後編
彼の身になにが起きたのかを知ったのは、それから数日後のことだった。
その日は珍しく彼のほうから連絡があった。話があるから会いたいと云われて、それがいい話でないことはわかりきっていたにもかかわらず、私は少しばかり浮かれながら待ち合わせ場所へと向かおうとしていた。
ちょうど水曜日の夕方のことで、一週間のうちで唯一、定時に上がれる可能性のある日だったことも幸いした。お先に失礼します、とやけに高いテンションで宣言した私を、安斎さんはどこか心配するような目で見てくる。
「だっておまえ、こないだからなんか変だもんよ」
「えー、どこかですか?」
「どこがって、全体的に」
周囲の人たちも同意こそしないが、そのとおりだと云わんばかりの空気を醸し出している。
「なんつーの、テンションのアップダウンが激しいっての? おまえって前からそんなんだったっけ?」
ぎくりとした。
この数日、つまり、はじめて苧環に怯えたあの日から、狐はわたしの傍を離れようとしなくなった。否、正確に云えば、姿を消すことがなくなった。
常に隣にべったりいるわけではないのだが、その存在は常に感じられる。仕事中も、食事中も、寝ているときでさえも。
苧環は私の感情の振れに敏感で、なんでもないときには少し離れたところから――時には背後から――見守っているだけなのに、私が怒ったり悲しんだりするとそっと傍に寄ってきて慰め、喜んでいると一緒になって笑顔になる。
感情は共有によって振れ幅が大きくなるものだ。共振とでもいうのだろうか。
一緒に嘆いてくれる誰かがいれば、手を取り合って嘆くことができる。悲しみの沼のより深くに沈むことで、結果、早く立ち直れるようになる。いっしょにはしゃいでくれる誰かがいれば、顔を見合わせて笑うことができる。喜びの歌を高らかに謳う仲間がいれば、そのぶんだけ気持ちも高揚するというものだ。
苧環の姿は私以外の誰にも見えない。私はひとりではないが、傍目からはひとりにしか見えない。つまり、私はひとりきりでいるにもかかわらず、まるで誰かとともにいるかのような気配で日々を過ごしている、ということになる。
「そ、そうですか?」
いまもまた、苧環が傍に寄ってきた。誰かが近くにいるとき、私が狐と言葉を交わすことはないから、彼はなにかを気遣うような、なにかを云いたげな表情で三角の耳をわずかに伏せ、太い尾をゆらゆらと揺らしている。
あっちへ行っててよ、と私は思った。あんたのせいで、不審者扱いされてるじゃない。
「ま、別にいいんだけどよ。急にがくーんって落下してさ、なんてえの、鬱病? ああいうのになられても困るからよ」
「困るって」
そんな云い方ないんじゃないですか、と暗に責めれば、安斎さんは苦笑いをして云う。
「だっておまえが会社休んだり辞めたりしたら、絶対オレのせいにされるからな。オレはなんにもしてねえ、ってかむしろ、仕事教えてやってんだっつうの」
その教え方に問題があるとは思わないんだろうか、と私は思ったが口には出さなかった。安斎さんは仕事ができる。できる人にはできないやつの気持ちはわからないものだ。絶対に。私がなにを云ったところで、安斎さんの同意を得られることはまずないだろう。
まあ、いいや、と彼は肩を竦めた。
「さっさと帰れよ。嬉しそうにしやがって。」
デートなんだろ、とあからさまなセクハラ発言のあと、安斎さんはパソコンモニタに向き直ってしまい、呆気にとられた私がもう一度挨拶をしても、こちらを見ようともしなかった。
まだ明るいうちに会社を出るのはひさしぶりだった。知らず、腕を突き上げて背を伸ばし、大きく息を吐き出す。
「いっつもこれくらいの時間に帰れたらいいのになあ」
そうすればもっといろんなことを楽しめるような気がするし、勉強だってもう少しは捗るかもしれない。
