変わる、変わる。
九良川文蔵
神聖なりや?
男は楽で良いと言う者が居る。
女は腹黒く、すぐに嫉妬し、他人の悪口を言うから、と。
そんなことを言う人間はただの馬鹿か、あるいはこれっぽっちも世間を知らない可哀想な籠の鳥である。
男の中にだって黒い感情はあり、嫉妬もするし悪口も言い合う。
そして殊更に狭い子供の世界、つまり学校には男だろうが女だろうが人間のヒエラルキーがあるのだ。
甲斐燕中学校も、それは例外ではなかった。
金持ちの子息が通う、優秀で清潔な学校というのが外部の人間の評価。
恐らく間違ってはいないのだろうが、そう夢を見られても困る。
「おい、今日もあいつ居ないな」
「授業が面倒だから逃げたんだ」
ひそひそと、それでいてやかましく鳴る声。
あいつとは
財閥や貴族の御曹司が大半を占めているこの学校で、ただの義肢装具士の息子である帰木はヒエラルキーのどん底に居る。
おまけに成績が悪い。
授業態度はすこぶる悪い。
そんなふうだから学校内では名前を呼ぶことさえタブーとされ、常に「あいつ」として噂の種になっていた。
「……」
僕は「あいつ」について何も言わない。
言えない、と言った方が正確だろうか。
「それに引き替え、落武者は今日も来ているぞ」
「死んだんじゃなかったのかよ」
今度は僕に向けられた、ひそひそとやかましい声。
ヒエラルキーのどん底に居るのは、帰木だけではない。
軍人の息子にも関わらず体が弱くて軍学校に行けなかった僕は、「落武者」と呼ばれ遠巻きに蔑まれている。
落武者というのは戦いに敗れ逃げている武士のことであり、そもそも戦場に立てなかった僕をそう呼ぶのは根本的に間違ってるが、細かい言葉の差違など関係ないのだ。
重要なのは対象が「見下せる存在である」ということだ。
それ以外のことなど、二の次である。
一日の授業を終え、教室を出る。
屈強な肉体を持たない僕は、勉強をするしかない。
頭でっかちと言われようが何だろうが、僕が社会にとって有益な人間になるにはこうするしかないのだ。
大声で談笑している同窓生を横目に、足早に校門をくぐった。
一人で歩く通学路を、寂しいとも思わない。
耳に張り付く噂話と、傍らに流れる川の水音。
やけに静かで、気分が落ち着く。
「
唐突に名前を呼ばれた。
僕はなんとなくむっとして、ゆっくりと声のした方を見る。
そこには、「あいつ」が居た。
帰木友佳。
女のような名前に似合った長い黒髪と、息が詰まるほど整った顔立ち。
そして。
「朝ヶ原だろ。間違ってねえよな」
そして、女のような声。
僕を含め、同い年の少年達が次々と声変わりして男になっていく中、帰木だけは甲高い声のままであった。
僕が黙っているのを見て、帰木は訝しげな顔をする。
「俺だよ。帰木」
「……見れば分かる」
そう答えてまた歩き出した。
後ろから足音が追いかけてきて、視界の端に帰木の姿が映る。
「お前落武者って呼ばれてるんだって?」
楽しそうに弾む声。
「だったら何だ」
僕の声は低く不機嫌だ。
意図的にそうしている。
理由は特にないが、なんだかこいつと楽しく話すことが気に食わないのだ。
「いや、随分な名前だと思って」
「わざわざ嫌味を言うために待ち伏せをしていたのか。無意義な時間の使い方だな」
「そう言うなよ。なあ、落武者はなんでいつもそんなそそくさと帰るんだ?」
「お前に落武者と呼ばれる筋合いはない」
「他の奴には呼ばれる筋合いあるのかよ」
「うるさい」
「あ、言い返せないんだろ」
笑う帰木は、どこからどう見ても女のようであった。
それが余計に腹立たしくて、僕は立ち止まる。
「僕もお前も人間の屑だ。ヒエラルキーのどん底だ。なんの役にも立たん、無益で無力な子供だ」
「だから何だよ」
「屑同士で話すだけ無駄だ」
そう言って僕は帰木を睨んだ。
その瞬間、風が吹いて。
