芋虫

水浦刀一みずうらとういちは、誇り高き帝国陸軍の上等兵であった。

体が強く頭が切れる刀一は昇進も間近だと、誰もが噂していた。

しかし、昨年暮れの飯之島作戦にて刀一の傍らに瑠弾が落ちた。

刀一は左の手足を失い、軍人として無価値になって戻ってきた。



刀一には親が居ない。

居るのはたつきという名の、年の離れた弟だけだ。

鐇は刀一が職を失ったことを期に学校に行くのを諦め、兄の世話をしつつ働くことを決めたが、家はぐんぐん貧しくなり、住む家も変わった。

それでも刀一は廃兵院に入ることを拒み、弟と二人で暮らしていた。

やがて春が来て、夏が過ぎ紅葉も落ち、二度目の冬。

「風にあたりたい」

「分かった」

古ぼけた車椅子を押して、鐇は外に出る。

空気は冷たく、顔に鋭い痛みが走った。

今日は一段と寒いな、冱寒というやつだなと刀一は言う。

「ごかんって何だよ」

「とても寒いということだ」

ろくに字も読めない弟。

鐇の無学は自らの怪我のせいであり、また自分がいまだ生きているせいである。

刀一はそれを申し訳なく思ってはいるが、謝ってしまうのは誇りを捨てることと同義だと自分に言い聞かせていた。

「帰ろう」

「もういいのか」

「寒いからな」

そう言って、刀一は笑う。

家に入っても寒いことには変わりないのに。

部屋に戻ると、弟はすぐに袋詰めの内職を始めた。

両手を使って。指先を動かして。

刀一はその様子をじっと眺める。

片時も目を逸らさずに見つめて、やがて眠りにつくのを常としていた。

気がつけば刀一は戦場に居た。

銃声と泥のついた軍靴の音。

ああ懐かしいと思いながら立ち上がろうとして、出来ない。

何度試しても立ち上がれない。

四肢はきちんとついているのに。

「兄さん」

頭に降りかかった声。

鐇が立っている。自分を見下ろしている。

両の脚で、立っている。

無我夢中で鐇の手を掴もうとし、刀一は夢から覚めた。

布団の上に寝転がっている自分。

傍らには眠っている鐇。

首を動かすと、部屋の片隅に置いてある古びた車椅子が目に入った。

右の手で、自らの左腕を探る。

生えているはずの左側を探す。

しかしどれだけ探しても、左腕は根本からぽっかりと消え失せている。

なんとか上半身を起こして、右腕でありもしない左脚を掴む。

その気配に気づいたのか、眠っていた鐇がもぞもぞと動き出した。

「……兄さん? 便所か?」

「いや……すまない、起こしてしまったな。何でもないから、休め」

「うん、おやすみ」

「おやすみ」

再び鐇の寝息が聞こえ始める頃、刀一はまた布団の上に身を転がした。

妙に喉が乾いて、居心地が悪い。

この居心地の悪さはどこから来るのか。

どんなに探しても左側はない。

どこにもない。

どこにも。

鐇が寝返りを打った。

「……あるじゃないか」

弟の四肢はきちんと揃っている。

自分とは違って、四本生えている。

役立たずの兄さんの代わりに、その腕を堪能に動かしておくれ。

その脚で、地を走っておくれ。

眠りかけの曖昧な思考で、そう繰り返す。

そうしているうちに、刀一は深く眠った。



晴れた日であった。

連日続く寒さの中で、ほんの少しほっとするような日和であった。

「鐇」

車椅子の上。

窓の外を見ながら、刀一は鐇に声をかけた。

鐇は内職の手を止め、返事をする。

「包丁を、買ってきてくれないか」

「分かった」

理由も聞かず、疑いもせず、ただ笑って頷く鐇。

「肉切り包丁を頼む」

「分かった。お金貯めて絶対買うから、ちょっと辛抱してな」

「……ああ」

ありがとう、と言って口を閉じる。

麗らかな日と無知な弟。

そこに自分は要らなくて、刀一はどうしようもなく異物で。

居心地が、悪い。

それは自分が役立たずだからであり、軍人であった頃の誇りをもて余しているからでもあった。

「……」

誇り。

没落した誇りほど邪魔なものはない。

重くて重くて押し潰されそうなのに、手放すことも容易ではない。

鐇は軽そうだ。

その伸びやかな手には何も抱えておらず、その脚は軽やかに地を踏んでいる。

妬ましいほどに。

鐇を見ていると、どす黒い感情がむくむくと膨らむ。

最初は否定していたが、もう刀一が否定したところでどうにもならないほど、黒い感情は刀一の中で大きくなっていた。