実務経験二年の受験資格を満たすことができる半年後には、はじめての資格試験が控えていた。予備校に通う余裕のない私が一発で合格するとは思っていないが、せめて筆記試験だけでも通っておきたい。そうすれば、いまよりももうすこし多く、図面を描く仕事を任せてもらえるようにもなるだろう。いつまでも安斎さんのアシスタントでいたくない私にとっては、割と重要な通過点なのだ。
「急がねば、遅れるのではないかえ?」
秋の夕暮のひややかさをそのまま声にしたような調子で苧環が言った。
一緒にいる時間が長くなって感情の振幅が大きくなったのは、なにも私だけではない。苧環も同じだ。
狐は以前よりも、機嫌のよしあしを正直に表すようになっていた。あるいはそれは、単に私が狐の心に敏くなっただけのことなのかもしれないけれど。
ともかく、苧環は前よりももっと図々しくなった。
以前ならば人前では私に触れないようにしていた――私が急に飛び上がったり、くすぐったさに身を捩ったりしないよう――のだが、いまは違う。誰にも見えない腕を払い除けることができないのをいいことに、髪や頬にわざと触れてきたりする。ときどきは尻尾を使って脚や腹をくすぐったりもするのだ。
「あやつが待っておるぞ」
苧環の機嫌が悪いのはすぐにわかった。狐の独特の喋り方は、少しばかり本意がわかりづらいときもあるけれど、そこに込められている感情を読み誤ったりはしない。
私は苧環の不機嫌に
逆らっちゃいけない。怒らせちゃいけない。なにをされるかわからない。
私がそう思っていることに、もちろん苧環は気づいている。それでも、狐は私の感情を矯正しようとはしなかった。
きっとそれは正しいやり方だ、と私は思う。そのうち私はこの恐怖に慣れ、それを忘れて、以前と同じように苧環に接するようになるだろう。胸の底に、彼に対するほんのわずかなおそれを眠らせたまま。
狐はそれを待っているのに違いない。
「わかってる」
私は苧環を振り払うようにして、さっさと歩きはじめた。そんなことをしても現世に身を持たぬ存在にはなんの意味もないのだけれど、ようは気分の問題だ。
「浮かれておるの」
苧環がぼそりと呟いた。悪い? と私は云い返した。
「ひさしぶりのデートだもの。邪魔しないでよね」
「邪魔? そんなもの、するに決まっておる」
「標くんにはあんたのことが見えないのに? どうやって?」
からかうように云えば、苧環は涼やかな容貌をくしゃりと歪める。
誰にも見えない苧環は、それでも私を媒介にして周囲にその存在を知らしめることはできる。私を狐憑きにしてしまえばいいのだ。ひいおばあちゃんがそうだったように。
私と同じように苧環の姿を見、声を聴くことができたひいおばあちゃんは、ちいさな村のなかで狐憑きとおそれられ、遠ざけられた。心を病み、自分を失って、本当のところを家族にさえ理解されないままこの世を去った。
苧環は、そのことをとても後悔している。吾が多江の前に姿さえ見せなければ。吾が多江の言葉に応えなければ。吾が多江の心を慰めようなどと思わなければ。
その後悔は苧環を臆病にさせる。多江の、つまりひいおばあちゃんの血を受け継いだ私に狐憑きの汚名を着せてしまうことを、とてもおそれている。
図々しくはなっても、だから狐は私以上に周囲の目に敏感なのだ。
「……真優は、意地が悪いの」
拗ねたように苧環は云う。私はごく薄く笑った。
妖とはたしかに嘘のつけない存在なのだろう。そして、心やさしい存在でもある。
苧環ほどの力があれば、私を傷つけ、絡め取ることなど簡単なはずなのに、彼は決してそれをしない。狐のなかには私を伴侶と慕う気持ちがたしかにあって、戯れでも冗談でも、そして自分の想いを遂げるためであっても、私を傷つけることができないのだ。
恋人とはまるで違う。
そして、その空言を欲しがった私とも――。
待ち合わせ場所には、恋人がすでに待っていた。こんなこと、いままでにあっただろうか、となんだか可笑しくなる。
もう別れるから? これから傷つけるから? だからこんなにやさしいの?
