中編
耳の奥に木霊する妖狐の声をかき消したくて、わざと騒々しいほうを目指してずんずんと歩いた。明るいところへ向かえば、賑やかなところへ行けば、闇の眷属は姿を現すことはできないだろうと、そう思った。
喧騒の中、ふとわれに返れば、恋人と待ち合わせをしたカフェの近くまでやってきていた。
ちょうどいい、と私は思った。彼とごはんを食べようと思っていたカフェは、テイクアウトのハンバーガーも美味しいお店だ。アボカドとチーズのバーガーを野菜ジュースと組み合わせれば、十分な夜ごはんになる。
時計を見て時間を確かめた。思ったよりも長く歩いていた。すぐに注文をして戻らないと、安斎さんに叱られてしまう。彼は、アシスタントに食事など贅沢だ、と考える種類の人間なのだ。
店の扉を押し開けて、すぐに注文カウンターへ向かった。レジの横で店員が、こんばんは、と挨拶してくる。私は挨拶を返してすぐに注文をした。
恋人はこういうとき、絶対に挨拶を返さない。横柄な口調で欲しいものだけを伝え、まるで貨幣を投げつけるようにして支払いをする。ぼくは接客業の人間だから、というのが彼の口癖だ。同じ接客の人間にはついつい厳しくなっちゃうんだよね。いかにもな愛想笑いとかさ、ぶっきらぼうな返事とかさ、ああいうの見ちゃうとだめなんだよね。
あんまりいい感じはしないな、とずっと思ってはいた。だけど、それを口にすることはなかった。彼との付き合いは、ずっとそんな感じだ。
きみはぼくに似合うよね、思ったとおりだ、と云われたときも、なにかが変だとは思ったけど黙っていた。はじめて身体を重ねたときも、ずいぶんと性急にことを進められ、痛いばかりで全然気持ちよくなかったけど、こんなものかと思って黙っていた。
私が黙っていれば、彼は機嫌がよかったからだ。
お待ちください、と云われて空いている席に腰を下ろした。道行く人をぼんやりと眺めていると、自分だけが取り残されているような気分になる。目指すべき場所、会うべき人、帰るべき家、みんな、自分の向かうべきところを知っているのに、私だけが迷子になっているような、そんな気分に。
私はなにがそんなに淋しいのだろう。私には仕事がある。恋人がいて、友だちがいる。家族もある。まだまだ中途半端だったり、なにかがおかしかったり、少なかったり、欠けていたりはするけれど、私にとっては大切なものばかりであるはずだ。
なのに。どうしてこうも淋しいと感じるのだろうか。
小さくため息をついて腕時計を見た。店に入ってから五分も経っていないのに、ずいぶんと待たされているような気がする。いまにも安斎さんの怒鳴り声が聞こえるような気がしてそわそわとカウンターの様子を窺おうとしたそのとき、視界の隅を見知った顔が横切っていった。
硝子の向こう、夜の街を私の恋人が歩いていく。
――
彼はひとりではなかった。
華奢で小柄な、人形みたいな女の子をぶら下げていた。別に持ち運んでいたわけではない。彼の腕にしがみつく彼女がそう見えただけのことだ。
遠目からみてもはしゃいでいる様子が見て取れる彼女とは対照的に、彼は冷たいとも取れる無表情だ。私といるときには見せない表情。きっとあれが、あの子に対するときの彼のモードなのだろう。
我儘な妹キャラに振り回されるクールな男がいまの彼か、と私はぼんやりとそんなことを思った。さほどショックでもなかった。
けれど、ショックを受けない自分にはがっかりしていた。なんだ、私、わかってたんじゃん。わかってて、認めたくなかっただけじゃん。
「あやつではないか」
不意に苧環の低い声に囁かれた。お客さま、と呼びかけられたのと同じタイミングでなかったら、ひくり飛び上がった背中を不審に思われるところだった。
