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 周囲の暗闇が揺らめいた。と思ったら、そこから急速に風景が転換した。それが、なるほど、今度こそあの夕景の中だと認められたのは花弁はなびらが舞っていたからだ。血のような色をした桜。その一面に漂う赤が景色を染め、まるで夕日に飲み込まれている気分にさせる。

 ただ、そこは先ほどまでいた最上階では無かった。途中の階で、上にも下にも段が続いている。

「っててて」

 風景に気を取られていた悠一の隣で、京介がひたいを抑えてうずくまった。

「せ、先生」

「いや、大丈夫。少し頭痛がするだけだから。リソースが薄かったからかなぁ。思ったより負荷が有ったみたいだが、まあじき慣れるさ」

 もしかして、それはあの少年の存在が弱まっているせいなのか。

 生み出された空間も、以前に比べて安定しない感じだ。時折、遠くの景色や壁の一部などにノイズが走り、形がぶれている。

 そもそも人知を超えた現象だ。そう都合よくは出来ていないだろうし、京介にかかる負担も未知だった。

「すみません。オレの為に」

「気にするなよ。それより、目的を果たそう。黒木君はあの生徒に会いたいんだろ」

「は、はい」

 あの少年がいるとすれば、それはやり一番上か。悠一は顔色の悪い京介を気遣いながらも足早に階段を昇り始めた。

 外に見える景色からすれば、ここは悠一のクラスが有る階だ。ならば、すぐ次の階まで上がるだけ。そのはずだった。

 所が、幾ら上っても、上っても、階段は途切れもせずに続いて行く。踊り場を何度折り返そうが外に見える景色も変わらない。隣りの体育館と桜の枝、校外の風景が同じ角度でループする。

「どう、どうなってんだよ」

 いつまでも続く階段に息も切れて来る。恐らく、もう手の指を全部使っても足りないほどは上ったはずだ。

「多分、闇雲に上ってもダメ」

 後ろを付いてきていた詩緒里がそう告げた。相変わらず表情は変わらないものの、さすがに体力を消耗している感は否めない。息は上がっていたし、白く滑らかな額に汗も滲んでいる。

「じゃあ、どうすれば良いんだよ!」

 焦る悠一の前に再び手が差し出された。言葉は無いが、つなげと言いたいのだろう。察して、ドギマギしながらももう一度その手を取る。

「気配を意識して」

 逆らわずに少年の姿を思い浮かべる。

「あなたはどうして会いたいの? それを思い出して」

 それは、償い、だろうか。差し伸べてくれた手を打ち払った罪滅ぼし。

 いや、違う。そうではない。そんな一方的な思いでは無い。悠一は自分を救うためにも少年を救いたいのだ。その為に、こちらから手を差し出し直したい。

 悠一は何故あの時、飛び降りようとしたのか。

 その理由はあの少年と同じだ。村中はそれが見当たらないと言い、だから自殺ではないと思いたがっていたが、悠一にはもっと簡単な話に思えた。それはつまり、アイツにも自分にも、もともと死への明確な動機が存在しないだけなのだ。

 例えば、いじめだとか虐待だとか、そうした環境的問題ではない。また、確かに悠一達は人間関係につまづき、虚無感を抱き、苦しんではいたが、それすらも近因では無い。その為に死のうと思ったのではない。

 そもそも、死ぬのは怖い。死ぬのは嫌だ。

 だから、あの階段で手摺の上に立った時でさえ、全く死にたいとは思っていなかった。

 それでも一歩を踏み出したのは、強いて言うなら夕日を見たからだろうか。あれを見た瞬間、そこに救いを感じた。自分は一人じゃないと思えた。これが永遠続いて欲しいと夢想し、夕日の中にいたいと望み、少しでも近づきたいと願った。

 落ちて死んだのはその結果に過ぎない。

 あるいは潜在的に転落を受け入れていた面は有ったかも知れない。しかし、それは積極的な選択ではなく、いわば未必みひつ故意こいだった。死の恐怖と生の魅力みりょくの境で、その行く末を決めるための棒を立てて手を離したのだ。あそこに立った瞬間、たまたまその境に棒を置く気になっただけだった。それがどちらに倒れるかなどはたた運の問題に過ぎない。

 逆に言えば、悠一にそのどちらかを自発的に選ぶ気力が無かった。死を選ぶ因子はそれほど色の濃いものでは無かった。ただ一つ一つは薄い色でも重なれば濃くなると言う事だ。

 それはアイツも同じなのだと思う。

 あの少年がどのように育ち、どのように生きていたか、悠一はその詳細を知らない。ただ、村中の話やこれまでの印象から、普通の環境にいながら日々を生き苦しく感じていたのは想像できる。その上で、少年にはそれを理解してくれる人もいなかったのだ。

