"Nail"
その日。
《ブラックバード》にやってきた
(……どうしたんだろう?)
開店五分前の現在、店内に客は結人だけ。理由を尋ねるなら今のうちだが、どうにも
そうこうしているうちに、佳野がメニューと水を運んできてくれた。
まさにその瞬間。
結人は、佳野の”理由”を察してしまった。
「あれ?」
グラスを置いてくれた佳野の手。そのささくれ一つ無い綺麗な親指の先で、白い猫のキャラクターがウィンクしていたのだ。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が、二人の間に舞い降りた。結人もまた、そわそわとメニューの角をいじってしまう。だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
「ええと、佳野さん」
「…………」
「そのネイル、リボンのしわまできちんと描いてあってすごいです、ね」
「……ええ……本当に……」
佳野の目元に、うっすらと赤みが差していく。そして、親指を隠すように握りこんでしまった。
――結人の知る限り、こんなことをしでかすのは一人しかいない。
「マリイさんですね?」
結人の問いに、佳野はサッと視線をそらした。
「実は、昼過ぎに関内を散歩しておりましたところ、……マリイ様と出会いまして」
『ハンドマッサージしてあげる♡』と言って、マリイは自らの経営するネイルサロンへと佳野を連行した。どうにも断りきれず、しかしハンドマッサージならばまあいいかと思っておとなしくしていたところ――
「マリイ様によるマッサージはもちろん、ソファも音楽も大変に心地が良かったもので……、ほんの一瞬だけ、うとうとしてしまいまして」
どうやら、その隙にネイルを施されたらしい。
左手の親指だけとはいえ、成人男性の爪に猫のキャラクターを描くとは、マリイもなかなか恐ろしいことをする。
内心怯える結人をよそに、佳野は左手を哀しそうに見つめた。
「開店まで時間がありませんでしたので、仕方なくそのまま過ごしておりますが……やはり皆様、気になさいますよね……」
落ち込む佳野が可哀想になってきて、結人は懸命に言葉を探した。
「爪なんて、みんなそれほど見てませんよ。それに佳野さんって美人だから、ネイルしてようが口紅つけてようが、そこまで違和感ないはずです」
「それはそれで大変複雑ですが……、少しだけ心が楽になりました」
ありがとうございます、と言って、この日初めて佳野が微笑んでくれた。
そこでドアベルが鳴り響き、黒い扉が開いていく。来店したのは、山高帽がトレードマークの紳士――学者の
蓮沼もまた、《ブラックバード》の常連である。結人とは、とある事件がきっかけで知り合っていた。
「こんにちは、
やあ、と蓮沼が手を挙げる。
その指先は、何やら妙に彩りが豊かだ。佳野も同じことに気が付いたらしく、蓮沼の手を見つめて固まっていた。
小さく息を呑み、結人は恐る恐る問いかける。
「蓮沼さん。その爪って、まさか……」
「ああ、これかい? マリイくんに、ちょっとね」
蓮沼は恥ずかしがることもなく、両手の甲を結人たちのほうに向けた。クマやヒヨコのキャラクターたちが、爪先でのんびりとくつろいでいる。
聞くところによれば、蓮沼は昨日、
(こ、怖い……!)
震え上がる結人だが、しかし蓮沼は、なぜか嬉しそうな顔になっていた。
「いやあ、まいったよ。講義室に入った途端、『教授かわいい~!』と女子学生に囲まれてね。講義に入るまでに結構な時間を費やしてしまったし、講義の後もスマートフォンを向けられ続けるしで、何かと大変だったんだ」
これが大人の余裕というものか。
だが結人としては、そんな事態は絶対に避けなければならない。
「参考までにお伺いしますけど、蓮沼さんは『何時頃に・どこで』マリイさんと遭遇なさったんでしたっけ?」
「昼の一時過ぎに、関内だね。有隣堂本店を出たところだったかな。マリイくんはね、最近あの辺りの店で昼食をとっているらしいよ。……それがどうかしたのかい?」
「いえ、別に」
乾いた笑いを返していると、佳野が真顔で口を開いた。
「私がマリイ様にお会いしたのは、たしか三時頃のことでしたよ」
「……貴重な情報、ありがとうございます」
結人は心のメモ帳に、蓮沼たちの言葉を刻み込む。
(昼の関内には近寄らない! 絶対に! ……何があっても!!)
それこそが、己の身を守るための、最良にして唯一の方法だ。
――しかし、この時の結人は知らなかった。
そう遠くないうちに、結人もまた、マリイに捕まってしまうことを。
(終)
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