私は無言で苧環を睨みつけ、すぐに店員を振り返った。テイクアウト用の袋を受け取り、狐を無視したまま店をあとにする。
彼と彼女のあとを追うような道を選んでしまったことにすぐに気づいたけれど、いまさら方向転換はできなかった。戻るのが遅くなれば、せっかくのバーガーを齧るひまがなくなってしまう。
「あの
せっせせっせと歩く私の隣に、ゆったりとした足取りの苧環が並ぶ。もうすっかり涼しくなった秋の夜に、じんわり汗ばむほど必死に足を動かしている私が、まるで阿呆のように見えるではないか。ああ、そうか、彼の姿は誰の目にも見えていないのか。
「気の毒に。ずいぶんと楽しげじゃ。己が何人目かも知らず、無邪気なものじゃのう」
「私だって自分が何番目かなんて知らないわよ」
「そなたはよいのじゃ。吾がおるからの。なにがあっても吾が傍におるゆえに、いつでも受け止めてやるゆえに」
もふもふとした尻尾を振りながらそんなことを云う苧環を、私は思わずじっと見つめてしまった。すでに百年以上を生きているはずの妖怪が失恋のクッションとは、ずいぶんとゴージャスなことだ。
端から見れば空を睨む危なげな女になっていることにはたと気づき、私は慌てて正面を向いた。
「そなたは吾の一番じゃ。なにを悲しむこともあるまい」
「……一番ってのは、なにかと比べてってことじゃない。私だけみたいな云い方、やめてよね」
可愛くないを通り越し、いっそ刺々しい云い方になってしまったのは、ぐらり揺れた心とのバランスを取るためだ。狐なんかに惑わされてたまるか。
「妬いておるのか?」
涼やかな目元を薄く染めた苧環が、妙にはしゃいだ声を上げる。
「吾の過去に妬いておるのか?」
「妬いてない」
押し殺した声は、それでもすぐ傍を歩くサラリーマンをびっくりさせるには十分な音量だったようだ。こちらを振り返った眼鏡の奥の瞳が怪訝に眇められるのを見て取った私は、ますます歩調を早めた。
「そんなに急いで、あやつを追いかけるつもりか?」
仕返しがしたいなら吾がしてやろうか、と云った苧環の声にひんやりとしたものを感じた。思わず彼の顔を伺い見れば、涼やかな目の奥が冷たい闇色に変わっている。明るい琥珀色に澄んだ、いつもの眼差しはどこにもなかった。
「やめて」
「なぜじゃ」
短い制止の言葉を捻り潰すような声音で苧環が云う。
「なんででも」
そんなことしなくていい、と私は首を横に振った。歩調は自然と緩み、さっきのサラリーマンに追い越される。不審げな視線を寄越しながらも、彼はなにも云わずに通り過ぎていった。私はのろのろと歩道の端に寄り、誰かにおかしく思われない程度の速さで歩き続けようと努めた。
「なぜじゃ。答えよ、真優」
苧環はしつこい。私は咄嗟に嘘をついた。
「彼のことが好きなの。ひどい目に遭うところなんか見たくない」
ふうん、と苧環は唸った。やけに獣じみた声音だった。
「ならばなぜ追いかけぬ? なぜ腹を立てぬ? こんなところでぐずぐずしておらず、やつのところへ駆けてゆけばよいではないか」
「呼び止めろってこと?」
「無論じゃ」
「呼び止めてどうするのよ」
どうするって、真優、と苧環は呆れたような声を出す。
「文句を云うなり引っ掻くなり、なんなりとできるであろう?」
泣き喚いても抱きついてもよいのだぞ、と苧環は苦く笑い、吾はそんな真優は見たくないがの、と付け加えた。
「私もそんなことしたくないわ」
「なぜじゃ」
みっともないもの、と口にしようとして、すんでのところで思いとどまった。
恋人の浮気を問い詰めるのにみっともないもなにもない。苧環の云うとおり、裏切りを知ってもまだその男のことが好きならば、泣いて喚いて怒りや悲しみを露わにするべきだ。たとえ、それが逆効果にしかならないとしても、自分は怒っているのだ、悲しんでいるのだと思い知らせなくてはならない。
