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この夢も何だか久しぶりだな、と思った。
一歩一歩上って行く階段は影を深めつつある。一方で、途中の踊り場を通れば、逆に強い西日に
そうやって、上り切った所で空が開けた。
ああ、これだ。これなのだ。
既に『別れの曲』は止まっていた。途端に校内の空気は閑散と沈む。
どうして再びこの夢なのか。京介があの少年を追い払って以来、途絶えていたのに。
(もしかして、今日はずっと夢の中にいるみたいだったからからな)
悠一はこの一日、自分が何をしていたか、よく憶えていなかった。所々、断片的なイメージは有るものの、ほとんど冬の霞んだ影の中にいた気分だ。授業は普通にこなし、図書室にも通い、掃除もしたと思う。だが、それは本当に現実だったのだろうか。
(何でこんな風になったんだろ)
問うまでも無い。それは菜穂に昨晩かけた電話のせいだ。
あれで明らかになった。菜穂は自分を信じてくれていなかった。もしかしたら悠一が盗撮するかも知れないと思い、心の片隅で疑った。だから、不安になった。
その事実は悠一にとってショックだった。
ただ、悠一はとっくにその答えを知っていた気がする。あの時、菜穂は「しないよね?」と振り返った。その目の陰りに悟っていたのだ。多分、自分は疑われていると。
その疑念は、小さく、それでいて決して無視出来ない棘だった。誰にも信じてもらえず、他人との、
もし、他の者と同じように、菜穂が自分を信じていないのであれば、このつながりも失われる。そう思った。
だから、悠一はそれを明らかにするのを避けた。あの時、菜穂がどんな思いでこちらを見たのか知りたくなかった。知らなければ、無かった事に出来るとさえ
その逃避は、あの事件以降、透明な壁となっていた。菜穂との間に生まれた距離はいつまでも縮まらなかった。それでも、真意を確かめ、失うよりはマシだと思った。そのはずだった。
なのに、悠一は見付けてしまったのだ。少年を追い出し、
結局、それを抜かずにはいられなかった。
その結果、明らかになったのはやはり自分が空っぽだったと言う現実だ。菜穂にさえ信じられていないなら、自分はただ虚しいだけの人間でしかない。
どうすればいいのだ。空っぽな自分は、これからどうすればいい?
一日中、ずっとそれを考えていた。眠りもせず、自動人形のように朝食を食べ、登校し、学校で過ごしている最中もずっと。
そこで結城医院を思い出した。あの人達なら助けてくれるかもしれない。そう考えた。
だが、どうだ。行ってみると京介は診察中だった。受付にいた綾子が「もう少し時間がかかるから、ちょっと待っててくれるかな」と言った。
ああ、結局そうか。結局彼らは仕事に過ぎない。自分の話など仕事でしか聞いてくれないのだ。
詰まる所、悠一は本当の空っぽだった。
棘の抜けた跡がじくじくと痛んだ。そこから悠一の中の空洞へと、えたいの知れない何かが湧いて来る。
それから、その後はどうしたろう。全く記憶に無いが、いつの間にか悠一はこの夢の中にいた。この見慣れた景色の中に。
最上階の
要するに、この瞬間――この瞬間だけか。悠一を受け入れてくれるのは。この暖かな赤以外、腹の底に溜まった不吉な塊を溶かし、空白を染めてくれる物は無い。この熱が
ここにいれば、一人じゃないと感じられる。
もっと近くに行きたい。もっと溶けてしまいたい。そんな衝動に満たされる。
悠一は喜びに浸りながら目の前の手摺へとよじ登った。更に近くなった太陽が悠一を迎えてくれる。ふいと吹き抜けた風が前髪を揺らし、それにさえ満足して目を細める。眼鏡のレンズが陽光を返して輝いた。
さあ、あとはいつものように―――
「待てぇぇぇぇぇっぇぇ!」
