"Secret"
誰に遠慮することなく絵本が選べるし、ケーキも焼き菓子も全種類揃っている。なにより、
だからその日の夕方も、結人は急ぎ足で《ブラックバード》へ向かっていた。
メインストリートから一本入って、いつもの道を進んだところで、
(……ん?)
けれどいつもとは異なる光景に、結人はピタリと歩を止めた。
――《ブラックバード》前の道に、ワゴン車が二台、停まっているのだ。そして店へと下りる階段の横では、見知らぬ女性と佳野が立ち話をしている。
結人の姿に気付くなり、佳野はにこやかに会釈をしてくれた。結人も挨拶を返しつつ、彼らの近くへ寄っていく。
「こんにちは、佳野さん。……店で何かあったんですか?」
聞きながら、結人はさりげなく女性を観察した。いわゆる"都会の女性"なのだろう。しっかりめのメイクに、少し崩したラフな服装がよく似合っている。
女性もまた、探るような視線を結人に向けてきた。が、それも一瞬のことで、すぐに営業用とわかる笑顔に切り替える。
「どうもー! 私、こういう者でしてー」
差し出された名刺には、大手出版社の名前とともに、女性向けファッション誌と思しき華やかなロゴが配置されていた。
「……雑誌の編集者さん?」
きょとんとする結人に、佳野が「実は」と口を開いた。
「《ブラックバード》を撮影に使いたい、とのご連絡をいただきまして。店の名前を出さないことと、内装をいじらないことを条件に、昼過ぎからお貸ししているのです」
編集者の女性も、ニコニコ顔でうなずいている。
「隠れ家的カフェを探してたんで、《ブラックバード》さんがドンピシャなんですよ。うちの読モもテンション上がってるみたいだし、本当に助かりましたー!」
"読モ"とは、結人の記憶によれば"読者モデル"の略である。今やファッション誌にとって、なくてはならない存在であるらしい。
(そういえば梅屋も、"プリン"みたいな名前の読モが好きって言ってたっけ)
その読モが好きなあまりに、大学内のコンビニでファッション誌の取り置きを頼んだこともあるらしい。正直なところ、結人には、梅屋の気持ちが理解できなかった。
(もしかして……僕が精神的に枯れてるだけか?)
落ち込む結人に目もくれず、編集者は佳野に笑いかけていた。
「それで、店長さん。さっきのお話なんですけど、真剣に考えてもらえませんか? ウチでデビューすれば、確実に人気出ると思うんですよねー」
「先ほどから申し上げている通り、私はそういったものに一切興味がございません」
わずかに眉を下げ、佳野が地面へ視線を落とした。
察するに、どうやら佳野は、モデルとしてスカウトされ続けていたようだ。
(佳野さんって本当に綺麗な顔してるし、勧誘したくなる気持ちもわかるけどさ)
だが、これは少々強引だ。嫌がる佳野を差し置いて、編集者は一人で話を続けた。
「まずはウチの人気企画『街角オシャ
「ですから、私は」
「とりあえずー、今から試しに撮ってみません? 下にいるスタッフに声かけて、読モと一緒に写ってもらって……」
編集者は諦めない。佳野がどれだけ断っても、めげることなく勧誘を続ける。
(…………これ、ヤバいよな?)
結人は、以前にも似たような光景を見たことがある。たしかあの時は、営業マンが相手だった。そして現在もまた、佳野の微笑は少しずつ硬化を始めている。
それを感じ取った瞬間、
「あのっ!」――結人は、編集者に向かって声を上げていた。
「今日ここで撮影してる読モさんって、どんな子なんですか?」
「えっ?」
編集者が、怪訝な顔をする。それに気付かないふりをして、結人は朗らかに喋り続けた。どうにかして、話の流れを変える必要がある。
「僕はここでバイトしてるんですけど、ぶっちゃけ大学内のコンビニで雑誌を取り置きしちゃうぐらい好きな読モさんがいるので、今もドキドキして大変なんですよ」
「……今日は
「え、理音ちゃん!? ……うわーどうしよう、まさか大好きな理音ちゃんが来てるなんて! あの子、マジでアイドル級に可愛いですよねっ!」
"理音ちゃん"について、もちろん結人は何一つ知らない。それでも、編集者の意識を逸らしたい一心で、懸命に演技を続けた。傍らの佳野が、感動したように「結人さん……!」と呟く。
五分ほど頑張ったあたりで、スタッフたちが地上に戻ってきた。撮影が終了したのだろうか。彼らに続いて、なんとも可愛らしい女子が、トコトコと階段を上がってくる。
「あっ、店長さぁん」
金に近い色の髪を揺らし、彼女は佳野のもとへ走り寄ってきた。
「今日はありがとうございました! とても素敵なお店だったので、理音もすっごく楽しかったです。次は美大のお友達と一緒に来ますね~」
「光栄です」と佳野が微笑みを返す。すると彼女――理音という名の読モは、
「こちらは店員さんですか? 今日はお世話になりました!」
結人に対しても、まばゆい笑顔を向けてきた。
その途端、胸の辺りがぎゅんぎゅん痛んだ。正直、彼女のことが直視できない。
(こっ、れは、もう、なんていうか……死ぬ!)