彼に対して。いや、違う、――自分自身に対して。
そうでなければ、許すにしろ許さないにしろ、先へ進むことはできない。
なにもせずにいるということは、この場に立ち止ったままでいるということだ。答えを出さず、ずるずると現状に甘んじるということだ。
「いまは、その……、時間もないし」
「時間?」
「仕事があるわ」
われながら説得力のない答えだと思った。弱気な声を鼻で吹き飛ばすようにして笑い、苧環は云う。
「よいよい。よい傾向じゃ」
「なにがよ?」
「真優はもうあやつに関心がないようじゃの」
「そんなことない」
ある、と苧環はますます笑いを深め、私に云い聞かせるように囁く。
「よいことじゃ。このままあやつのことなど忘れてしまえ。吾も酷いことはそう好かぬのじゃ」
吾と真優を邪魔する男は憎い、じゃが、真優を泣かせる男はもっと憎い、と苧環は歌うように云う。
「真優が悲しんでおるなら、どれだけ止められようとも、吾はあやつに報いを与えるつもりでおる」
「だから、やめてって」
「じゃが、あの男がすでに真優にとってどうでもいい存在であるのなら、なにもせぬ」
祟るのは、それはそれでなかなか面倒なのじゃ、と苧環は大きな欠伸をする。ぱかりと開いた口は存外大きくて、たしかに彼が獣なのだということを私に思い出させた。涼やかな容貌や風変わりな衣裳ですっかり誤魔化されているけれど、彼は狐、妖なのだ。
「さて、そなたの心を聴かせてたもう、真優?」
いったいなにをどう答えろというのだ、と私は思った。
彼のことが好きだと答えれば、彼に報いを与えると苧環は言う。彼のことをもう好きではないと答えれば、吾の手を取れと迫ってくるのだろう。
本当のところを云えば、――答えなんかもうとっくに出ているのだ。
私は彼のことなど、もう好きではない。
最初はたしかに好きだった。可愛いと褒められて嬉しかった。一緒にごはんを食べて、お茶を飲んで、楽しかった。恋人と呼べるはじめての男の存在に、ほとんど浮かれていたといってもいい。
自分が彼の唯一ではないと知ったときから、私の想いは急速に冷めていった。がっかりしたし、悲しかった。
だけど私は、彼のことを憎んだりはしなかった。恨んだりもしなかった。
なぜか。
きっと心のどこかでわかっていたからだ。彼が、まるでアクセサリーを選ぶように私を選んだことを、ちゃんとわかっていたからだ。
どこにでも転がっている野暮ったい、でも、そのなかでちょっと気に入ったアクセサリー。
ひどい男だと思う。くだらない男だと思う。
けれど、それを云うなら私だって、彼と同じくらいにひどい女だし、くだらない女だ。
彼は私のことなんか好きじゃなかったけれど、そういうふうに云うなら、私だって彼のことなんか好きじゃなかった。
彼は私のことをアクセサリーのひとつだと思っていたけれど、同じように、私だって彼のことを道具のひとつだと思っていた。
――孤独を忘れさせてくれる、便利な道具。
誰でもよかったのだ。心の底に巣食う寂しさを忘れさせてくれるのならば、彼でなくたって。佐伯標でなくたって。
結局のところ、彼と私は似た者同士だった。だから一緒にいて楽だったのかもしれない。
「心なんて」
私はこの醜い心を苧環に知られたくなかった。
知り合って、というのが正しいのか、とにかく苧環が私の前に現れるようになってから、まだほんの数か月しか経っていない。彼は妖怪らしく気まぐれで、現れてほしくないときに限って現れ、私の思考を掻き乱し、突然に姿を消す。
彼が現れてから、私はひやひやしどおしだった。
仕事中、食事中、入浴中、場所を問わずに彼は現れ、好きなように好きなことを云ってはいなくなる。