「ひろちゃん」
ああ、彼は、これから別れ話をしようというときにですら、こんなふうにやわらかく笑うのだ。愛しいものを見るように私を見るのだ。
私は彼が大好きだった。彼の嘘が、大好きだった。
まず食事をしようかと言って、彼が連れてきてくれたのは、店内に南国の植物を生い茂らせたアジアンレストランだった。絞られた照明のせいか、まるで夜の植物園のようだ。
ひとつひとつの席がかかわりあいすぎないよう、かといって離れすぎないよう、店員の動線まで考えられたレイアウトは、どこもかしこも計算されすぎていて、むしろ息苦しいほどだった。店内を流れる人工のせせらぎさえもひどく窮屈に思える。
「おもしろいでしょ、この店」
この前、お客さんに教えてもらってさあ、と恋人はメニューを開きながらそんなことを言った。
「ひろちゃん、連れてきたら喜ぶかなってね」
「……なんで?」
田舎で育った私にとっての自然とは、人間にまるでやさしくないものの代名詞だ。こんなふうに行儀よく、人が作った屋根の下に納まっていたりなんかしない。
「なんでって、ひろちゃんの仕事。建築デザインなんでしょう? こういうの、おもしろくない?」
「こういうのはインテリアデザイン。建築とは似てるけど、ぜんぜん違う」
彼に倣ってメニューを開きながら、私は思わずそんなことを口にしてしまった。目と口をぽかんと開けて私を見つめる彼の表情に、自分の失言を思い知る。
「あ、ごめん。せっかく、私のこと、考えてくれた、のに。ごめんね」
「いいよ、別に」
刺々しい声で彼は云い、私のことを見ようともしない。
「あの、ごめんなさい」
「いいって。それより、決まった?」
「あ、まだ……」
いまにも舌打ちでもしそうな勢いで彼がメニューを閉じた。手を上げて店員を呼び、ずらずらと注文を口にする。
「決まった?」
あ、とか、う、とか私がまごまごしているあいだに、じゃあカシスオレンジね、と恋人が勝手に注文をしてしまった。え、と戸惑う私に、いつもそれじゃん、と云い捨てると、急いで持ってきて、と店員を追い返してしまう。
「なに? なんか云いたいことがあるなら云えば?」
「えっと、あの、たまには、ほかの、飲みたいかな……って」
恋人の目が剣呑に眇められた。
「なんかさあ。今日のひろちゃん、いつもと違うね」
「違う? 別に、違わないよ」
「違うよ。なんかいちいち文句つけて。どうしたの? なんかいやなことでもあった?」
仕事で、と恋人は椅子の背に凭れかかりながら付け加えた。
この人はきっと、私が自分に不満があるなんて思いもしないんだろう、と私は思った。私にとっていやなこと、気に入らないことは、全部自分には関係のないどこかにあるものなのだ。
「いやなことなんかないよ。今日はこうやって標くんとも会えてるし」
ふうん、と恋人は鼻を鳴らした。その態度に、彼のほうこそ珍しいな、と思わずにはいられなかった。こんなふうに素直に不満を表す彼はあまり見たことがない。
「今日はどうしたの? お仕事、大丈夫だったの?」
私はとりなすように尋ねた。
「どうしたのって、話があるって云ったよね」
ちょうど運ばれてきたばかりの生ビールとカシスオレンジのグラスを合わせ、喉を湿らせたあと恋人は口を開いた。
「話って?」
とっくにわかっていることにわからないふりをするのはみっともない。そんなことは百も承知だったけれど、それでも私は、恋人がまだ嘘をついてくれるのではないか、と一縷の望みを抱いていた。
彼は、蔑むような表情をした。信じられないことを云われた、と云わんばかりの調子で先を続ける。
「ひろちゃんと会うのはこれきりにしたい」
まさか、全然わかんなかったとか云わないよね、と彼は言った。
「ひろちゃんだってわかってたでしょ、ぼくたちもう潮時だって」
