから何だよ」
「いや、格好良いなあって思って」
友佳が継いだ「かえり屋」は、義手や義足を扱う店だ。
鐇の右腕にも義手を作ってやれば良いのに、と周りの人間には散々言われた。いまだに言ってくる者も居る。
「……俺は客にしか作んねえぞ。大して役にも立たねえ下働きに作ってやったところで、これっぽっちも得がねえからな」
「じゃあ、じゃあ」
楽しそうな声で、子供のように鐇は言う。
「じゃあ、俺がお金貯めて、それ払ったら、友佳さん俺に義手作ってくれるんすか」
「金払ったらな」
ぶっきらぼうに言い、店前の掃除でもしてこいと言葉を続けた。
鐇は大声で返事をして、部屋を出ていく。
鐇が十歳でここにやって来て。
その当時、友佳は十六歳であった。
中学校の五年生で、結局退学になってしまったのだが、それでもまあそれなりに青春というものを経験した。
それも過ぎ、気がつけば友佳の人生は四半世紀と少しになっていた。
十年もあれば人は変わる。
充分に、変わってしまう。
「友佳さあん」
やや感傷的になっている友佳に、先程出ていったばかりの鐇の声が降った。
「てめえ、話聞いてなかったのかよ。俺は店先の掃除をしろっつったんだよ」
「いやあ、あの、
「朝ヶ原だァ?」
何しに来たんだあの野郎、と作業をしている手を止める友佳。
「お前さっさと掃除しに行け」
そう言い残して、友佳は作業部屋を出た。
朝ヶ原時宗。
十年前別れを告げたはずの同級生。
学校をやめたことを期にもう二度と会うこともないだろうと思っていたのだが、予想外にぐずぐずと関係は続き、お互い大人になっても手紙で近況報告をし合う程度には付き合いがあった。
十六歳の当時中学生だった朝ヶ原は、二十六歳になり政治家になった。
貴族院の議員として、彼の言うところの「社会にとって有益な人間」になっている。
「よお、入れよ」
店先に突っ立っている背広姿の男に声をかけ、客間に通す。
「ご多忙な政治家先生が何の用だ。茶でも入れるから待ってろ」
「いや、いい。構うな。時間がないのは事実だから、手短に話す」
「そうかよ」
皮肉が通じない相手なのは、もうとっくに知っている。
朝ヶ原の正面に座り、とっとと話せ、と努めて素っ気なく言った。
「先日、婚約を結んだ」
「ふうん。誰がお前みてえな仕様もねえ男と結婚するんだよ」
「
「しのざき……って、財閥の? 嘘だろ?」
「そんな嘘をつくために時間を割くほど俺は暇ではない」
十年もあれば。
十六歳だった少年は二十六歳になり、学生から政治家になり、一人称が僕から俺になり、財閥の令嬢と婚約もする。
「嘘だろ……」
「何度も言わせるな。事実だ」
朝ヶ原は真顔である。
「……そんな大層な家と婚約ってことは、お前が婿入りすんのか。確か一人娘だったろ、嗣之崎家って」
「いや、こちらが妻をめとる形になる」
「嘘だろ」
「お前は何度同じことを言うんだ」
何から言えば良いのか分からず、友佳は一度天井を仰いだ。
朝ヶ原は表情を変えない。
「一から説明しなくては駄目か。いつまで経っても馬鹿だな」
「よくも一から説明しないでどうにかなると思ったもんだな。馬鹿はお前だ」
同時にため息をつく。
この関係も、十年かけて少しずつ変化した末の現在だ。
「結論から言うと、嗣之崎家の娘が一人だというのは虚偽だった。実際のところは妾の娘がもう一人居て、それを恥じた嗣之崎が隠していたのだ」
「ふうん」
「その娘は異国の血が混じっていて、それも世間体の悪い要因のひとつだったようだ」
「で、その娘を貰ったってことか?」
「まだ貰っていない。婚約を結んだだけだ」
「いつ結婚すんだよ」
「五年後だ」
「ずいぶん気の長い縁談だな」
「これでも最短だ。彼女は当年取って十歳なのでな」
「……ああ」
あーあーあー、と友佳は何度も頷く。
その顔には呆れたような笑みが張り付いていた。
「異常性癖は一生もんだな」
「俺は異常ではない」
「異常だよ馬鹿野郎」