最近では私もだいぶ慣れてきて、突如現れる狩衣姿に悲鳴を上げたりすることもなくなったけれど、最初はだいぶ戸惑った。
いきなり現れる狐にいちいちびくつき、彼の姿を認識することのできない周囲から不審がられること十数回。最終的には安斎さんにまで、疲れてるのか、休むか、などと気を遣われ、開き直った。ええい、ままよ、相手は妖怪、すっぽんぽんを見られたところでなんの害がある。いつでも出てこい、迎え撃ってやる。いつまでもびびってると思うなよ。
迷惑だから出てくるな、帰れ、と強く云ってみたこともあるけれど、吾のあるべきところは真優の隣じゃ、とねちっこく甘ったるく云い聞かされ、ついに添い寝までされて諦めた。あのころはまだ真夏で、もふもふの尻尾やばさばさした衣裳が、エアコンの涼しい冷気のなかにいてさえ暑苦しかったのだ。云いたいことはわかったから隣で寝るのは勘弁してください、布団から出てくださいと土下座して、文句を云うのをやめたのだ。
恋人とのことを冷静に考えられるようになったのは、きっとそんな苧環との日々のおかげだ。
いつ会えるかわからない恋人よりも、いつ現れるかわからない妖怪のほうが、いつのまにか身近になっていて、そして、――孤独を忘れさせてくれた。
「心じゃ」
「そんなの……」
歩みを止めるわけにはいかなかった。苧環の姿は私以外の誰にも見えない。いま、私が足を止めて彼と向き合えば、あたりにいる人たちの注目を浴びてしまうだろう。
「そなた自身の心のことじゃ、真優。たやすいであろう? あやつは、真優にとってどのような存在じゃ?」
じつに答えにくい問いかけだった。彼のことがまだ大切だと答えれば、では追いかけてあの女子のことを問い質せと云うだろうし、もうどうでもいいと答えれば、では吾にすべてを許せと迫ってくるだろう。
浮気性の恋人にはうんざりだったが、だからといって妖怪狐とどうこうなりたいというわけではない。
「も、もう戻らなきゃ」
「人生には仕事よりも大切なものがあるとは思わんかえ? いまがそのときだとは?」
苧環の云うことはもっともだ。けれど、もっともだけでは回らないのもまた人生なのだ。
「真優」
誤魔化しは聞かないとばかりに苧環は首を横に振った。色の薄い髪が目許やら額やらに落ちかかるさまは、まさに凄艶。
「そうかもしれないけど」
私はしぶしぶと答えた。
「標くんたち、もうどっか行っちゃったみたいだし」
恋人の姿などとうに見失っていたし、見つける気もない。私はもう本当に彼のことなどどうでもよくなってしまっていたのだと、そのことだけをせつなく思った。
都合のよいことだけを喋り、聞きたくないことは尋ねもしなかった、からっぽな彼。
けれど、からっぽだったのは彼だけではない。
云いたいことも口にできず、訊きたいことがなにかもわからなかった私だって、おんなじだ。
からっぽな私たち。
さっきも思ったことをまた思って、私は小さく笑ってしまった。
この恋はきっとこれで終わりだ。彼とは、もうきっと会うこともないだろう。
「ならぬぞ。それはならぬ」
まるで私の心を読んだかのように苧環が言った。
「なにがよ?」
「一度は結んだ縁であろう。断ち切るならば、それなりの手をかけねばならぬ」
「それなりの、手……」
そうじゃ、と苧環は頷いた。
「でなければ吾も安心できぬ。わが伴侶が誰ぞに心を残したままでいるなど、気色が悪うてかなわぬ」
「心残りなんて」
否定するべきはそこじゃないだろ、と自分に自分で突っ込みを入れ、私は首を横に振った。
「って、なんで、私と標くんが別れることが前提になってるのよ?」
ふ、と苧環は声なく笑った。
「答えはもう、出ておるようじゃの」
私は無事に事務所に戻った。