絶叫が夕熱の中にこだました。
それと同時に、一歩を踏み出しかけていた悠一の体が、逆に背後へと引っ張られる。ブレザーの裾から力が籠められ、それで後ろへと転び落ちた。
「痛ったあ」
「痛ってえ」
何が起こったか、そんな声が重なった。
一つは悠一自身の物。突如、後ろに引き倒されて肘の辺りを床にぶつけたのだ。だが、他には眼鏡が飛んだぐらいで怪我も無い。と言うのも、誰かが下でクッションになったからだ。その人物こそ、もう一つの声の主、結城京介だった。
「よ、よか、良かった。間に、合った」
京介は床に転がったまま、息も絶え絶えに安堵した。赤い毛並みの生え際には、この時期にもかかわらず大粒の汗が浮かんでいる。
状況が理解出来ない。京介の上から退きながらも悠一は
「な、何でここに・・・」
「あ、アイツが、早くしないと、ヤバイって、言うからさ。それで、急いで」
口の端を釣り上げて笑った京介の指した先は一つ下の踊り場だ。霞む目を凝らせば、そこに詩緒里の平然としたシルエットが有った。
「で、でも、これは夢じゃ・・・。あ、いや、これも幻?」
混乱する悠一に、京介は頭を振った。
「違う。これは、現実だよ。黒木君は今、そこから飛び降りようとしていたんだ」
「そ、そんな」
身体の自由になった京介は、息を整えながら座り直す。そうして、近くに転がっていた悠一の眼鏡を拾った。
「詩緒里は、君が尋常じゃない精神状態だと感じたらしい。この場所に惹かれ過ぎて、もしかすると、命も危ないかも知れないってな」
眼鏡を渡してから、京介は手摺に背中を預けて座り込んだ。暑かったのか、着ていた白衣をはだけ、ワイシャツの首元を緩める。ようやく息の乱れも収まって来ていた。
「何か、有ったのかい?」
そう問われて、どう答えれば良いのだろう。
別に悠一は飛び降りたかったのではない。死にたかったのではない。ただ、自分の空っぽさ加減に疲れていたのだ。その虚しさと、そこへ溜まって行く粘着質の
その時、心に映ったのは夕日だ。以前も同じように虚しさを包んでくれた。あの瞬間しかない。この場所しかない。その思いが足を向けさせた。
それだけなのに、何故飛び降りようとまでしたのか。
悠一は言葉にならないまま、へたり込んでいた。眼鏡を手の中で
京介は無理に先を促さなかった。無言でじっと待っている。
そうしている内に日は沈み、赤い輝きが消えて行く。東から濃紺の闇が迫り、くすんだ空の中で一等星だけが鈍く
それでも京介は穏やかに待っている。ただ「ちょっと失礼」とポケットからラークの箱を取り出して、中身を
「どうも、止められないなぁ」
そう自嘲気味に零した。苦い芳香が風に流れて漂う。
その匂いに鼻をくすぐられて、やっと悠一も口を開いた。
「オレ・・・・・・・」
まとまりの有る話など出来ない。とにかく思い付くだけ、浮かび上がる感情とこれまでの経緯を並べて行く。普段からの社会に対する息苦しさ、夕方に抱く感慨、菜穂との関係、盗撮疑惑にその後の顛末。本当に
それでも京介は文句も言わず聞いてくれた。相槌を挟み、悠一の語りたいように語らせてくれた。
「黒木君は今まで苦しんでいたんだね」
話しが一段落した所で、京介はそうそっと呟いた。吐き出すだけ吐き出して、多少落ち着いて来た悠一は、力なく頷いた。
「そうかも知れません」
「それでも誰を恨むでもなく、自分で何とかしようと努力して来た。それは立派な事だよ」
「そんな。でも、俺なんて・・・」
「空っぽだと?」
悠一は黙って首肯した。先ほどよりは落ち着いているが、そう思うとやはり胸が痛む。そこから込み上げる物が有って、悠一は硬く唇を
近寄って来た京介が、そっと悠一の背中をさする。
「結局、オレは今井さんにも見捨てられていたから・・・」
「その今井さんは、本当に君を見捨てたのかな?」