わかってた、と頷くことこそしなかったけれど、恋人の言葉は正しかった。私たちはもうとっくに終わってた。いまはその確認をしているだけだ。
まあさ、と彼はビールを半分ほども飲んでしまうと、唇をくいと歪めて私を見る。それが笑顔だということに、私は気づくことができなかった。
「けっこう楽しかったよ。なんていうか、そうだなあ、どっか違う国の人と一緒にいるみたいな感じで」
「違う国?」
「ひろちゃんて、どっか田舎の出身でしょ。実家、遠いよね、こっから」
遠いね、と私は頷いた。
「なんかさあ、ぼくとは全然常識違うんだよね。最初はそれがおもしろかったんだけど、なんていうの、もう飽きちゃってさ。
私はびっくりした。彼もぎょっとしていた。そんなことを云うつもりはなかったのに、とでも云いたげな顔だ。その彼の顔があまりにもまぬけだったので、変なの、自分で云ったくせに、と私は傷つくことも忘れてつい尋ねてしまった。
「飽きちゃったから、入れ替えるの?」
「なんだかんだ云っても、三人が限界なんだよね。それ以上はこっちの身が持たないっていうかさあ、いや、」
なんでぼくはこんなことを、とばかりに彼が慌てて口許を押さえる。ビールを飲もうとして噎せ、余計に慌てたのか、テーブルに戻そうとしたグラスを自分の膝の上にひっくり返して、もうパニックだ。
私はなんだか可笑しくなってきてしまった。
好きだった人だ。たしかに、好きだったはずの人だ。
見た目が好みで、いつも小綺麗な格好をしていて、スマートだった。誠実さの欠片もない人ではあったけれど、一緒にいて楽しいときもたしかにあった。
それがどうだ。思わず本音をぶちまけてしまった自分自身にこれほど動揺し、無様を晒す情けなさといったら。
百年の恋も冷めるというものだ。
「ほかの人たちはさ、どういう人たち? 遊び慣れたお洒落な人? 甘え上手な子猫? ビッチってことはないよね。標くん、バージン好きだもんね」
はじめて恋人と寝たとき、彼は云った。――ぼくがきみのはじめてでうれしいよ。
あの声に含まれていた本物の興奮は本物だった。偽物ばかり、空言ばかりの彼との付き合いの中で、もしかしたらあの言葉だけが彼の本音だったのかもしれない。
彼はもう体裁を取り繕ってなどいなかった。両の掌を口に押し当て、必死になって首を横に振っている。いや、違う――、振ろうとしてもがいている。
まるで、なにかに逆らうように。
ここへきてようやく、私は恋人の異変に気がついた。
おかしい。なにかがおかしい。
「ねえ、標くん、大丈夫? どうかしたの?」
どうもしない、と彼は云いたかったのだろう。質問に答えるつもりで解放した唇は、けれど次の瞬間、とんでもない言葉を次々に紡ぎはじめる。
「処女がいいかって? あたりまえだろ? ほかの男のお下がりなんか、誰が突っ込みたいってんだよ? 服だってなんだってそうだろ、新しいのがいいに決まってる! 締まりもいいし、血ぃ流したり痛がってくれたりなんかしたら最高だよな!」
「標くん!」
私は焦った。雰囲気のよさを売りにしている店に響くには、あまりにも下世話な大声だ。
「慣れてるのも悪くはないけどね! そういうのにはしゃぶらせて、跨らせて、腰振らせて、全部やってもらうのがラクだって、こないだやってもらったら案外悪くなかった」
ははは、とひび割れた笑い声が上がる。私は立ち上がり、椅子の背に凭れたままおかしなことを喚き散らす恋人の腕を掴んだ。
「もうやめて! 黙って!」
遠くから複数の店員がこちらの様子を窺っているのが見える。テーブルについたほかの客たちも、あからさまに眉をひそめて私たちを睨んでいる。
「おまえみたいに中途半端に慣れて、全部やってもらってあたりまえって顔してボーっとしてんのが最悪だよ! なにやらせてもへたくそだしさあ! しゃぶるのくらいうまくやれよ。何度も教えんの、たるいんだよ!」