恋人と出くわすことはなかったし、苧環相手に癇癪を起すこともなかった。彼はとうに道を変えていたのだろうし、狐はまたいつのまにか姿を消していた。
安斎さんは珍しく仏心を出したのか、バーガーをテイクアウトしてきた私に、四十秒だけ待ってやる、と云ってくれた。普段の彼なら私の生理現象など見て見ぬふりをする。彼が次々押し込んでくる仕事に応じるには大人用おむつが必要だと何度思ったことか。
私はささやかな休憩スペースで、無心になってバーガーを口に運んだ。デスクでなにかを食べることは安斎さんに禁じられている。おまえが自分で図面を引くようになれば、オレの気持ちもわかるさ、というのが彼の云い分だ。徹夜で引いた図面の正本にコーヒーのしみとか、蹴りたくなるだろ、普通に。
バーガーは半分にまで減った。早食いは就職してから会得した、生きるための技だ。牛丼並盛を五分以内に完食できなければ、この事務所に残ることはできない。毎朝メイクに一時間はかけるという営業の先輩だって、牛丼並盛卵つき完食三分の記録を持っている。
不意にバーガーが胸に
俯いていた頭に、ひんやりとしたやわらかさが触れた。
苧環だ。
顔を上げずとも、いつのまにかすっかり身近になってしまった狐の気配に、どういうわけか涙が出そうになった。下を向いたまま、私は云った。
「どこ行ってたのよ?」
「すまぬ、真優」
苧環が謝ることなんかなにもない。わかっていたけど、それでも私は狐を責めずにはいられない。
「いつも傍にいるなんて嘘ばっかり」
「すまぬ」
「いつもって云うなら、いつもいてよ。いなくなったりしないでよ」
「すまぬ」
「私の伴侶なんでしょ、あんた」
「すまぬ」
苧環のつめたい指が、私の髪をやさしくかき混ぜる。
――傍にいて。
――いなくならないで。
――私だけを見てて。
詰るような、
私はもちろん本当のところを知っていたし、苧環だって気づいていたはずだ。
それでも狐は私の言葉を拒まなかった。拒まず、ただ、私の頭を撫でてくれた。
瞳の奥に凝った熱が、苧環のやさしくつめたい指にほぐされ、ゆっくりと身体の奥へと落ちていく。バーガーとともに喉を塞ぐ塊を飲み込んで、私は洟を啜りあげた。
「ひどい顔、してる?」
湿り気を帯びた声に苧環は、まあな、とごく正直な答えを寄越した。ひどい、と私は顔を顰めた。
「そこは、そんなことないって云っとくところでしょうが」
「吾は、嘘はつけぬ」
「嘘って……、なんで?」
「吾はそういう存在よ」
吾らは人とは異なる理に暮らしているのだ、と苧環は云った。
「吾らは己を偽らぬ。否、偽ることができぬ。引き換えに人の持たぬものを持っておる。長い命や強い力、この世から外れるほどの美もそうじゃ」
「……私も妖に生まれればよかった」
そうすれば嘘をつかれることもなく、嘘をつくこともなかった。――こんなふうに振りまわされることはなかった。
ふふ、と低く苧環が笑った。その声はいつもとまったく変わらない調子であったにもかかわらず、なぜだか軽く莫迦にされたような気がして、私は首を傾げた。
「浅はかじゃのう、真優は」
軽くではなかった。思いっきり莫迦にされていた。
「
苧環は苦く笑う。
「人の世は嘘ばかりじゃ。生まれてこのかた、ひとつの嘘もついたことのない者などおらぬであろう。知らぬことを知っていると云い、知っていることを知らぬと云う。見えぬ者を見えると云い、見える者を見えぬと云う。聴こえぬ聴こえる、できぬできる、全部が嘘じゃ。人は人の嘘を知りながら、知らぬふりをし、嘘をついていると悟られていることを知りながら、気づいておらぬふりをする。もはや、なにがなんだかわけがわからんの」
じゃが、嘘があるから、人は人とともに生きてゆけるのじゃ、と苧環は云った。