夕日が溶けた空を背景に、帰木の艶やかな長髪が揺れた。
「……」
僕は、黙った。
ひるんだと言った方が正しい。
何故、何故。
人間の屑なのに。
ヒエラルキーのどん底に居るのに。
帰木友佳を、とても高貴に感じた。
今まで話していた者と同一だということが、信じられないほどに。
美しいと、思ってしまった。
「……何だよ」
帰木が訝しげな顔をする。
整った顔を歪める。
僕は我に返り、また足早に歩き出した。
「おい、朝ヶ原。なんだってんだよ」
背中に甲高い声が張り付いたが、やがてそれも聞こえなくなり、気がつけば家に着いていた。
扉を開けば、使用人が出迎えが待っている。
おざなりな返事をして自室に飛び込む。
机に向かって教科書を開いたが、動揺で手が震え、まともに鉛筆が握れない。
あれは少女だ、と。
そう思った。
帰木友佳は神聖なる少女であると。
黒い感情も嫉妬も悪口も届かないところに居る生き物だと、思った。
人間なんて男も女も、自分を含めて、ただの俗物のはずなのに。
帰木は、神聖であった。
その日は食事もろくに取らず眠った。
何かの夢を見た気がしたが、忘れた。
翌日になって、また教室へ向かう。
席に座って予習を始めると、同級生がざわざわと騒ぎ出した。
あんまりやかましいので顔をあげると、ちょうど帰木友佳が乱暴な仕草で自らの席に座ったところであった。
「おい、どうしてあいつ今日は来てるんだ」
「知らないよ」
「勉強なんか出来る頭持ってねえだろ」
帰木は周りの言葉の一切を無視して、黒板を睨んでいる。
僕は話しかけるに話しかけられず、また帳面に視線を落とした。
やがて教師が入ってきて、帰木の姿に目を丸くする。
何か言おうとしているが、何から言えば良いのか分かりかねているような顔であった。
帰木は退屈そうな顔をして、一日中ぼんやりと授業を受けた。
僕は帰木が気にかかり、教師の話をいくつか聞き逃した。
一日のやるべきことが終わり、解放された少年達はまた好き勝手話し出す。
帰木はひとつため息をつくと、さっさと教室を出ていってしまった。
そのあとを追いつつ、僕の頭は真っ白になっていった。
毎日詰め込まれる知識だとか、将来へ役立てるための見識だとか、そういったものが剥がれていくのを感じる。
全て剥がれてしまったあと僕には何が残るのであろうと、そればかりが微かに不安であった。
また川沿いの道に到達したところで、帰木は不意に足を止めて振り向いた。
「よお、落武者」
僕は真っ白になった頭に、ただ帰木の姿を刻みつけた。
甲高い声も、長い髪も、残さず取り込んだ。
やはり、神聖な少女にしか見えない。
「お前も来るか」
「……どこへ」
「廃兵院」
「何故そのような場所に……」
「俺の親父の職業知らねえのかよ」
帰木友佳の親。
義肢装具士だ。
帰木はまた前を向いて歩いていってしまう。
僕は少し躊躇ってから、そのあとをついていった。
廃兵院など存在を知っているくらいで、いわんや入ったことなどない。
帰木は目の前の大きな門を当然のように開けて、ついて来いと手招きした。
建物内に入ると、そこには。
虫が居た。
かろうじて人の形を残した、虫が。
虫達は帰木を二代目と呼んで群がった。
「おお、二代目が来てくだすった」
「二代目、二代目」
「親父さんは一緒じゃないのかい」
脚がない者、腕がない者、盲いた者。
帰木は平然と笑っている。
笑って、虫と話している。
僕は息が出来なくて、呼吸が出来る場所を探した。
「おい、朝ヶ原」
虫を掻き分けて、帰木が僕の許へ来た。
「顔真っ青だぞ。大丈夫か」
外行くか、と帰木の声。
気がつけば僕は手を引かれ、壁を背に庭園を見ていた。
思いきり息を吸い込み、吐き出す。
隣に帰木が居る。
少女が、居る。
日は傾き空は赤く、昨日の光景をもう一度見られる気がした。