恋人の顔は蒼白だった。恐怖に引き攣れた頬に幾筋もの涙が流れる。汚い言葉で醜い本音を喚き散らしながら、恋人は泣いていた。こんなことは云いたくないのだと、真っ赤に滲んだ瞳が物語っている。
私は咄嗟に手を伸ばし、彼の口を塞いだ。むぐむぐもがもがと、なおもなにごとかを叫ぼうとする言葉を封じ、駆けつけてきた店員に頭を下げた。
「すみません。騒がせて。すぐに出ますから」
ごめんなさい、と繰り返せば、責任者らしき男の人は、嫌悪の滲む表情ながらも、大丈夫ですか、と私を気遣ってくれた。
「大丈夫です。すぐに出て行きますから」
店員のひとりに鞄を開けてもらい、財布から代金を抜いてもらった。私の手は彼の口を塞いでいなくてはならず、会計ひとつまともにすることができなかったのだ。
私たちは急いで店の外に出た。
腰を屈めた長身の男の口を塞いだまま、私は急いで近くにある大きな公園へと移動した。街灯も少なく、人通りもまばらなこのあたりは、夜になると性質の悪い人間のたまり場になる。あまり長居をしたい場所ではなかったが、いまのままでは私たちこそがもっともたちの悪い人間になってしまう。
公園の入口近く、自動販売機の灯りに照らされるベンチに彼を座らせた。
私が彼の口から手を離すと、彼自身がすぐに両手で口許を覆う。青白い顔は強張っていて、血走った瞳はぬめりを帯びた光を湛えていた。
「……大丈夫じゃないと思うけど、大丈夫? 少しは落ち着いた?」
自動販売機で買ったミネラルウォーターのボトルを手渡そうとすると、戒めを解くのが怖いのか、いらない、と首を横に振った。
「置いとくから、欲しくなったら飲んで」
首筋や背中を痛々しいほど強張らせている恋人を見て、かわいそうだ、と私は思った。
彼はあんなことは云いたくなかったのだ。たとえ、あのとき口にした言葉が本音であるとしても。
偽りのない言葉がいつも人を救うとは限らない。口にした本人もそれを聞かされた周囲も、あるいはその場にいなかった者たちをすら、深く傷つけることがある。
嘘ばかりの恋人だった。
空言ばかりの恋人だった。
けれど、――私はその偽りに、空虚に救われていたのだ。
一緒にいるとき、彼はとてもやさしい恋人だった。我儘をたくさん叶えてくれたし、楽しいことをいっぱい教えてくれた。
そんな甘ったるい関係が長続きするはずがない。恋とは、愛とは、お互いを高め合い、尊敬し合い、苦しいときもつらいときもともに過ごし、いついつまでも――。
そんなもの、くそくらえだ。
愚痴を云い合い、都合のよいところだけをつまみあって、それでよかったのだ。お説教なんか聞きたくなかった。甘やかしてほしかった。ずっと大好きだよ、と嘘でもいいから云われてみたかった。
彼はそれを全部叶えてくれた。
彼は理想の恋人だった。
薄っぺらな私にお似合いの、薄っぺらな恋人。
きっと別れを告げる今日ですら、彼は私を傷つけまいとしたのだろう。美味しい食事を選び、穏やかな言葉を選び、とっておきの笑顔を選んで。
エゴだ。
そんなことはわかっている。
どんな別れも別れである以上、私が傷つかないわけはない。それでも彼は、自ら別れの言葉を口にすることを選んで、そこでも私の傷をせめても浅いものにしようとした。別れは、切り出すほうが苦しいものだから。
彼のやさしさの正体が、私たちのことを少しでも綺麗な思い出にしたいというエゴだとしても、それでもよかった。あんなふうに醜い本音を曝け出されるよりは、ずっと。
そういう意味で云えば、私と彼はよく似た考えを持っていたのだと思う。
真実なんてどうでもいい。少なくとも、私たちのあいだにおいては。
「苧環」
いまだ口許を強く押さえたまま俯く彼の隣に腰を下ろし、私は狐の名を呼んだ。声に出してあの妖を呼ぶのは、たぶん二度目のことだと思う。