朝ヶ原時宗の少女への執着は、友佳だけが知っている彼の秘密であった。
「まあ、おめでとうは言っといてやる」
「ああ」
「話はそんだけか」
「ああ」
「じゃあ帰れ」
「その前にひとつ訊きたい」
あの青年は、と朝ヶ原は店先の方向を指差す。
「あの青年の名は、確か水浦だったな」
「ああ、そうだよ。水浦鐇」
「……そうか。兄に殺されかけて腕を失って、ここに来たそうだな」
「うん」
「もうすぐここにも報せが来るだろうが、その兄が亡くなったそうだ。自ら舌を噛んで」
「……そうか」
十年もあれば。
人ひとり、自殺をしてしまう。
「事前に知っておいた方が、お前もあの青年にどう伝えるか考える余裕が出来るだろうと思ってな」
「そりゃあ、お気遣いどうも」
「ああ。それじゃあ……」
と、立ち上がる朝ヶ原。
しかし去る様子もなく、立ち上がったまま友佳の顔をじっと見つめている。
「何だよ気持ち悪い。言いたいことあんなら言えよ」
「……お前の髪はずっとその長さだな」
「はあ?」
「馬鹿のように長いが、伸ばしっぱなしというわけでもない。その腰までの長さを、ずっと保っている。何故だ?」
「存外女受けが良いんだよ。きゃあ、見目麗しい御婦人かと思いましたわ、綺麗な髪の毛ねってな」
「俗物が」
「俗世に生きてるもんでな」
「一生そこに居ろ。……それじゃあ、今度こそ」
また、と言って朝ヶ原は去っていった。
友佳はしばらく座ったまま朝ヶ原の居た場所を眺めていたが、やがて客間を出て、店先に出た。
「鐇」
言いつけたとおりに、片腕で器用に掃除をしている鐇に声をかける。
はい、と明るい返事と共に振り返る鐇。
「お前の兄さん、死んだってよ」
朝ヶ原に与えられた考える余裕を放棄して、何も考えずそう告げた。
伝え方を変えたところで結果は変わらない。
むしろ胸のうちでああ言えば傷つけてしまう、こう言えば悲しませてしまうと考えていては、友佳の方が耐えられなくなるのだ。
「……そっかあ」
鐇は少しだけ目を丸くして、ぼんやりと呟く。
「死んじゃったんだ、兄さん」
いくら殺されかけたとは言え、たった一人の親族を失って、正真正銘独りぼっちに。
想像したくない。
憐憫に顔をしかめて、友佳はどこか遠くを見ている鐇の肩に手を置いた。
「……今日は何もしなくて良い」
「え、何でですか?」
「何でってお前……兄さん、死んだんだぞ」
「ああ、俺のこと心配してくれてるんすね」
平気です、と鐇は笑う。
「俺、兄さんのことあんまり思い出せねえから、なんか、そんなに悲しくねえんすよ。だってもう、長いこと会ってないし」
何だよそれ、と口の中で呟く。
十年あれば。
家族のことも忘れてしまうのか。
そこまで、変わってしまうのか。
「……そうかよ。ああ、そうなんだな」
自分が今どんな顔をしているのか、友佳には分からなかった。
こんなふうになってしまうのならば、最早この世に変わらないものなんてないのだろう。
それならば、それで良い。
十年もあれば。
少年は青年になり、外見が変わり、一人称が変わり、職業が変わり、縁談が持ち上がり、家族のことを忘れる。
不思議そうな顔をしている鐇に背を向ける。
作業部屋に戻ったところで全身の力が抜け、壁を背にずるずると座り込んだ。
時間が経つから、全て変わる。
十年もあれば。
十年もあれば。
「うるせえよ……」
意識を失うようにして、友佳は眠った。
「と、友佳さん、友佳さん! 友佳さん!」
強く肩を揺すられ目を覚ます。
鐇の顔が眼前にあった。
「し、死んじゃったかと思いました。具合悪いんですか、お医者、お医者呼びますか」
「いい。寝てただけだ」
立ち上がると、少し目眩がした。
鐇は泣きそうな顔をして、大丈夫ですか大丈夫ですかと繰り返している。
「寝てただけっつってんだろ」
「でも、そんな、こんなところで寝るって、絶対変ですよ。せめてちょっと休んだ方が」
うるせえ、と怒鳴ろうとして、口を閉じる。
ここで鐇に大声を出しても、それは理不尽というものである。
