終



 昇降口を出たのは最終下校時刻になるより、ずいぶんと前だった。

 まだ部活を続けている生徒も多く、校内には長閑のどか喧騒けんそうが聞こえる。ただ、太陽はもうかなり西に傾こうとしていた。

 陰りを帯びた日差しを受けながら、詩緒里は今日も教室棟の角を北に曲がった。にぎやかな活動音が続く武道場や体育館の横を通って、いつもの裏門へと向かう。

 日が暮れるのが早くなった。もうひと月もすれば一年で一番日が短くなる、そんな時期だ。おかげで、今までより一層早く帰らなければならず、部活も長時間は出来ない。相変わらず、義母や義姉に口を酸っぱくされているのだ。

 それでも以前ほど強引に粘らなくなったのは、この所の制作が快調だからだろう。イメージを上手く掴めており、その分、無駄に考える時間が減って切り替えもスムーズになっている。技術的にはともかく、とりあえず、自分はそれで満足できていた。

 こんな心境にいるのは、多分、黒木悠一のおかげだ。

 そんな事を考えながら歩いていたせいだろうか。詩緒里は体育館の隣を抜けた所で、その姿を認めた。

 切り揃えた黒髪に大人しそうな眼鏡。折り目正しく制服を着て指定のバッグを担いでいるのはまさに悠一だった。悠一は体育館裏の桜の木を、いつぞやのように仰ぎ見ている。

 こうして、会うのはあの時以来だ。もちろん、校内では見かけるし、悠一は兄の所へ定期健診にも通っているらしい。ただ、お互いに積極的に話しかける性質たちでも無いため、普段からの交流らしい交流は無い。

「もう、気配は感じられなくなったわ」

「あっ。く、久路さん」

 それでも声をかける気になったのは、やはりこの木の下だからか。

 背後からの急な言葉に、相手は驚いて振り返った。全く予期していなかったらしく、多少、身を硬くする。詩緒里はそれに構わず、隣に並んで桜を見上げた。枯れ葉がちらほら残るばかりの枝の間に、暮れ始めた空がまばらに透ける。悠一もまた、少しそわ付きながら振り仰いだ。

「それでも、まだ何となく来たくなる。こことか、階段の上とか」

 そう控えめに呟いたのは、先ほどの詩緒里の言葉に対する返答だった。そうして、細めた目で、懐かしく枝の間に赤い花を探す。

「桜は夢を見せるの」

「え?」

 毎度の唐突な発言に、悠一は戸惑いながら詩緒里を見た。

「この国には桜の好きな人が多い。何年も、何百年もかけて、この木をでて来た。そんな風に、長い間、人の思いを受けて来た物は、物であっても人の心に影響を受けるようになる。桜はしゅとして、長い期間をかけて、そんな形質を獲得して来た。だから、人の思いに応えて、夢を見せる」

「う、うん。よく分からないけど、今なら何となく理解できる気がする」

「黒木君の見ていた男子生徒は、この桜と一緒に夢を見ていた。そうして、私やあなたにも同じ夢を、ともに見て欲しいと願った」

「久路さんにも?」

「ええ。でも、私には無理だった。私には人の心が理解できないから」

「え? でも、久路さんって他人の心の波みたいに・・・」

 感じられるのだと言っていた。それは、悠一も共にあの少年を探した時、一端を味わった実感がある。それなのに、人の心が理解出来ないとはどう言う事だろう。それを理解できず、悠一は首を傾げた。

「確かに、私は他人の心の動きを、多少なりとも知る事が出来る。ただ、それだけ人の心を感じ過ぎたから、訳が分からなくなった」

 例えば、誰かが喜べば、それを自分の喜びとも感じ、怒れば、自分の怒りと感じたのだと言う。つまり、自分の心が無くなった。そうして、いつからか詩緒里の心は自分を守るため、麻痺まひしてそうした反応をしないようになった。動かなくなった。壊れたのだ。

「壊れた私の心では、幾ら同じ思いを求められても応えられなかった。求められていたのは理解と、同調。私には同調が出来ない。だから、私はあの思いに呼びかけられても、すぐ放棄ほうきした」

「そんな・・・」

 悠一は驚きと嘆息の入り混じった声を漏らした。と同時に、ある事に思い至る。

「だけど、それじゃあ、前にオレが久路さんにオレの事なんか分かんないって言ったのって・・・」

 核心を突いていた。同時に、だからこそ相手のいたし方ない不具ふぐえぐる暴言でも有った。

 自らの浅はかを知って落ち込む悠一に、それでも詩緒里は「気にしないで」と首を振る。

「どのみち、私は何を言われても、何も感じないのだから」

「いや、それは――」

「それより、多分、私は黒木君に感謝しているから」

「か、感謝? オレに、何で?」

「あの思いにむくいてくれたから。私にそれは出来なかった。けど、だからこそ、私は心のどこかでそうなって欲しいと望んでいた。だって、それは同じ空っぽの心が響き合った私も、救ってくれる事だから」

 詩緒里の心もまた虚ろだった。人の心を知るが故に人の心が理解できず、独りきりで空っぽだった。そこにあの少年の心が響き合っていた。詩緒里自身はそれに響き返せなかったが、悠一の、あの少年への共鳴が、詩緒里への共鳴にもなっていたのだ。詩緒里もまた、ひとりじゃないと思えた。

「だから、ありがとう」

「う、うん」

 悠一にその思いの全てが伝わった訳では無い。ただ、伝わった事もある。心は少しずつでも伝わるなら、それで良い。

 詩緒里の感謝の言葉に、悠一ははにかみながら頷いた。

 それからしばらくは二人で無言のまま桜の木を見上げていた。いよいよ陽が落ち、西の空が赤らみ始めて、詩緒里がふと思い出す。義母と義姉の言いつけにはもうだいぶ遅れてしまっていた。

「もう、帰らなきゃ」

「あ、うん。オレもそろそろ帰らなきゃ」

 悠一は悠一で、帰る気になったらしい。

「それじゃあ」

「うん。じゃあ」

 二人は背を向けて離れて行く。悠一は校門へ。詩緒里は裏門へ。

 ふと振り返ると、沈みかけた夕日が濃い色で桜の木を照らしていた。

 赤い花弁がひらりと舞った気がした。



 ―了-


作:小野晃久



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現の境(うつつ の さかい) @ono_teruhisa

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