「なに用じゃ」
思っていたとおり、狐はごく近くに姿を現した。ちょうど私と向かい合う位置から、冷たい目で私の隣にいる男を見下ろしている。
「あんたがやったんでしょ」
「なんのことじゃ?」
狐はぬけぬけと空っとぼける。
「嘘はつけなくてもとぼけることはできんのね。もう一度訊く。あんたが、標くんに、呪いをかけたんでしょ」
底意地の悪い笑みを刷いた狐の口許が、さらに大きく歪む。金色の双眸を睨み据えながら、私はなおも言葉を継いだ。
「いますぐ、解いて。彼を自由にして。できるんでしょ」
隣で標くんの身じろぐ気配がする。見えぬ相手に喋りかける私を気味悪がっているのかもしれない。
苧環は黙ったまま、私をじっと見つめている。
「標くんの言葉は嘘ばっかりだった。本当のことなんてほとんどなかった。薄っぺらで浅はかで、どうしようもなくって。でも、それでよかったの。私だって同じだったんだから。標くんに、嘘ばっかりついてたんだから」
「……真優」
苧環の涼やかな容貌に深い翳が落ちる。闇のいきものらしい深みを帯びた双眸がわずかに眇められた。
「そなた、そやつに騙されておったのじゃ」
「わかってる」
嘘は剣。嘘は盾。使い方ひとつで人を殺め、人を傷つけ、でも、人を守ることもある。
「怒りはないのかえ?」
「いまはもう、ないわ」
「憎くはないのかえ?」
「ないわ」
標くんの嘘をはじめて知った夜は、眠れなかった。傷つけられたことが、泣けるほど悔しかった。
でも、いまはもう、そんな感情はどこかへ行ってしまった。
「もう、忘れたから」
「……忘れた、とな」
「人は忘れることができるの。どんな仕打ちも、どんな嘘も、……どんな、幸いも」
ひいおばあちゃんがそうだったように、ひいおばあちゃんに守られたおばあちゃんがそうだったように、おばあちゃんに慈しまれたはずのママがそうだったように、ママに育まれたはずの私がそうであるように。
人は、みんな、忘れてしまう。
憎んだことも。憎まれたことも。
愛したことも。愛されたことも。
みんな、みんな、忘れてしまう。
「忘れられるの。忘れたことにできるの。そうやって許して、許されるの」
苧環はじいっと私を見つめた。薄い唇を真一文字に結び、泣くのを堪えるような表情でしばらくそのまま佇んでいた。
やがて彼は、低い声で云った。
「吾の呪は強い。解くのであれば、そやつだけではなく、そなたもまた代償を払わねばならぬ」
「かまわないわ」
迷うことなく私が云うと、苧環は狩衣の袂から小さな
あいわかった、と呟いた苧環の声は、やけに長く私の耳に残った。
「ひろちゃん!」
ふいに標くんが私の両手を握った。言葉を発することをあれほど怖がっていたくせに、挙動不審なわたしを正気に返らせようと、手を伸ばしてくれた。
それだけでもう、十分だった。
「いままでありがとう。すごく楽しかった。一緒にいられてよかった。最後まで、私を思いやってくれたこと、忘れないから」
ほとんど一息に云い切って、私は標くんの顔をしっかりと見据えた。彼の両手のぬくもりからそっと自分の手を抜き、縋るもののない頼りなさに小さく震えながら、私はひとり立ち上がる。
振り返ると、見上げてくる標くんの顔にはいつもの微笑みが戻っていた。まだ少し血の気が足りないような気がするけど、すぐに元に戻るだろう。
――ぼくも楽しかったよ。元気でね、ひろちゃん。
それが、私が聴いた彼の最後の言葉だ。
本当のことしか云えなくなる呪いから解放されるため、彼が苧環にどんな代償を支払ったのか、だから私には知りようもないのだった。
狐火の梯子 三角くるみ @kurumi_misumi
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