腹の底から溢れて、頭の中まで満たし、あるはずのない左側にまで差し迫っている。

だから。

だから、仕方ないのだ。

これは当然の感情なのだ。

無い物ねだりをしない人間は居ない。

刀一は自分がまだ人間であることを、そんなことでしか感じられなかった。



鐇は自分の食べるものを切り詰め、少しずつ金を貯め始めた。

全ては刀一のために、刀一が欲しがるもののために。

やがて景色が春めいてきた頃に、鐇は貯まった金で言われたとおり肉切り包丁を買ってきた。

嬉しそうに、さあ褒めてくれと言いたげに包丁を差し出す鐇に、刀一は微笑みかける。

「鐇は、兄さんによく尽くしてくれているな」

「家族だからな」

笑う。

「父さんも母さんも死んで、もう二人しか居ないんだ。俺は兄さんのために生きるよ」

笑う。

笑う。

笑う。

鐇は笑っている。

何も疑わず笑っている。

きちんと生え揃った四肢。

「……鐇」

「ん?」

「これは仕方ないんだよ」

「何が?」

「仕方ない、仕方ないんだ。兄さんは、人間だから」

残った右手で包丁を握り、振り上げる。

それでも鐇は笑っていた。

どず、と鈍い音がする。

「あ……?」

鐇の声。

ひどく間の抜けた、呆けた声。

笑顔は固まり、やがて歪む。

「あ、あ、あああ、ああああああ」

上がる悲鳴。

腕に深く食い込んだ包丁。

「仕方ない、仕方ないんだよ鐇」

言いながら、刀一は包丁を引き抜いてもう一度鐇の腕に叩きつける。

目の前にあった、鐇の右腕に。

鐇が叫ぶ。獣のように。

千切れかけた腕からだくだくと血が流れる。

「い、たい、痛い、痛い」

痛い痛いと鐇は泣き叫ぶ。

その声に、刀一の中を満たしていた黒いものが弾けた。

弾けて、すうと引いていく。頭が冷静になっていく。右手には肉切り包丁。目の前にはうずくまり叫ぶ弟。

「……あ、あ」

なんてことを、と口走る。

冷静になった頭に、混乱が押し寄せる。

「た、たつき、すまない、すまない」

包丁を放り出し、車椅子から倒れるように降りて、這って鐇に近づく。

「兄さんが、悪かった。許してくれ」

鐇の右腕は、もう皮一枚で繋がっているだけであった。

もう切断するしかないと、医学の知識がほとんどない刀一にも分かった。

「ゆ、許してくれ、鐇、鐇」

どれくらい時間が経ったか。

ほんの数分にも、一時間程にも感じた。

どたどたと足音がして、扉を蹴破るようにして憲兵が入ってきた。

悲鳴を聞きつけた隣人か誰かが呼んだのだろう。

刀一は身柄を確保され、鐇はどこかへ連れていかれた。



それから、窓のない部屋に入れられて。

様々な人間に様々なことを訊かれたが、刀一は全て上の空であった。

しばらくしてから、鐇が一命を取り止めたことを知らされた。

それさえも上の空の刀一はもう、体を満たしていた黒いものがまるごとなくなった、脱け殻であった。

半年か、一年か、それくらい経った頃。

弟が会いに来ているぞ、という声が降ってきた。

久しぶりに見る鐇は背丈と髪が伸びていて、顔も大人び、刀一に似ていて。

右腕は、肘の上辺りから千切れていた。

「兄さん」

鐇は嬉しそうに笑う。

「た、つき」

刀一の顔が恐怖に歪んだ。

「すまなかった。兄さんが、全て悪かった」

すまない、すまないと繰り返す刀一。

俺は許されないことをした。

絶対に許されてはいけない。

死んで償ってもまだ足りないのだ。

一生謝り続けて……。


「ゆるす」


押し寄せる思考は、鐇の声で止まった。

ゆるす?

許す?

「そんなことより、兄さん、俺な、今かえり屋っていう店で住み込みで働かせてもらってるんだ。親父さんも奥さんも優しくてさ、友佳さんっていう俺より六つ年上の息子も居るんだけど、格好良いんだぜ」

ゆるす、ゆるす、ゆるす。

刀一は何度も頭の中で繰り返す。

そんな一言で済ませられてしまうなら、俺は一体何だったのだ。

俺の人生は、誇りは、黒い感情は、その三文字で終わってしまう程度のものだったのか。

「あ……ああああ」

叫ぶ。

刀一はもう、まともではなかった。

刀一を辛うじて踏みとどまらせていた何かが、鐇の声に押し流され、消えてしまった。

最後に見えたのは、以前と何も変わらない、鐇の笑顔であった。



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