「そんなの……」
「真優が傷ついておるのは、あやつの嘘にではないであろ? あやつの不誠実に心を痛めておるのじゃ。嘘を責めるならば、真優、そなたは己のことも責めねばならなくなるのだからの」
「私が? 自分のことを? ……なんでよ?」
ほれ、と苧環はおもしろそうに笑った。
「それも嘘じゃ。本当は知っておることを知らぬと云い、気づいておることに気づかぬふりをしておる」
「それは、嘘とは……」
「嘘じゃ」
ぴしゃりと引っ叩くように苧環が云った。私は音を立てて野菜ジュースを啜り、唇をきつく結んだ。
「真優のそれは怠惰じゃ。男の不誠実を知りながら、それを責めるのを面倒がって怠けておる。忙しいだの、気づかなかっただの、あれやこれやと云い訳をしながらの」
思わず睨みつけた視線の先で、苧環はひどく怖い顔をして私を見ていた。嘘は人の常じゃ、と狐は嘯く。
「そなたも例外ではない、真優。嘘は口を虚しゅうする。言葉を、生きることを虚しゅうする。次々と生まれては消える泡のような人の命に、そなたの命にいかにもふさわしかろう?」
太く鋭い爪に腹を割かれたような思いがした。見えぬ血飛沫が私の心を真っ赤に染める。
思えばここで、私はすっかり取り乱してしまったのだろう。
「よほど嘘が嫌いみたいね、あんた」
「嫌いではない。虚しいと思うだけじゃ」
「そう思うなら、私のことなんかほっとけば?」
いやじゃ、と苧環は首を横に振る。三角の耳がふるふると震えた。
「放ってはおけぬ。そなたは吾の伴侶であるからの」
「嘘つきで愚かなわたしが? あんたの伴侶?」
そうよ、と私は食べ終わったバーガーの包みをぐしゃりと握り潰しながら、低い声で苧環を罵り続ける。
「魂とか伴侶とか、ずいぶんと大げさなことを云ってたけど、それが本当かなんて誰にもわからないじゃない。嘘じゃないなんて保証はどこにもないじゃない」
バーガーの包みやジュースのカップをぽいぽいと片づけ、私は勢いよく立ち上がった。
追いかけろとか問い詰めろとか、苧環は好き勝手なことを云うが、ひとりになるのは結局私だ。勝手なタイミングで出たり消えたりする妖の言葉に耳を傾けたって、いいことなんかひとつもない。
「……吾の
「呪?」
「そなたの命を縛るのじゃ。呪に相違あるまい?」
苧環の輪郭がぐにゃりと歪んだ。まるで巨大な蛇のように私の足許から腰、背中、首筋へと絡みついてくる。片手で項を掴み、拳に握ったもう片方の手を顎の下に添えて、私を雁字搦めにした狐の化け物はうっそりと笑った。
私の喉はからからに干上がって、悲鳴のひとつも上げられない。
「真名を交わした吾らは、すでに
黒々とした虹彩までもが炯々と光っているように見える黄金色の瞳は、どうあっても人のものではない。出会ってからはじめて苧環に対して恐怖を覚え、私は震えあがった。
「あやつにも呪をかけてやろう。吾が背の君に手を触れた、その礼じゃ」
禍々しい言葉を残し、苧環は消えた。拘束を解かれた私は思わずよろめき、テーブルに両手をついて凭れかかる。
「なにやってるんだ、時任。とっとと食えよ」
――おそろしい。おそろしくてたまらない。
「大丈夫か?」
私はびくりと肩を揺らした。パーテーションの向こうから覗き込んだ安斎さんは、私の顔色の悪さに驚いたらしい。具合でも悪いのか、と珍しく気遣うような声を出した。
大丈夫です、と私は答えた。
「すみませんでした。すぐに戻ります」
そう、大丈夫、と私は自分に云い聞かせる。
大丈夫、苧環が彼にひどいことなんかするはずがない。
私にひどいことなんかするはずがない。
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