ようやく梅屋の気持ちが理解できた。理音は、可愛すぎる。この笑顔に落ちないなんて、よっぽどの変人か、あるいは悟りでも開いているに違いない。
……その辺りから、結人の記憶はあやふやだ。どうも理音の放つオーラにやられたらしい。気付いた時には、理音もスタッフも撤収を終えた後だった。
「読モってすごいんですね……」
呆然と、そんなことを口にする。佳野はちょっとだけ笑って、「まいりましょうか」と歩き出した。
佳野と二人、階段を下りて店に入る。
《ブラックバード》店内は、テーブルや椅子の位置も変わっていなかった。
しかし結人は、カウンターに、ブランド物らしきポーチが転がっていることに気が付いた。誰かの忘れ物だろうか。不思議に思って手に取ると、
「あっ!?」
どうやらファスナーが開いていたようだ。結人が少し持ち上げただけで、マスカラや日焼け止めクリームなどが、ポーチからこぼれ落ちていく。それらは硬い音を立てて、カウンター上に散らばった。
結人の前にも、口紅のフタらしきものが転がってくる。あまりの惨状に、結人は頭を抱えたくなった。
「あああ……!」
「大丈夫ですよ、結人さん。フタが外れただけで、決して折れたりは――、?」
口紅の本体部分を拾い上げて、しかし佳野はわずかに首を傾げる。
結人も、すぐに理解した。
「これ、口紅じゃなくて、口紅そっくりのUSBメモリだったんですね。でも、どうして化粧ポーチなんかに」
「……。とにかく、元のように戻しておきましょうか」
そのとき、誰かが階段を駆け下りてくる音がした。結人が振り向くと同時に、勢いよく扉が開けられる。
走り込んできたのは、理音だった。肩で息をする彼女は、顔にも首筋にもびっしょりと汗をかいている。
「……はぁ、はぁ、……わ、忘れ物、しちゃっ、て……」
「もしかして、これですか?」
結人がポーチを掲げると、理音は瞳を見開いた。それから、ゆっくりと笑顔を作ってみせる。
「店員さんが見つけてくださったんですね。どうもありがとうございます! それ、理音の大事なものなんですよ~」
ポーチから視線を外さずに、理音はその手を差し出した。早く渡せ、ということか。
(なんか……目が笑ってないような気が……?)
どういった理由かは知らないが、彼女は全神経をこの瞬間に集中させているようだ。何としてでも確実にポーチを取り戻す――そんな決意まで伝わってくる。
ともかくポーチを渡してやると、理音は深く息を吐く。そして「お疲れ様です~」と甘い声を残して、再び階段を上がっていった。
「……なんだったんですかね、今の」
混乱しきりの結人に、佳野は優しい眼差しを向けた。
「人間とは、誰しもが秘密を抱えているものでしょう?」
私も、そしてあなたもね。――言葉の終わりに、そんな囁きが聞こえた気がした。
「さてと。私は掃除を始めさせていただきますね。すでに開店時刻を過ぎておりますし、急がなければ……」
「あ、僕も手伝いますよ!」
結人の申し出に、佳野は驚いたように瞬きを重ねる。少しだけ戸惑う様子を見せた後、「助かります」と嬉しそうに口角を上げた。
その美しい微笑みを目の当たりにした結人は、
(モデルをしないのは、やっぱりちょっと勿体ないかも)……などと思ってしまった。 絶対に、本人には言えないけれど。
(終)
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