 大抵たいていの場合、普通の人はすんなりと社会に組み込まれなければならない。そこで、それこそいじめや虐待、大病など、特別の不幸に見舞われない限り、それが出来ないのであれば、怠慢と見なされる。普通は出来て当たり前で、そうしたほとんどの人には出来ない人間の理屈が分からない。それ故、出来ない人物は如何に苦しくても、当人の努力の問題なのだから、他人の同情に逃げ場は見出しがたい。

 だから、少年はあの夕日に救いを感じたのだろう。自分の気持ちを理解し、受け止めてくれる存在を欲して。あの景色や夢は、その思いの残滓ざんしなのだ。

 その気持ちが、いかなる偶然か、時を越えて悠一と響き合った。初めてあの景色を見た時、また悠一も求めていた。人とつながれないこの空虚を、虚無を、持て余していたから。

 少年にはその悠一の心が分かった。何故なら、二人は同じだったからだ。だから、少年は自分の経験を教えてくれた。「こう言う気持ちだよね」と伝えてくれた。悠一もその体験から、自分が一人では無いと暗黙のうちに理解出来た。そうして受け止められ、癒され、最初のあの日、現実には飛び降りなかったのだ。

 もっとも、悠一はそれを明快には理解出来ていなかった。そのため、少年の思いには気付かぬまま、辛い事が有る度に、一方的に差し伸べられた手にすがっていた。

 その内に、悠一は半面で恐れも抱くようになる。少年が自分と同質であると直感するからこそ、同じ運命が待っているのではないかと。それはつまり、未来は無いのと同じだ。その忌避きひは、あの光景を何度も追体験ついたいけんする中で、徐々につのって行った。

 そうして、ついに悠一は少年を拒絶する。自分は違う。自分には菜穂と言う理解者がいる。つながりがある。だから同じ運命をたどりはしないと思いたかった。

 その結果は惨憺さんたんたる物だ。悠一は少年の埋めていた心の空白に再び気付き、夕刻に惹かれた。もし、詩緒里や京介の助けが無ければ、今度こそ少年と同じ運命になっていただろう。

 そうして命を助けられた悠一に、今出来る事は何だろう。悠一は少年を救いたいと思った。少年がそうしてくれたように、明日に架ける橋になりたいと思った。それは綺麗事ではない。同質である自分自身を救うための作業なのだ。

「行かなきゃ・・・。行こう」

 悠一は階段を見上げた。その先が蜃気楼しんきろうのようにゆがむ。詩緒里の手を握りしめる。波を感じる。あの向こうに、自分自身であり、少年である波が揺れている。

 狭い階段の中ほどで赤い花弁が渦を巻いた。それをかき分け、駆け上がる。

 どれほど進んだだろう。しばらくして、急に頭上が開けた。目の前の踊り場を折り返すと、階段の上に赤く染まった空が見えた。

 見慣れた最上階。そこにあの少年がいた。西側の手摺の際で寂寞せきばくと佇んでいる。その姿を包み込んで、遠くに赤い塊が落ちていた。

 最後の段に足をかけ、詩緒里の手を放した悠一は躊躇する。その少年の姿はどこまでもおかし難い。それを見て胸の内に込み上げる物も有り、心を奪われそうになる。

「黒木君」

 背後を付いて来ていた京介が囁くように、しかし、鋭く呼び止めた。

「少し、気を付けて置こう。君たちは似た所が有るから、あまり同調すると取り込まれてしまう。そうすれば、ここから抜け出せなくなる恐れも有る」

 まだ少し苦しそうで、所々しゃがれた声になる。それでも、丁寧に言葉をつむぐ。

「君達は、よく似ているかも知れないけど、別々の個性を持った人間だ。それだけは覚えておいて欲しい」

「は、はい」

 その会話が聞こえたのか、悠一の相槌と共に少年が半身で振り返った。その静かな横眼が悠一を捉える。

 よく見れば、時折、少年の輪郭は薄くなっていた。ノイズが入り、目が霞んだのかと思うほど見え難くなる。

「あ――あの」

 声を絞り出して、悠一は呼びかけた。だが、次の言葉を継ぐ前に、少年がゆっくりと首を左右に振る。ただ寂しげに、それでいて優しく微笑んで。

 そうして、再び西の空に向かうと、軽やかに手摺へと飛び乗った。

「待って!」

 悠一は叫んだ。だが、少年は止まらない。悠一が駆けだす。少年が一歩を踏み出し、身体が宙に踊りだしかける。悠一は体ごとぶつかるように手摺へとのしかかり、必死で手を伸ばした。

(届け! 届け!)

 無我夢中でそう願い身を乗りだす。落下しようとしていた少年はその勢いに飲まれたのか、わずかに身を捩って振り返る。少年と目が合った。まるで悠一の行動を予期していなかったのか、そこには純粋な驚きがたたえられていた。反射的に、少年の腕は悠一に向かっていた。それを懸命に掴む。手と手が絡み合い、悠一の体が勢いのままに手摺の向こうへ引っ張られた。

(落ちる!)