周囲から大人げない、いつまでも子供だとよく言われる友佳ではあるが、それが分からないほど馬鹿ではない。
「……」
そう。
友佳は、いつまでも子供だと言われる。
昔から変わらないな、と。
「……変わんねえわけねえだろ」
「え?」
「独り言だ。……そうだな、今日は休む。鐇、お前も休め」
「俺は元気ですけど……」
「馬鹿。お前一人だと何して良いか分かんなくてすぐ俺んとこ来るくせに、俺だけ休めるかよ」
はあ、と気の抜けた返事をする鐇。
「それと、気が変わらねえうちに言っとく」
「何をすか?」
「明日、髪切る」
「俺の?」
「誰がてめえのこと言ったよ。俺のだ馬鹿」鐇は、えええ、と大声を出した。
兄が死んだと言われたときよりも、ずっと驚いたようだ。
なんとも言えない感情が指先まで広がった。
友佳は鐇を押し退けて、扉を開く。
「おやすみ、鐇」
「あ、おやすみなさい」
鐇が背後で笑った。
変わるか忘れるかするまでは、友佳が鐇の家族である。
その日友佳は部屋に籠って、ひたすら眠った。
もう一生分寝たかと思うほど眠って、気がつけば次の日になっていた。
「ねえ鐇から聞いたけど、あんた、髪切るって本気?」
朝になって居間にやって来た友佳に、母親が訊ねる。
おお、と覇気のない返事をして、友佳は用意されていた朝食に手をつけた。
「本当に良いの?」
「俺の勝手だろ」
「そうだけど……ずっとこの長さだったのに急に切るなんて言い出すから、母さん、たまげちまって」
そう言って少し寂しそうに笑う母は、もう老人に近かった。
あんなに綺麗だった母も、二十六年も自分を育てて白髪も皺も増えてしまった。
朝食を食べ終えて、髪を切る用意をする。
母親は鋏はどこに置いたかねと呟きながら、別の部屋へ行ってしまった。
残ったのは、友佳と鐇だ。
「何で急に切る気になったんすか?」
「邪魔になったからだよ」
「それじゃあ、何で今まで長いままにしてたんすか?」
「……」
昨日、朝ヶ原にも同じことを訊かれた。
これまで何度も何度も、様々な人間に同じことを訊かれた。
その度に友佳はいい加減にはぐらかして、お前はまたそんなことを言っているのか、と呆れられることで場を収めてきた。
そして今、友佳は質問には答えず、微かに口角を上げる。
「……十年ってよ、長いよな」
「は? え、えっと、そうすね。十年前っつったら、だいぶ昔です」
「十年経っても何一つ変わらねえ人間なんて居ねえよな」
「居ない、ですかね。よく分かんねえっす」
居ねえんだよ、と友佳は断言した。
「俺は声変わりが遅くてよ。ずっと女みてえな声してた」
「えっと……」
あちらこちらへ飛ぶ話題について行けず、困惑した顔をする鐇。
友佳は皮肉げに微笑したまま言葉を続ける。
「十年前な。俺は何日かだけ、少女だった」
「……は?」
友佳は知っていた。
朝ヶ原の少女への執着を。
自分が少女であったことを。
知っていた。
「声変わりして、俺は俗物に落ちた。だからあいつにお別れだと言った」
しかし関係は、うだうだと続いた。
「……その途切れなかった繋がりを、俺は変わらねえものだって錯覚したんだよ」
あのとき、決定的に変わってしまったのに。
友達という形に、堕してしまったのに。
気づかなかった。
「朝ヶ原、五年後に結婚すんだって。俺みたいな即席の偽物じゃねえ、本物と」
十年もあれば。
人は変わる。
「何で髪をこの長さにして居たかって?」
当然、友佳も変わる。
時間が経つから、全て変わる。
「時間を、止めたかったんだよ」
変わりたくなかったから。
少女のままで、居たかったから。
しかし変わってしまったから、変わってしまったものは二度と戻らないから、もう良いのだ。
十年かけて、友佳はようやく、恋を諦めた。
変わる、変わる。 九良川文蔵 @bunzou
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