「学校ってつまんねえよな」
少女は言う。
「あんな場所に軟禁されて、何が楽しいんだかな」
「……楽しい楽しくないの話ではないのだ」
「ふうん」
相づちを打って、帰木は目を細める。
その横顔を見ながら、今度は僕の方から口を開いた。
「……ここは」
「ん?」
「ここは、お前に相応しい場所ではない」
僕の言葉に、細められていた帰木の目が見開かれる。
「お前は神聖だ。あのような虫と接するべきではない。お前は……」
少女なのだから、と言おうとして。
最後まで言うことは出来なかった。
言い切る前に、帰木が思い切り僕を殴ったのだ。
貧弱な僕の体は、情けなくも吹き飛ぶ。
「虫って何だよ!」
感情的な、甲高い、少女の声。
痛む頬を押さえ見上げると、そこには歪んだ顔があった。
軽蔑を一杯に込めた目があった。
「お前なんか友達じゃねえ。どこにでも行っちまえ」
その言葉に、なんと返したのか。
どのように廃兵院を出て、どのように帰路についたのか。
まるで覚えていない。
気がつけば僕は、母の部屋に居た。
母に、事の顛末を話してしまっていた。
「それはお前が悪うございますよ」
母はゆっくりと首を横に振る。
「傷痍軍人さんのことは知っていますね」
「知っては……居ましたけれど。見たのは初めてでしたし、それに」
「お前は軍人さんの誇りを踏みにじったのですよ」
「でも……」
「今回のことはお前が悪うございます。明日お友達にお謝りなさい」
「……はい」
謝れと言われたところで、誰に謝れば良いのだろう。
お前なんか友達じゃねえ。
帰木の言葉を思い出した。
お前なんか友達じゃねえ。
どこにでも行っちまえ。
帰木の歪んだ顔を、軽蔑の籠った目を、何度も何度も思い出した。
謝ろう、と心に決める。
謝ろうとは思ったが、実際のところは謝りたいのではなく、許されたかった。
帰木に許してもらいたかった。
「お前も軍人さんになれたら、それがどれだけ名誉な生き方か分かったでしょうにね」
母は少しだけ笑った。
次の日、帰木は学校に来なかった。
その次の日も、次の次の日も来なかった。
当然と言えば当然だ。そもそも学校に来ている日の方が少なかったのだ。
僕はずっと帰木に謝れないまま、帰木に許してもらえないまま過ごした。
やがて夏が訪れる頃、帰木が学校を退学になったと風の噂で聞いた。
焦った僕は教師から帰木の家の住所を聞き出し、休日にそこへ向かった。
『かえり屋』と書かれた古ぼけた看板。
戸を叩くと、帰木の母親らしき女が出てきた。
その顔立ちは帰木友佳によく似ていて、血が繋がっていることが確信できた。
「唐突にすみませんが、帰木友佳……さんはいらっしゃいますか」
女は黙って、じっと僕を見る。
「僕は朝ヶ原時宗といいます。友佳さんの」
友人です、とは言えなかった。
お前なんか友達じゃねえ、という声が頭の片隅で鳴った。
「……友佳さんの、同級生だった者です」
「そう。ごめんなさいね、せっかく仲良くしてくれていたのに、馬鹿息子で」
どうぞ入って、と客間に通されて。
友佳、友佳、と母親が呼ぶ声が遠くで聞こえた。
五分、待つか待たないかのとき。
襖が開いて、帰木が入ってきた。
艶やかな長い髪。大きな目。高い鼻。
高貴な、神聖なる少女。
「……帰木、その」
なんと言い出せば良いのか分からない。
帰木は僕の正面に座って、黙っている。
「……悪かった。僕が浅はかだった」
帰木は何も言わない。
人形のように僕を見ているその瞳が、妙に神秘的で美しい。
帰木は、ふ、と微笑んで。
「お別れだ」
そう、言った。
僕はどうしたら良いのか分からなくなった。
「彼」はもう少女ではなかった。
帰木は、声変わりを、していた。
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