 刹那、頭の中で閃光が弾けた。

 目を閉じ、息を止めて、それから長い間隙かんげき。いや、長くもないか。混乱しながら瞬く。

 どうしてこんな事になったのだろう。

 別に、飛び降りるつもりなど無かったのに、いつの間にか宙へと足を踏み出していた。ただ、あの夕日に少しでも近づきたかっただけなのに。

 目を見開いた向こうには赤い空が霞んでいた。その視界を絡め取るように、近くの桜から伸びた枝が影を伸ばす。花も葉も無いそのシルエットは寂しく風に揺れている。

 自分は地面に仰向けで転がっているのかなと想像する。正直、よく分からない。もうほとんど感覚が無いのだ。痛みも無かったし、辛いとか悔しいとか、嬉しいとか楽しいとか、そんな気持ちすら無い。

 ただ、自分の身体から既に回復不可能なほどの血が出ているのは分かる。広がった血だまりは、横たわる身を浸し、桜の木の根元まで流れている。

(死ぬんだろうな)

 他人事のようにそう思う。それは決して本意では無いが、仕方ないと言えば仕方ない。

(ああ、でも、ただ・・・)

 どうせなら、この瞬間がもっと続けば良いのに。ずっと、こんな風に夕日に包まれるなら、自分はひとりじゃないと思える。

 ひとりじゃない。

 ひとりじゃない。

 そうせつに願った。

 その時だ。頭上に伸びる桜の枝が突風にあおられて一振り震えた。その桜から、一片の赤い影が舞う。

 何だと確かめる間もなく、その数は見る間に増えて行き、数え切れないほどの小さな赤が視界を埋め尽くした。それは桜の花弁だ。赤い桜が枝のそこかしこでほころび、満開に咲き誇り、花を散らしている。

(血だ)

 そう直感する。桜の根は貪婪どんらんタコのように、自分の流した血を、いそぎんちゃくの食糸しょくしのような毛根を集めてその液体を吸っている。何があんな花弁を作り、何があんなずいを作っているのか。自分の心が維管束いかんそくのなかを夢のようにあがってゆく。この木に宿ろうとしている。この桜が、自分を受け止めようとしてくれているのだ。

 その原理はよく分からない。ただ、この桜も、こんな人目に付かない片隅に一本だけ取り残され、寂しかったのかも知れない。だから、自分の気持ちと響き合ったのかも。

(ああ、これで――)

 これでずっとひとりじゃない。

 ひとりじゃない。

 ひとりじゃない。

 ひとりじゃ――。

「黒木君!」

「黒木君」

「黒木君」

「黒木君!」

 二つの叫びに自分の名を呼ばれて、悠一ははたと我に返った。

 落ちていない。悠一は手摺から身体のほとんどがはみ出しながらも留まっている。両足を京介と、詩緒里までもが抱きかかえ、それで落ちる寸前の所で止まっていた。一方で、手の先にはがっちりと掴んだ少年の手が有った。

「オレ・・・・・・」

「良かった! 気が付いた」

「は、はい」

 悠一は京介と詩緒里に感謝しつつ、自分の手の先に視線を移す。ぶら下がりながらこちらを見上げていた少年と目が合った。今の状況を受け止め切れていないのか、その瞳には幾つもの感情が浮かんでいる。それは喜びと、悲しみと、不安と、安堵と、苦しみと。数え切れない色を混ぜ合わせ、それでも夕日に反射して赤い。

「待ってくれよ」

 悠一は少し苦笑しながら口を開いた。

「今までずっと待ってたんだろ。オレが来るのをずっと」

 つないでいる手に力を籠める。相手の細い指が戸惑ったように一度震えた。悠一はその柔らかな体温を感じていた。

「オマエは俺を受け入れてた。オレも本当は受け入れてたんだ。気付けなくてゴメン。でも、だから、ひとりじゃない。オレ達はひとりじゃないんだ。そうだろ」

 夕日色に染まった少年の顔がくしゃりと歪んだ。そうして、噛みしめるように強く頷いた。

 瞬間、ノイズを帯びて輪郭の揺らいだ壁が、床が、手摺が一斉に溶けた。

「うわっ」

「おうっ」

「きゃっ」

 悠一も、京介も、詩緒里も投げ出される。

 しかし、同時に赤い風が逆巻き、包み込む。全ては平らかに広がりながら、夕日の中へと流れ込んでいた。誰もが、平等に、取り残されもせず、溶けて行く。

 ひとりじゃない。

 ひとりじゃない。

「行くのか?」

 ふと手の先に目を向けると、少年の輪郭が薄らぎ始めている。悲愴ひそう感も無く、少年は再び首肯した。それはあるべき運命で、どうであれ変えられないのだろう。それでも、少年はどこか満足げに微笑む。

 そうして、その姿は夕日に溶けて行った。

「ありがとう」

 悠一はそっとひとちる。

 手の中の柔らかな温もりだけが、いつまでも残っていた。

  



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