「そりゃあ! ・・・・・・あ、でも」
頭の冷えたせいか、やっとその当たり前の事に気が付く。
そもそも誰だって百パーセント他人を信じるのは難しい。悠一自身、菜穂に信用を望みながら、その信用その物を疑っていた。それで菜穂にばかり失望するのはあまりに身勝手だ。
そう口にすると、京介も「そうかもな」と同意した。
「人を信じるってのは中々難しい。俺も、友達とか、嫁さんとか、信じたくても不安になる時が有るよ。それは特別な事じゃない」
「ええ・・・」
「でも、そうやって疑ったとしても、黒木君達はお互いを大切な存在だと思えている。それはとても良い関係なんじゃないかな」
「それは、まあ。けど、オレはなっちゃんが大切だけど、あっちもそうとは・・・・・・」
「きっと、同じだと思うよ」
「だって! 何でそんな事、言えるんですか」
悠一は思わず吐き捨てた。やはり、相手を信じるのは難しい。相手を信じていたい。そう思えば思うほど、それが空振った時も恐ろしくなる。辛い経験ばかりしているせいか、悠一はその恐怖を乗り越えられない。
「そうだな。黒木君の言う通り、本当の所は確かめようがない。ただ、俺は思うんだ。その今井さんが君を疑ったと告白したのは、誠実でいたかったからじゃないかな。大切ではない相手に、そんな気持ちになると思うかい?」
「え、あ・・・」
そうだ。そうなのだ。あの時、菜穂は誤魔化せたはずなのに、誤魔化さなかった。嘘を
悠一は、やっと京介の言う通りかも知れないと思えた。菜穂は悠一を見捨てていたのではない。見捨てたくなかったから、疑ったとまで教えてくれたのだ。
「オレがバカだったんだ・・・・」
もう少し信じる気持ちが有れば、見え方の違う物も有ったかも知れない。新たな関係が生まれていたかも知れない。
「あっ」そこまで考えて、はたと気付く「そうか、そうだったんだ」
「ん? どうかしたのか」
悠一はその新たな気付きに
「オレは本当にバカだった。勘違いしてたんだ。アイツは、俺を殺そうとしてたんじゃなかった。なのに、オレが、アイツを突き放したなんて、最悪だ・・・」
「黒木君・・・・・・」
「けど、もう手遅れだ。だって、アイツは――」
今更だ。今更気付いても遅い。疑うばかりだった悠一は、差し伸べられた手さえ知らずに打ち払っていた。それは同時に、自分自身を拒絶する行為でも有った。
「いえ。まだ間に合うかも知れない」
唐突にそう声がした。振り仰げば、床の真ん中で
「あの気配、思念は確かに消えかかってる。私でももうその波は感じられない。普通なら、探し当てる事も出来ない」
「じゃあ、やっぱり・・・」
「けれど、私達が協力すれば、何とかなるかも知れない」
「え?」
戸惑う悠一を
「兄さん」
「ん?」
「兄さんなら、気配を掴めば、あの思いが抱く光景を再現出来るでしょ?」
「ああ。多分な」
「なら、私が黒木君の力を借りて、気配を伝える」
「力って、どうすれば・・・?」
自分には何も特別な事は出来ない。そう悠一が首を傾げると、その眼前に詩緒里の手が差し出された。
「手を取って」
「手を?」
「兄さんも。それから兄さんと黒木君も、お互いに」
言われるがまま手をつなぎ合うと、三人が一つの輪になる。
京介の手は前と同じく柔らかく温かい。それでいて、がっしりと力強くもある。詩緒里の手は女子特有の
「黒木君は、あの気配を思い浮かべて」
「う、うん」
「そうすれば、私を通じて波を感じられるはず。あなたなら、きっとあの気配が感じられるはずだから」
悠一は決意を込めて
「俺も準備オーケイだ」
京介がそう宣言する。夜の暗さの中で三人は視線をかわし、心を一つにした。
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